(六)

文字数 1,939文字

 唐軍は、数百騎を岩山の包囲に回し、残りは、そのまま逃げた突厥の軍を追わせた。
 岩山を包囲した敵兵は、一斉に岩に取りついてきたが、両軍の半ば辺りまで来ると上から矢が射掛けられて、前進に苦労していた。リョウも、もう顔が判別できるほどに近づいた敵に向かって、十分に引き絞った弓から強い矢を放った。しかし、重装騎兵の装備は、兜も鎧も鉄でできており、矢が跳ね返される。リョウは、下から迫る敵兵が顔を上げる瞬間を狙って、その顔の真ん中を狙って矢を放った。矢が目玉に突き刺さるのが見え、その敵兵はもんどりうって岩山を転げ落ちていった。
 一瞬、リョウは自分が何をしたのかと思った。そうだ、……間違いなく人を殺した。それまでは、自分に討ちかかってくる剣や槍から逃れるために、必死に剣を振り回していたので、自覚が無かったが、今は間違いなく人一人をこの手で殺してしまった。リョウの頭には、矢が突き刺さった男の苦悶の表情が明瞭に浮かんでくる。しかし、それは本当に一瞬のことだった。別の敵が、もっと間近まで迫ってきている。リョウは、次の矢を(つが)えて構えた。

 戦況は、多勢(たぜい)無勢(ぶぜい)、じりじりと下の方から味方の兵が排除されていた。
 グネスの指揮する右側の古参兵は、敵の前進を食い止めていたが、若い兵士が多い左側は次第に崩され、敵兵がアユンに迫っている。リョウは、自分の前に迫る敵兵を矢で倒し、それでも迫る敵を剣で叩き落していたが、アユンを助けに行けない。アユンを守るテペとクッシの兵も、乱戦の中でバラバラになりつつあった。
 孤立しかけたアユンが、敵兵と剣を交えようとしたとき、左の岩の上から放たれた矢が、アユンの前の敵を倒した。コユンだった。小柄なコユンは、身軽に岩によじ上り、そこから近づいてきた敵を弓で狙い撃ちしていた。自慢していとおりの見事な腕だった。カルもその横で矢を射ていた。コユンと共に行動していたのだろう。
 ホッとしたのも束の間、二人の矢が尽き、岩を駆け下りようとしたとき、下から放たれた敵の矢がコユンの胸に突き刺さった。コユンが、岩から飛び降りるような形で真っ逆さまに転げ落ちるのが見えた。
「早く行け」
 オドンとバズが、リョウの周りの敵をなぎ倒しながら、リョウを走らせた。漸くリョウがアユンの傍らに駆け寄ると、テペとクッシも寄ってきて、アユンを囲むように敵と剣を交わした。しかし、下からの兵は、人数を増し、持ちこたえるのもここまでかと、リョウは覚悟した。

 その時だった、聞き覚えのある音が聞こえてきた。

「ダン、ダダ、ダダ、ダン!ダン、ダダ、ダダ、ダン!ダン、ダダ、ダダ、ダン!」

 何重にも重なるその力強い太鼓の音は、突厥軍の突撃の合図だった。岩山の下を覗くと、逃げた突厥軍を追走したはずの唐軍が、一斉に引き返してきているのが見えた。アユンがドムズに送った援軍要請を受けて、突厥の本隊が駆けつけたのだった。ゲイック・イルキンの旗だけでなく、ビュクダグの旗もあった。岩山でアユンの百人隊を攻撃するために人数を割かれ、唐の追走軍は七百騎足らず、それに対する突厥軍は千数百騎で、勢いが違った。
 それを見た岩山の唐軍も、取り残されてはたまらないと、我先にと岩山を降り、逃走を始めた。

 リョウも、アユンも、誰もが、岩山の上で崩れるように座り込んだ。突厥の本隊は、岩に取りついた味方を救い出したことを確認すると、もうそれ以上は敵を追わなかった。今回の作戦は、あくまでも奇襲を前提としての戦いだったからだ。
 奇襲ではなく、正攻法で攻めた時の唐軍の守りを侮ってはいけない、とドムズが言っていた。壁を持たない遊牧民と違い、壁の民である唐の人間は、自分の住んでいる村や都市が奪われそうになったら命がけで守ろうとする。たとえ野外戦でも、陣を構えての戦にはめっぽう強いのだと。

 ギリギリの勝利だった。というか、奇襲としては完全な失敗だった。敵は敗走したが、人馬の損傷は間違いなく、突厥軍の方が大きかった。深追いすれば、さらに損傷は大きくなっただろう。そこで踏みとどまったゲイックやビュグダグは、戦を知っている大将だった。
 唐軍が突厥の援軍の接近を知って、早々と退却してくれたこともありがたかった。互角の兵力の唐軍が本気で戦ったら、勝負はわからなかった。しかし、遊牧民は逃げて逃げて、敵を誘いこみ、そこで反撃するのを知っている大将であれば、深追いはしないものだ。唐軍の大将も手練(てだ)れの大将だったのだろう。
 戦いで傷つき、死んでいくのは、唐軍だって、突厥軍だって最前線の兵士たちだ。怖いからこそ必死になって戦っているだけなのだ。その兵士の気持ちに寄り添って、兵士を殺させない、負けない戦をする賢い将になりたいとリョウは思った。
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