あとがき

文字数 2,083文字

 「石刻(せっこく)()」とは、石に文字や絵を彫刻し、あるいは石塊(せっかい)から彫像を彫り出す高い技能を持った人をイメージして、私が作った言葉である。石職人を指す言葉としては石工(いしく)あるいは(いし)大工(だいく)もあるが、より高い技術とプロ意識を持った専門職を指す言葉として、石刻師がふさわしいと考えたのである。
 しかし「石刻師リョウ 草原の風」を最後まで読んで頂いた読者の皆様は、リョウは未だ石刻師にはなっていないのではないか、と思われるだろう。まさに、その通りであり、それはひとえに私の遅筆のなす所以(ゆえん)である。
 実は、「石刻師リョウ」の構想当初は、唐の都、長安での、石刻を通しての仲間との出会い、宮廷貴族との交流、軍閥との抗争などを描くつもりだった。しかし、リョウの子供時代を書いているうちに、どんどん話が膨らんできた。それは、キャラクター自身が、私の思惑を超えて勝手に育っていくという、不思議な感覚だった。
 そこで、リョウの子供(12歳)時代から大人になりかけ(17歳)までの物語を、「草原の風」として、独立して公表することにしたのが本作である。リョウが本物の石刻師になるには、まだまだ時間がかかりそうである。その先は、「荒原の道」、「燎原の火」と続ける構想はあるのだが、はて、何年かかることやら。

 ここで、時代背景を少し見ておきたい。「草原の風」の舞台は、黄河の大屈曲部(現在の中国、オルドス地方)から始まり、さらに北の突厥(とっくつ)の草原(現在のモンゴル高原)へと進む。
 テュルク系騎馬遊牧民の国家である突厥(とっくつ)が、ユーラシア大陸東部、モンゴリア西部のアルタイ地方に勃興したのは、6世紀中葉のことであり、これは「突厥第一帝国」と言われる。隋が中国全土を統一する少し前に、東西に分裂し、東突厥はその後、隋及び唐と長年、抗争と友好を繰り返した。しかし、西暦630年、東突厥は唐に滅ぼされ、西突厥も657年、唐に敗北し支配下に入る。
 リョウは726年生まれという設定である。よって、リョウが捕らわれ奴隷として暮らした突厥(とっくつ)は、その第一帝国ではなく、西暦682年に再興された「突厥第二帝国」である。この第二突厥は、「十六 大会戦」に書いたように、742年にウイグル・カルルク・バシュミル三派連合に敗れ、744年には突厥に代わりウイグル帝国が成立する。リョウが奴隷戦士として活躍したのは、突厥が歴史から消えていく、まさにその頃のことである。なお唐で安史の乱が勃発するのは、これから約10年後の755年である。

 数年前、私は誘われてモンゴルの旅をした。ゲルに泊まり、モンゴル馬に(またが)り羊や牛を何キロも追った。あの経験がなかったら、「沙漠」と「砂漠」の違いも書けなかったろうし、ゲイックが酒を手に「この地の精霊に」と言いながら、酒で濡らした指先を空中にパチンと(はじ)く場面も書けなかったろう。誘ってくれた友人と、親切なモンゴル人のガイドさんに感謝である。

 しかし、それだけで遊牧騎馬民族の生活や戦いを書けるわけでもない。本書の執筆に当たっては、遊牧民の歴史等を研究されている諸先生の著書を参照させて頂いた。主なものをここに記して、御礼申し上げたい。

「シルクロードと唐帝国」 森安孝夫著 講談社学術文庫
「シルクロード世界史」 森安孝夫著 講談社選書メチエ
「遊牧民から見た世界史(増補版)」 杉山正明著 日経ビジネス人文庫
「古代遊牧帝国」 護雅夫著 中公新書
「唐代の国際関係」 石見清裕著 山川出版社
「馬の世界史」 本村凌二著 中公文庫

 私自身は、歴史の専門家でもなんでもない。ただ、本書の時代背景を書くに当たっては、WEBなどの情報ではなく、できるだけこうした本に書かれていること、――その多くは出典などが明記された確かなものであるが、そういう情報に依りたいと思った。
 そうは言っても浅学(せんがく)菲才(ひさい)の身、自分の想像力で書かざるを得なかった場面も多い。ここは、森安孝夫先生の次の言葉をお借りして、ご容赦願いたい。
「(劇画などの三国志は)歴史書といってはならない。もちろん私は一概に歴史小説を否定しているのではない。時代の雰囲気を正確に伝えるという基本原則さえ逸脱していなければ、そこに多少の空想や誇張があっても、人々の歴史意識の醸成に裨益(ひえき)するものとなる(※1)」
 一方、森安先生は、こうもおっしゃっている。
「しかし、往々にして歴史小説は、対象となる過去の時代ではなく、十年単位でトレンドが変化する現代の思想や政治情勢に流されやすく、時にプロパガンダ的でさえある(※2)」 
((※1)(※2)はいずれも「シルクロードと唐帝国」p45より引用、(  )内は著者加筆)
 ちょうど執筆中の令和4年2月24日にロシアによるウクライナ侵略が始まった。連日の報道で流される悲惨な映像、犠牲となった多くの市民、劣勢の中で戦うウクライナ兵、徴兵され否応なく戦闘に投入されるロシアの新兵たち……、それやこれやが、この「草原の風」に多少の影響を与えなかったと言うことはできまい。
 一日も早い戦争の終結を願って、いったん筆を置くこととする。

  令和4年6月吉日  雲井 耕
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