(六)

文字数 2,228文字

 冬も終わりに近づいた天気の良い日、普段は奴隷のゲルなどに近づくことの無い、ゲイック・イルキンの息子アユンが、小屋の外で黙々と字を刻み続けるリョウを、何か不思議なものを見るように見ていた。アユンはリョウより少し年下だったが、いずれイルキン(部族長)の役目を継ぐのだと、リョウは聞いていた。そんなアユンにリョウから声をかけることはできないが、その日は、アユンの方から声をかけてきた。

「おい、リョウ。お前は、何のためにそうして毎日石を彫っているのだ?」
「長安の俺の祖父は石屋。石を彫る、字を書く、祖父の仕事。俺、小さいとき、石を彫った」
 リョウは、ようやく覚えて来た片言の突厥語で一生懸命に答えた。
「そんなものが面白いのか?何かの役に立つのか?」
「わからない。ただ、石に向かう、何も考えない。彫っているとき、安心する」
「お前のことを、王爺さんが親父に話しているのを聞いた。漢字を習っているので、唐の商人との手紙のやり取りの仕方を教えたいとか。そんなことをする暇があれば、もっと農作業や羊の世話をさせろと、親父は言っていたが、リョウはちゃんと仕事もしていると、王爺さんがかばっていたぞ」

 もっと仕事をさせろというゲイックの言葉は、リョウにも理解できたのでヒヤリとしたが、アユンはお構いなしに続けた。
「そういえば、お前は、その道具を木に向かって投げていたな。それはそういう使い方もするのか?」
「ごめんなさい。これは石を彫る道具、(のみ)です。石彫に疲れた時、木に当てて遊ぶ。許してください」
 奴隷は、悲しいかな最初に覚える突厥の言葉は、「ごめんなさい」と「許してください」だった。リョウは、石鑿(いしのみ)が武器であると悟られると、取り上げられてしまうかもしれない、と思ってその言葉を使ったのだが、アユンはそんなことは気付かずにリョウに言った。
「俺も、その鑿を投げてみたい。どうするのだ」
 アユンは、そう言ってリョウが使ってない方の石鑿を、台の上から取り上げた。

 その日リョウは、漢字の輪郭を彫るために、祖父の形見の特殊な長い鑿を使っていた。アユンが手にしたのは、石屋一族が戦に出るときに武器として携帯する、飛刀として使えるように柄も刃も細身に細工した石鑿の方だった。
 唐で暮らしていた頃リョウが持っていた石鑿は、腰の革帯に装着する飛刀六本と、母との別れ際にもらった祖父の形見の一本だったが、唐の部隊に襲撃されたときに、飛刀三本を使ってしまい、残されたのは祖父の形見を入れても四本しかなかった。
 刃先に硬い特殊な鋼が仕込まれた祖父の形見の石鑿は、石に繊細な線を彫るのに優れているだけでなく、金槌と一緒に使えば、どんなに硬い岩をも割ることができた。しかもそれは、武器として使っても、飛刀というよりは短剣代わりに使えるものだとリョウは気付き、密かにそれを「破岩剣」と称していた。リョウはその破岩剣をそっと台の下に隠すように置くと、アユンが持ったものと同じ飛刀用の石鑿一本を手にして、栗の木の前に進んだ。

 リョウは、栗の木の手前十歩程の所に立ち、石鑿の柄尻(えじり)を右手の(てのひら)で支え、伸ばした指先に沿わせて刃を包むように持った。こうすると、指の先からは刃先だけが出ているようになる。左足を半歩前に出し、膝を少し曲げて斜めに構えると、左手を的の方に伸ばしながら、石鑿を持った右手をゆっくり頭上に上げ、「エイッ!」と気合を発して振り下ろした。ヒュンと風を切り、石鑿は栗の木の幹にドスっと刺さった。
「オオッ!」
 アユンが驚きの声を上げ、すぐに自分も同じように構えて、「エイッ」と投げたが、石鑿はクルクルと縦回転して、()の辺りを木に当ててポトリと落ちてしまった。
「どうしてお前のはまっすぐ刺さって、俺のは回ってしまうのだ」
「それは、持ち方。そして、投げるとき、鑿に力を与える。練習すれば、まっすぐ刺せる。アユン様は初めて投げた。木の幹に当てた。素晴らしい」
「ハハハ、俺は石で兎を仕留められるからな。それに俺には弓があるし、やっぱりこんな石を彫る道具を投げても、面白くはないな。お前は弓を射ることはできるのか?」
「はい、昔、動物を獲るために使った。この村に来た時、彼らが持っていった」

 リョウは、長安の北の草原で暮らした時に、馬上から騎射ができるほど、乗馬と弓の腕を上げていた。草原の戦いでは実戦でも短弓を使ったのだが、そのことは、アユンに警戒されるのを恐れて伝えなかった。それに、実戦で使ったと言っても、敵を倒せたのかどうかも分からず、父の助けにならなかったことを、少し恥じてもいたからだった。そんなことは気付かずに、アユンが言った。
「それでは、そのうち、弓比べでもするか。それより、今日は、お前がどんなものを彫っているのか見たいと思って来たのだが」
 リョウは、アユンの求めているものが、石板に彫った漢字などではなく、石や木を彫った動物の彫刻であろうと見当を付けた。偉そうにしているが、まだ子供っぽいところもあるからだ。
「あなた様の名前は熊。熊の彫刻は今ない。次、熊を彫る。アユン様に持っていく」
「そうか、それは楽しみだ。では頼んだぞ」
 そう言い残して、アユンはあっさりと帰っていった。アユンは思いのほか、さっぱりとした性格なのかもしれない、とリョウは思った。しかし、部族長の息子である。なにか気に障ることがあれば、たちまち殺されてしまうかもしれない。へたに親しくしてはいけないと、リョウは気を引き締めた。
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