(二)

文字数 1,478文字

 出立の前日、いつものように、そしてそれが最後になると思いつつ、馬柵の前でリョウとシメンは会った。いつものように、そしてそれが最後になるとは知らずに、グクルがリンゴをもらいに来ている。
「こんなことになってしまって、シメンには本当に申し訳ない。突厥(とっくつ)に捕まらないように逃げていれば……、父さんの故郷の康国(こうこく)(サマルカンド)に向かって走っていれば、違っていたかもしれない」
「ううん、大丈夫。ツイジャクが言ってたけど、康国もツイジャクの故郷の安国(あんこく)(ブハラ)も、ここからはものすごく遠くて、とても連れていけるところじゃないんだって。だから、私たちは、もっと近い涼州や甘州のソグド人集落に連れていかれるらしいよ」
「そこだって、ここからはずいぶん遠い所だろう」
「そうだけど、突厥でこのまま奴隷でいるよりは良かったのかなって。もちろん兄さんと離れるのは寂しいけど、いつかは必ず出て行かなければいけないのだから」
「そうだな。ソグド人の村なら、いつか父さんが来てくれるかもしれない」
 シメンがリョウの顔を見上げ、それから(うつむ)いた。
「これは言ってはいけないのかもしれないけど、もう父さんと母さんは、来ないと思う。兄さんも、本当はそう思っているのでしょ。私ががっかりしないように、ほんとのことを言えないだけで」
 リョウも、これほどの長い間、まったく音信もないのは、やはりあの草原の戦いで二人は殺されてしまったのだろうと思っていた。
「それはわからないけど、とにかく父さんは北へ行けって言ったんだ。それは、その方が生きていけるし、父さんもこの北の風土が嫌いじゃなかったからだと思う。それに、ここから西に向かえば、父さんが何回となく往復した西域の国々につながるのだから」

 ここに来たばかりの頃は、「北へ行け」と言った父は、リョウとシメンが奴隷になることまでは考えなかったのだろうか、そんな恨み言の一つも言いたい気分だった。しかし、冷静に考えてみれば、あの草原の戦いの折り、他の選択肢があっただろうか。南の長安の方向に戻ったら、ほぼ確実に父を襲った一団に拉致され、殺されていただろう。それは西に行っても、東に行っても唐の勢力圏内で、しかも黄河に阻まれていて、いずれは同じことだった。わずかでも命を永らえる希望があるとすれば、それがたとえ奴隷になることを意味していたとしても、北に向かうしかなかったとわかる。
 そしてそれ以上に、父は「風の吹き渡る草原に行け、自由な大地に行け」と言いたかったのではないだろうか。奴隷はもちろん束縛され、自由などないが、この北の草原では武人も平民も奴隷も、厳しい季節に耐えて生きるために、皆で一緒に暮らすというおおらかさがある。それは唐の身分社会とはまったく違うものだった。ソグド商人として、何千里もの旅を日常としていた父は、唐という国では得られないその気風に、子供たちが生き延びるわずかな希望を賭けたのではないか、リョウは強くそう思っていた。

「ここでは、悦おばさんもいたし、あまり嫌なことは無かった。お腹はいつも空いてたけどね」
 話が暗くならないようにと、敢えて笑顔で話すシメンの顔を、リョウは、これが最後になるかもしれないという思いを込めて見つめた。
「必ず、いつかシメンを迎えに行くから。……母さんの首飾り、無くすんじゃないぞ」
 シメンは無言で、二度三度とうなずいた。そのシメンの顔が、それまでの笑顔からみるみるくしゃくしゃになり、涙が両眼から流れ落ちて来た。リョウはそれ以上何も言えずに、抱きしめることもできずに、ただ震えるシメンの手をぎこちなく握り続けた。
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