(二)

文字数 2,353文字

 雲の羊たちが陽をさえぎり、風の冷たさを感じて眼を開けたリョウの耳に、かすかに複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。リョウは何か嫌な感じがして身を起こした。
 リョウが居るのは、小川近くのゲルの集落から羊を追って、低い丘をしばらく上った所だ。今のゲルに移ってからもうだいぶ時が経ち、周囲の草は食べつくしてしまったので、近いうちに別の草原に移動することになっている。だから今日は、集落からは少し離れた所に来ている。
 その丘の上から見て、集落を挟んだ反対側には、遠くの低い岩山が草原をさえぎっている。その岩山の陰から砂塵が上がったかと思うと、十数頭の騎馬が表れ、集落に向かって駆けてくるのが見えた。それは武装した軍団であり、後方には槍を持った歩兵の集団も駆け足でついてきている。総勢は百人近くにもなるように見えた。

 黄河の大屈曲部(現在のオルドス地方)の内側にあるこの辺り一帯は、北の遊牧民である突厥(とっくつ)の勢力と唐王朝の勢力が接するあたりであり、生活様式を見ても遊牧生活と農耕生活が交わり、共存する世界である。唐と突厥は長年、抗争と友好関係を繰り返してきたが、唐の玄宗の時代になって、突厥は本拠地を北方に移し、緊張関係はゆるみ、友好関係に転じていた。
 リョウたちが住んでいる比較的南の方は唐の支配下にあるが、突厥が支配していた頃の遊牧民の多くも居残っており、また農耕をして暮らす漢人の集落もある。さらに、西域からのソグド商人が行き交う草原の道にも近いという多様性を持った地域である。
 このため、一応は唐軍の守備範囲ということになっているが、武人を伴った突厥の隊商もときどき姿を見せる。最近は交戦することはまずなく、この先にある村での交易が主な目的であるということを、リョウは父から聞いて知っていた。

 しかし、今、遠くから駆けてくる軍団の速さは尋常ではない。何か忌まわしいものを本能的に感じて、リョウは素早く立ち上がると自分の馬に飛び乗った。何かはわからないが、とにかく、あの軍団が集落に着く前に、父たちに異変を知らせなければいけない、その一心だった。
 リョウは、長城の北で暮らすようになってから乗馬を覚えた。都会育ちと言ってもよいリョウなので、遊牧民の子らと比べれば乗馬を覚えたのはずいぶん遅いが、ここ二年でめきめきと上達し、今では裸馬でも乗りこなせるようになっていたし、馬上から弓を放って動物を追うこともできるようになっていた。
 そのリョウが全速力で馬を走らせ、ゲル集落に着いたとき、すでに大人たちは異変に気付き、慣れた手つきで防御の体制を作りつつあった。ソグド人と漢人が共に暮らすこの集落は、基本的には遊牧民族である突厥の集落と同様、ゲルと馬柵があるだけの開放的な集落である。一方、それでは落ち着かない漢人の意向も汲み、西の川と東の岩場、そして北に林のある地形を利用し、南側の狭い入り口には先端の尖った棒を連ねた柵を並べた、砦のような趣も持っている。その柵の間の狭い入り口に、野を行く隊商が防御の陣を敷く時と同じように、荷車を盾代わりに並べ、忙しく動き回る中心に居るのは、ゲル集落の頭目であるリョウの父だった。

 リョウの父の名はアクリイ、漢名を(こう)憶嶺(おくれい)といった。“康”は康国と呼ばれるサマルカンド出身のソグド人が付ける漢字姓である。ソグド人特有の深い(あお)い眼と高い鼻を持ち、背が高く、分厚い胸、がっしりした肩と腕の父は、集団の中でもひときわ目立っていた。漢人の母に似た顔立ちをしていると言われるリョウだが、身体つきはだんだん父親に似てきたと言われると、少し恥ずかしいような、嬉しいような気がするのだった。
 はるか西域の緑洲(オアシス)地帯で子供時代を過ごした父は、その地のソグド人の多くがそうであるように、商人に雇われて商売を覚え、隊商の一員として初めはソグディアナ地方近郊を行き来していた。商人と言っても過酷な道のりの長旅をするのであり、野盗や異国の軍隊から身を守るために、自ら武器を取り戦うすべを知っている武人でもあるのだ。

 父が商売で成功したのには、母とその実家が大いに助けになったと聞いたことがあった。母はそんなことは一言も言わなかったが、祖父の石屋に遊びに行くと、そこの伯母さん、つまり母の兄の奥さんが、茶飲み話でいろいろ母に話すのを聞くともなく聞くことがあった。父は母のおかげで流ちょうな漢語を話すことができるようになっただの、お祖父さんの紹介で宮廷貴族とも付き合いができるようになったなどと言うのを、母は少し迷惑そうに聞いていたのではなかったろうか。

 父は、王家の血を引くある貴族の謀反の噂に巻き込まれ、長安を追放になったのだという。これは母から聞いた話だった。謀反の噂を立てられた貴族は死罪となったが、父は何も悪いことはしておらず証拠もないことと、母の実家の働きかけがあって、死罪は免れた。その代わりに、実家の石屋はリョウたち家族との関係を完全に断つということを約束させられ、家族は長安のはるか北、今いる長城外の草原に移ることになったのだ。

 長城外で暮らすようになった父、康憶嶺は、ソグド人アクリイに戻った。そして、辺りに住む突厥の遺民である遊牧民の助けを借りて、細々と遊牧をしながら、少しずつ昔の仲間を募って、交易の仕事を再開し、大きくしていこうとしていた。今、集落に居るのは、そんなアクリイを慕って集まってきた隊商の元隊員や長安で仕事を手伝っていた漢人、そしてその家族合わせて三十人余り、それに遊牧生活を手伝う川向うに住む遊牧民たちだった。
 持ち前の人を引き付ける魅力と、漢人であれ、突厥人であれ、もちろんソグド人であれ、分け隔てなくまとめ上げる父の周囲には、どんどん人が集まってきているようにリョウは感じていた。
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