(六)

文字数 1,875文字

 どうにかクルト・イルキンの部隊を遠ざけることができたが、休んでいる暇はなかった。
 中央ではビュクダグの部隊が、また右側ではゲイックの部隊が、兵力の差を考えれば、善戦とも言える粘りを発揮していた。ドムズが、一休みした自軍を連れてビュクダグの支援に回ってからは、敵軍を少し押し戻すことができた。そのまま戦況は膠着(こうちゃく)し、両軍がいったん離れて、体制を作りなおしていたが、その均衡も長くは続かなかった。

 あちこちに放っていた斥候から、新たな敵の軍勢が迫っているとの報告がなされた。また、ビュグダグの元に全速力で駆けてきた伝令たちは、そこに居たビュグダグやドムズに、驚きの報告を立て続けに届けた。
「中立を保っていた抜悉蜜(バシュミル)が、突然、ウイグル方で参戦しました!」
「万人隊長の阿史那胆栄、討ち死に!」
「骨咄葉護可汗(クトゥルク・ヤブグ・カガン)の本隊は、すでに撤退を始めています!」

 こうなると、もう消耗戦を戦う理由は一つも無かった。ビュクダグは退却を決断したが、秩序なき敗走による全滅を防ぐ必要があった。全軍に、敵軍を牽制し、追撃を防ぎながら、撤退するよう指示が出された。
 ドムズが、谷地の草原で踏ん張っていたゲイック・イルキンの元に駆けつけた。
「ここは、自分が殿(しんがり)を務めます。先に撤退を!」
 ドムズは、自らの親衛隊でもある古参兵を最後尾に配置し、まずゲイックとその親衛隊、次にアユンらの若手部隊を先に撤退させようと、態勢を整えさせた。武器車に積んでいた補充用の矢や槍が、最後尾の部隊の元に届けられ、古参兵たちは最後の戦いの準備をした。
 古参兵は巧みな戦いはするが、一日続いた戦いで、疲れは目に見えていた。ゲイックたちの第一陣が引き始めた時に、アユンがドムズに近寄った。
「ドムズ、一緒に逃げるぞ」
 アユンが、ドムズと古参兵に声をかけた。
「これは命令だ!」

 百人隊長でしかないアユンだが、緊急事態ともなれば部族長の跡取りであるアユンの言葉は、ドムズの階級を超える力を持っている。ドムズが目を見張った。自分が育てたアユンが、今や逞しい部族長の態度を取っていることに感動しているのが、リョウにはわかった。
 しかし、その言葉に素直に従うドムズのはずがない。ドムズは、アユンの言葉を無視して、アユンの馬の尻を鞭で叩いた。
「年寄りが死んで若者を生かすのは、わしら突厥の掟だ!行け、アユン!」
 
 ドムズはリョウを見た。
「クッシは戦死した。テペとお前でアユンを頼む」
 その眼は、死を決意していた。
「分かってる。アユンは俺が守る」
「俺が、お前に辛くあたったのは、そうしないと、アユンもテペもクッシも、お前を奴隷として扱い続けるからだ。俺がお前に厳しくすればするほど、逆にあいつらは、お前を仲間として認めた。ネケルは、同じ思いを持ってこそ強くなるのだ」
 リョウは、何も言わずに(うなず)いた。ドムズの気持ちは、痛いほどわかっていた。強い光でドムズの眼を見返した。
「今までのこと、全部、……全部、ありがとう……」
 ドムズはいつものように、その大きな両手を一度リョウの肩にボンと置くと、振り向いて最前線に走っていった。リョウは、その背を見送りながら、乗り換えた馬で、アユンの後を追った。

 突厥軍が退却し始めるのを見た、ウイグル・カルルク連合軍、そして今はバシュミルも入った三派連合軍は、ここで突厥を全滅させようと、追撃戦を開始した。草原の中腹で守りの陣を張っているドムズの部隊に向かって、敵の馬が殺到してくる。
 古参兵たちは、まず新たに補充した遠矢を射て敵の勢いを止めようとした。先に後退したアユンやリョウの隊も、途中で振り向き、敵との距離を測って遠矢を浴びせかけた。そこまでは、全軍が固まって行動した。遠矢による敵の損傷を増やすためである。
 しかし、アユンたちができることは、そこまでだった。敵の騎馬軍がドムズ達の殿(しんがり)部隊を包み込むように攻撃しているのが見えた。
 騎馬の戦いでは、攻撃は集中、撤退は分散が鉄則である。遠矢を射終わったアユンやリョウたちは、先に逃げたゲイックたち本隊を追いながら、草原の左右に広がって、ひたすら走り続けた。
 リョウが、最後に振り返ったとき、ドムズ隊の旗はもう一本も立っておらず、敵軍が歓声を上げているのが聞こえた。ドムズ隊の全滅を確信した。しかし、そのおかげで、自分たちは敵からずいぶん遠いところまで逃げることができた。
 もう振り返らずに走るリョウの頭に、ドムズに鍛えられた日々の光景が浮かんできた。涙で霞む前景も気にせず、リョウはただひたすら走り続けた。
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