(九)

文字数 2,123文字

 傷のせいだろう、カヤはまたぐったりしてしまった。寝ているようだ。
 そのときリョウは、後ろからそっと近づく人の気配を感じた。
「振り向くな、静かにしていろ」
 ささやき声で語り掛けてきたその声は、ソグド語だった。
「お前は本当に危ないことをする。俺のように突厥語が分かる人間があの場に居たら、お前は殺されていたぞ」
 リョウが漢語で嘘を言っていたことを、その男は知っていた。
「俺は、アクリイに命を助けてもらったことがある。ここで借りは返させてもらう。あの隊長は残忍だ。今日は機嫌よく命を助けてくれても、明日も助けるとは限らない。人が寝静まったら、こっそり逃げ出すんだ」
 そう言って、抜身の小刀の柄をリョウの手に握らせると、そのまま後ろに下がっていった。

 リョウは、その男が康円汕だと確信した。康佇維からリョウの話を聞いたのだろう。円汕は、父を襲ったのがここの隊長だと知っているのだろうか。おそらく知らないのだろう。そうでなければ、恩ある父、アクリイを襲った隊長とは付き合わないだろう。それとも、それも承知で、商人として割り切って取引しているのだろうか。
 しかし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。早く逃げ出して、伏兵のことを伝えないと、アユンや自分と一緒に過ごしてきた仲間たちが殺されてしまう。リョウは、一瞬でも唐の軍に逃げ込もうと考えた自分が恥ずかしかった。
 しかし一方で、あれは自分の本心だったのではないか、とも思った。もし唐軍の隊長が父母の仇だとわからなかったら、自分は逃げずに突厥軍を陥れることに加担していたのだろうか。そのとき、自分は、死に行く突厥の仲間を、どんな目で見ていたのだろうか。答えは、リョウにもわからなかった。
 そんなリョウに、「俺は、命がけでお前たちを守る」と言った自分の声が、また聞こえてきた。その声が、迷うリョウの背中を押した。
――俺は、ソグド人の父と漢人の母の子だ。唐でも、ソグドでも、突厥でもない。自分がやるべきことをやるだけだ。自分に親しくしてくれ、自分を頼ってくれる者たちを、目の前にある危機からなんとか助けなくては。

 星の位置は、もう夜半過ぎになったことを示していた。奇襲部隊が出発するころである。夜明け前にはここに着いてしまうだろう。リョウは、尻の下に隠していた小刀を握り直し、後ろ手に縛られた手首の縄をゆっくりと切っていった。思いのほか、簡単に縄が切れたのにはびっくりした。西域製のよほど切れ味の良い小刀なのだろう。馬留の杭につながれた縄と足の縄も切り離した。
 もう歩哨(ほしょう)以外、誰も外で起きている者の無いことを確かめて、カヤをそっとゆすった。
「おい、カヤ、起きろ。歩けそうか」
 カヤが驚いたように目を開け、カヤの縄を切るリョウを見て頷いた。リョウは、カヤに手を貸して助け起こすと、その身体を支えながら、さっき康円汕が消えていった後方に移動した。そこは、林になっており、陣地の歩哨の眼を逃れるのに好都合だった。そのまま、林の中を、(かが)みながら、音を立てないようにゆっくり進み、陣地から百歩ほどのところで立ち上がると、林に隠しておいた馬を目掛けて走り出した。カヤも脚を引きずりながら必死についてくる。
 先に逃げた斥候の追跡で、隠した馬が見つかってないか心配だった。しかし、幸いにもカヤの馬も、リョウの馬も、一里先の元の場所に留まっていた。リョウは、カヤを助けて馬に乗せてやった。
「落ちないように、しっかりつかまれ。俺は、やることがあるから、先に行ってくれ」
 そう言って、カヤの馬の尻を叩いた。カヤが一瞬、不審な目を見せたが、声を出す気力も無いのか、そのまま走っていった。

 カヤを送り出したリョウは、自分も素早く馬に乗ると、右手の林を抜けて、その先の丘の上に向かった。丘は視線をさえぎるほどの高さではあるが、草で覆われ、走りやすい。星明りを警戒し、頂上手前で馬を降り、這って頂上に上った。
 リョウの眼は、初め何も見つけることはできなかった。遠くに高い山の連なりが見え、稜線が星明りにぼんやりと照らされている。その手前の森は暗闇に沈んでいた。その森の手前、自分が居る丘の下を見ると、暗闇の中にほの白い点々が無数に浮かんでいる。あれは何だろうと思っていると、かすかに灯が揺れた。星の光を受けた葉の(きら)めきかとも思ったが、それは焚火であることに気が付いた。目の前に広がる、無数のその白い点々は、さっきと見たのと同じ唐軍の天幕だった。
 深夜で寝静まっている中、歩哨の焚く火がリョウにその存在を気付かせてくれたのだろう。暗さに慣れてきた眼には、無数の馬の背もはっきりと見て取れた。
 そこは、さっき逃げてきた草地からは十里ほど離れていて、しかも丘で隠されていて見えないだろうが、馬に乗って走ればあっという間の距離だ。この騎馬軍団に、不意打ちで横から襲われたらひとたまりもないだろう。いや、七百騎の奇襲部隊では、正面からぶつかっても危ないかもしれない。
 リョウは、そっと後ずさりし、つないでいた馬に飛び乗ると、こちらに向かっているだろう仲間を目指して一目散に走った。途中、岩山や林、小川などの地形を頭に入れることも忘れなかった。
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