(七)

文字数 1,518文字

 リョウは、久しぶりに手隙(てすき)となった時間を使って、王爺さんに会いに行くことにした。昨日届いたという手紙の話をきっかけに、漢字のことを聞いてみたいと思ったのだ。
 王爺さんは、集落のはずれの小さなゲルに住んでいる。先代イルキンの元で奴隷の長をしていた時には、集落の中央広場に近い大きなゲルに住んでいたのだが、先代イルキンが死んで奴隷身分から解放された後に、そこに移ったのだと聞いていた。

 昼なのに、ゲルの入り口のフェルトの幕は降ろされていた。昼寝でもしているのを起こしたら叱られると思って、リョウがゲルの外からこわごわ自分の名前を告げると、意外にもすぐに王爺さんの返事がした。入り口の幕を開けた王爺さんは、まるでリョウを待っていたかのように、部屋の中に招き入れてくれた。
「リョウよ、わしはお前がいつ来るかと思っていたのだよ」
 その言葉にびっくりしているリョウの眼を、いたずら小僧を見つけた様に覗き込んでニッっと笑うと、王爺さんは顎鬚(あごひげ)をひねりながら言った。
「お前が、近頃、わしのことをチラチラ見ていたのは気付いていたよ。悦からも、お前が何かに興味を持っていると聞いたしな」
「すみません。悦おばさんから、王爺さんは漢字の読み書きができるって聞いたので、一度見てみたいと思って。ちょうど昨日、手紙が届いたって、悦おばさんから教えてもらったので……」
「なにも謝ることはない。まあ、そこに座って、これでも飲みなさい」
 そう言って、王爺さんは、(かめ)から器に分けた馬乳酒を差し出してくれた。ここの奴隷になって初めて馬乳酒を飲んだときには、その酸味と特有の臭いに顔をしかめたものだが、最近ではこれを飲むと元気がでる気がして、リョウの好物になっていた。

「あの手紙は唐の商人からのものでな、次に持っていく毛皮は高値で買い取るから、全部自分の店に持ってきてほしいという内容だった。なあに、あちらでは今年の冬の寒さが厳しくなりそうだということで、毛皮の値段が上がっていて、欲の皮の突っ張った商人が、他人を出し抜いて(もう)けようと思ってよこした手紙だよ」
「でも、それは高値で売れるこちらにも、それをもっと高値で売るあちらにも、両方得になるのではないですか?私には、冬の寒さを見越して、そういう手を打つのは良いことだと思えますが」
「ほう、リョウは商売人のような口をきくな。そう言えば、お前の親父さんはソグド商人だと言ってたな」
「はい、父は康国の出身で、名はアクリイと言うのですが、唐では(こう)憶嶺(おくれい)と名乗っていました」

 そう言ってリョウは、円卓の上にこぼれた水を指でなぞって、父の名を漢字で書いてみせた。
「すごいな、リョウは。漢字を書けるのか。誰に習ったのだ?」
「いえ、漢字を書けると言っても、自分や家族の名前だけです。母は漢人で、長安の石屋の娘でしたから。王爺さんは唐のお役人で、漢字の読み書きができると聞いたので、教えてもらいたいなと思って」
「そうか。突厥(とっくつ)の奴隷の身分では、漢字など何の役にも立たんがな。もっとも、わしは漢字のおかげで、これまで生きながらえることができた。わしが通訳したり、手紙の読み書きができるものだから、先代イルキンは、何があってもわしを殺すことだけはしなかった。殺してもらった方が良いと思ったこともあったがな……」

 そう言うと、王爺さんは遠くを見るような目になった。リョウは、それはどんなことかと聞きたい気持ちになったが、聞いてはいけないことだなと直感し、黙っていた。
「まあ、お前も生き延びたいなら、人にはできない技を身に着けて、役に立つ奴だと思わせることだな。あとは、こいつは裏切ったり逃げたりしない、と信用してもらうことだ。それには時間がかかるが……」
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