(二)

文字数 1,857文字

 はるか右手の方から、兵士の喚声が風に乗って流れて来た。可汗率いる主力部隊が布陣する中央部で、戦闘が始まったのだろう。
 しかし、ビュクダグたち左翼の軍はまだ動かない。敵の主力を挟み撃ちするよう打って出るのか、それとも正面の敵、すなわち敵の右翼を叩くのか、互いに相手の動きをけん制しながら、数万の騎兵がじっと向き合っている。異様な静寂が、草原を覆っていた。
 リョウは少しの動きも見逃すまいと、張り詰めた糸のような緊張感で、その様子を観察していた。やがて、前方のウイグル・カルルク連合軍から、突撃の太鼓が打ち鳴らされた。まっすぐ、こちらに向かって来る。それを見た突厥軍も総攻撃を開始した。それでもリョウたちは、すぐには帰陣しない。ドムズの眼として戦場を俯瞰(ふかん)し、戦況に重大な影響を与える敵軍の動きを見るためだ。

 その異変は、突撃が始まって間もなく起きた。リョウには、左の丘を進むクルト隊が、突撃の速度を緩めているように見え、嫌なものを感じた。クルト隊の正面の敵は、進路を変え、クルト隊ではなく、ビュクダグの本隊に向かっているように見える。しかし、ビュグダク隊からその動きは見えないだろう。迷っている暇はなかった。リョウは、異変を伝えるため、二人の兵士を、後方のゲイックとドムズのもとに走らせた。
 突厥軍が下りの半ばまで来た辺りで、それは明瞭になった。速度を緩めていたクルト隊が、丘の上から右に進路を変え、真ん中のビュクダグ隊の後ろに回りこみ始めたのだ。
「クルトが寝返った!」
 リョウは大声で叫ぶと、変事を示す赤い狼煙(のろし)を上げさせ、同時に兵士をバルタ隊に送って、クルトの寝返りを伝えに行かせた。ビュグダグがバルタ隊に指示を出すのを待っている暇はない。危急の時には自ら判断することが許されている遊軍の隊長、バルタの判断にすがる思いだった。
 
 指示を出しながらも、リョウは岩山を駆け下りてグクルに(またが)ると、オドンやバズを引き連れて、ゲイック隊と合流するために急いだ。戦前にはほぼ互角の戦力と見られていたが、クルトの裏切りで、あっという間に五千騎対三千騎になってしまった。バルタ隊を入れても三千五百騎だ。
 ビュクダグの本隊に限ってみれば、自軍が二千騎に対して、敵は正面の二千、左前方の千、そして裏切ったクルトの千を合わせて四千騎、しかも、前方のウイグル・カルルク連合軍と後方のクルト隊に挟撃されている。このままでは、谷地の底で包囲され、壊滅状態になってしまうのは火を見るより明らかだった。

 ゲイックは、異変を察知し、その軍勢の半分をドムズに与えて、自軍の左を走るビュクダグ本隊の支援に回した。リョウも、アユンの百人隊に加わり、ドムズと共に、谷地の底に向かった。そこは、明らかに死地である。ここはひとまず撤退して態勢を整えるべきところだが、下り坂を突進している軍勢の勢いを止めることは、もっと悪手だと思われた。リョウは、ドムズの教えを思い出していた。
――なんだかんだ言っても、戦というのは最後は勢いだ。勢いがあれば、数で不利でも、敵を(ひる)ませ、敵の囲みを破り、敵を敗走させることができる。敵と味方の勢いを見極めるのが隊長の大事な役割だ。

 案の定、ドムズは迷わずに突撃の速度を上げさせ、既に乱戦状態になっていたビュグダグ隊の戦いの中に兵を突っ込ませた。リョウも、死地にこそ生地があると信じて突進していった。

 乱戦と言っても広い草原の中である、兵の総数がそのまま優劣につながるものでもなかった。集団でより少ない敵を囲い込み、矢を放ち、槍や剣で(つぶ)し、そして敵に囲まれる前に抜け出し、また態勢を整えて、別な敵を襲う。その繰り返しを、いかに乱れずに行えるかどうかが、勝負の分かれ目だった。
 ドムズの古参兵は、集団での押し引きが実に巧みだった。そしてドムズに鍛えられ、若くて体力のあるアユンら若者組の百人隊も、引けを取らずに奮闘した。リョウも、もう何も考えることはできなかった。休めば討たれる。ひたすら、奴隷兵士たちの先頭に立ち、矢を放ち、剣を振り、囲みの破れ目を見抜いては兵士たちを走らせた。
 しかし、そうは言っても多勢に無勢、取り囲むよりも、取り囲まれることが次第に増えてきていた。周囲にも、茶や黄色の兜や旗が優勢になり、矢が浴びせられ、囲みを突破するごとに味方が倒されていった。痛みを忘れて闘っていたが、気付けばリョウ自身の矢傷や刀傷も数えきれないほどだった。無残な敗走になる前に、秩序ある撤退をするにはギリギリの状況だとリョウには思われた。
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