(一)

文字数 1,954文字

 やがて春が来て、一族は冬営地を引き払い、もと居た北の草原に移動した。
 厳しい冬を干し肉でなんとか乗り越えた皆の楽しみは、なんといっても羊を屠殺し、新しい肉を食べ、美味しい肉汁を飲んで精力を取り戻すことだった。奴隷たちも、そのおこぼれにあずかることができる。
 
 こうして、農作業と家畜の世話をする忙しい日々が、また始まった。大工だった巧は、器用なリョウを気に入って、何かと大工の技を教えてくれた。大きな建物を作ることはなくとも、木箱を作ったり、煉瓦を焼いたり、井戸の修理をしたりと、なんでも手掛けていた。大工仕事のほかに、馬具や武具の手入れもした。
 好奇心が旺盛なリョウは、石刻もしばし忘れて、時間があれば巧の手伝いをした。手伝いだけでは足りずに、リョウは張に頼んで、できるだけ巧の仕事を一緒にやらせてもらうことにした。農作業や羊の世話よりも、自分に合っていると思ったのだ。

 仕事の合間に、巧は仕掛箱の作り方をリョウに教えてくれた。これは、一見普通の箱に見えるが、どこからも開けることができず、側面の板を何か所か決まった順番に動かすことで、ようやく上蓋(うわぶた)が開くという仕掛けの箱だった。側板と天板にそれぞれ特殊な凹凸をつけ、それを組み合わせて作るので、器用さだけでなく全体の構図を立体的に頭に浮かべて作業する能力が必要になるのだが、なんでも熱中するリョウは、ほどなくその技も使えるようになった。

 リョウは、シメンにも石で羊や兎の彫刻を作ってあげたが、ふと思いつき、シメンの宝物を隠す箱を作ってあげることにした。草原の戦いの折、父は母の首飾りをシメンの首にかけてくれた。それは、西域の石に革ひもを通したもので、草原からの逃避行のときには、シメンが腹帯の中に忍ばせていた。そのため、奴隷になったときにも見つからずに、今でも隠し持っているものだった。リョウは、まずその首飾りを入れる小さな仕掛箱を作り、さらにそれを木彫りの馬の腹に仕込んで、見つけられないようにした。

 草原では、以前のように、まだ明けきらぬ早朝にシメンと会える時間が戻ってきていた。リョウは、シメンに母の首飾りをこっそり持ってくるように言った。
 その日も、まず微かな白い光が、はるか遠くの暗闇を天と地に分け、やがてその地平線は薄い青へと光を増しつつあった。遠くのゲルでは、早起きの炊事番も未だ動き出しておらず、静寂の中で鼻から吸い込む冷たい空気が気持ちよかった。
 いつものように集落のはずれの馬柵に寄りかかると、シメンが、隠し持ってきた母の首飾りを(てのひら)に乗せた。その石は濃い藍色で、ほの暗い朝の光の中では沈んで見えるが、ひとたび太陽の光を受ければ、その磨かれた石の色は深みを増し、天然の石の模様がゆらゆらと揺れて輝くことをリョウは知っていた。

 リョウは、シメンからその首飾りを受け取ると、辺りに人のいないことを確かめ、シメンの首に掛けてあげた。シメンは漢人の母から受け継いだやや卵形の顔に、ソグド人の父親から受け継いだ(あお)い瞳と高い鼻を持ち、全体としてみれば西域風の整った顔立ちをしている。
「シメン、すごくきれいだよ。母さんがそれを、毎日首に掛けていたのを覚えているかい」
「うん、覚えてる。草原に来てからだよね」
「そうだ。シメンは忘れたかもしれないけど、それは父さんが母さんと結婚した時に贈ったものなんだ」
 そう言ってリョウは、目に焼き付けるように、首飾りをしたシメンの顔を見つめた。その左の頬には、草原を逃げた時の矢傷が今も残っていて、シメンには本当に申し訳ないことをしたなと思ったが、それを言えばそれだけ心の傷を深くすると思い、何も言わなかった。そして、そっと首飾りを外してやると、それを仕掛箱にしまい、さらにその仕掛箱を木彫りの馬の腹に仕込んだ穴に埋め込んで蓋をした。
「こうすれば、首飾りを誰にも見つけられずに、持っていることができる。開け方は教えてあげるから、この馬の木彫りは人に盗られないように泥で汚しておくといいよ」
「うん、わかった、ありがとう。でも、この馬はグクルによく似ているね」
「ああ、よくわかったね。グクルのつもりで彫ってみたんだけど、似ているって言われると嬉しいよ」
「そう言えば、今度の夏祭りに馬の競争があるでしょう。私もグクルに乗って出てみたいな」
「そんなことができるのかな。悦おばさんに聞いてみたらどうだろう」
 
 シメンとの楽しい会話や笑顔が、いつまでも続くものではないという別れの予感に、リョウは、今この時を大事にしたくて、陽が昇る速さを遅くできないかと切実に思った。しかし、まだ地上に顔を出さない陽の光を下から受けた雲は、次第に薄赤紫の色を濃くし、見事な(あかね)色に染まっていった。もう帰って、仕事を始めなければならない時間だった。
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