(一)

文字数 1,783文字

 リョウはふと、畑の雑草取りの手を休めて空を見上げた。一年前に丘の上に寝転がって、のんびりと雲を眺めていた時と同じような白い雲が、高い空をゆっくりと横切っていた。短い夏の青い空は、一年前と同じように目に眩しかったが、リョウを取り巻く状況は、あの時とは大きく変わっていた。

 リョウとシメンが遭遇したのは、やはり突厥(とっくつ)の一団だったが、武装しているのは先頭の二騎だけで、後ろには小さめの荷馬車が一台と、背に大きな荷を乗せた二頭の馬が続き、平服の男たちがその手綱(たづな)()いていた。唐の村での交易の帰りなのだろう。弓を持ったリョウを警戒してか、先頭の武人が駆け寄ってきたので、リョウは敵意の無いことを示すために馬を下りて待った。
 その武人が何か語り掛けてきたが、その言葉は理解できなかった。身振り手振りで北に向かっていることを示していると、後方で荷馬車の手綱を曳いていた平服の男が追い付いてきて、漢語で話しかけてきた。ホッとして、「訳があって北に向かいたい」と言うと、一瞬、考える顔をしたが、結局その言葉をそのまま武人に通訳してくれたようだった。武人は、リョウたちに一緒についてくるように言った。

 まだ子供であることに安心してか、あるいは徒歩では足手まといになると考えたのか、弓は取り上げられたが、グクルにはそのまま乗っていくことが許された。通訳をしてくれた男は、自分を「張」と名乗っただけで、後は一言も発しなかった。リョウたちも無言でその後ろを進んでいった。集団は西北に進み、やがて高い丘を越えると、眼下に大きな河が見えてきた。
 それは初めて目にする黄河だった。丘はそこから黄河に向かって急勾配で落ち込んでいる。その斜面に、右に左にと曲がりながら川に下りる道ができていた。突厥の一団はこの道の先の船着き場を目指してきたのだと、張がようやく口を開いて教えてくれた。父親より少し年上のように見える張は、口数こそ少ないが、その話しかけてくる眼に険しさはなく、リョウは少しホッとした。

 近づくほどにその河は大きさを増し、リョウとシメンは思わず「すごい」と大きな声を出した。河は思いのほか静かに流れていたが、その水は泥水のように濁っていた。父はこの河を何度となく渡ったのだろうと思うと、父がどうなったか心配になったが、今は、目の前の河を渡らなければならない怖さの方が先だった。
 リョウもシメンも泳ぎ方を知らない。集落があった水飲み場の川は、歩いて渡れるほどの水しか流れていなかった。ここでは、はるか遠くの対岸との間を、すべてのものを呑み込んでしまうかのような、圧倒的迫力で大量の水が休みなく流れていく。怖さばかりでなく、その景色の雄大さには、思わず身震いするようだった。同じように感じていたのか、馬上でシメンが見返してきたが、その頬の傷はまだ生々しく、リョウはハッとした。グクルだけは、何ごともなったかのように落ち着いていた。

 船着き場らしきところに小舟はあったが、とても馬が乗れるようなものではなかった。武人の一人が、船着き場の役人に銭を渡し、渡河の許可を得てきた。しばらく河原に座って待っていると、下流から「ヘイヨー、ヘイヨー」という掛け声が聞こえてきた。何人もの船曳(ふなひき)人夫(にんぷ)たちが曳綱(ひきづな)を肩にかけ、背中を丸めて力をこめ、大きな平たい箱のような舟を上流へ引き上げてきているのだった。舟が着くと、武人が船頭にも何やら話をし、銭を渡しているのが見えた。

 河辺の杭につながれた箱舟に、突厥の者たちは船頭と一緒に慣れた手つきで、馬や荷物を乗せていく。リョウたちもグクルと一緒に先に乗せられた。最後に、張を乗せた大きな箱舟は、船頭が押し出す竿で岸を離れ、黄河の水に乗って下流に流されながら対岸に近づいて行った。見た目のゆったりとした流れとはうらはらに、思いのほか舟が速く進むので驚いたが、張が水を見ないで遠くを見ろと言ってくれ、そのとおりにすると怖さは無くなった。
 南には、河岸の黄土の向こうに狭い緑地と、さっきリョウたちが下りてきた広大な赤茶けた丘がどこまでも広がっているのが見える。その殺伐とした景色の向こうには、リョウたちが暮らしていた緑の草原が広がっているはずだが、舟はそこからどんどん離れて行ってしまうという思いに、リョウは胸が締め付けられた。隣のシメンも、じっと遠ざかる山々を見続けていた。
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