(八)

文字数 1,894文字

 そう言われても、リョウには自分が何の能力を伸ばせば、人の役に立つのかわからなかった。本当は、リョウは名前だけでなく、多くの漢字を読み書きすることができた。初めのうちは母から書いてもらった簡単な漢字の手本で、長じては祖父の家にあった「千字文」という刻本を手本に、漢字の書き方や意味を教えてもらった。リョウは()められるのが(うれ)しくて、裏庭の地面に棒で漢字を書く練習を飽きずにしたものだった。
 それなのに王爺さんに問われて、とっさに「名前だけ」と答えたのは、「できる」と思わせてはまずいという思いが頭をよぎったからだった。奴隷としての生活が、目立たないことが生き延びる方法だとリョウに教えていたのかもしれない。それに、王爺さんは、漢字の読み書きの能力を買われて、生き延びることができたのだという。もし自分が漢字の読み書きができることが知れて、この爺さんが捨てられるようなことになってもかわいそうだと思い、これからもそのことは封印し、できないふりをする方が良いだろうと考えていた。

「それなら、石の彫刻はどうでしょうか?祖父は石屋ですから、私も石鑿(いしのみ)の扱いには慣れています。ここでは誰も石を彫ることなんかできないですよね」
「ハハハ、確かに誰にもできないが、それが役に立つとは誰も思わんだろうな。木を扱える大工や、武器や農具を作れる鍛冶屋なら、喉から手が出るほどほしいだろうが、石ではな……」
「やっぱりそうですか。でも、自分は石屋の孫なので、小さい時から、いつかは石刻師(せっこくし)になりたいと思っていました。かなわぬ夢かもしれませんが、空いた時間に石刻の練習がしたいので、王爺さんのところにある手紙とか、何か漢字を書いたものがあったら貸してもらえませんか」
「石刻師か……。唐でも書が達者な者は知っていたが、石を彫りたいなんて奴はついぞ見たことがないな。まあそれも良いか。仕事ばかりしていると気が(ふさ)ぐからな」
 そう言って、王爺さんは卓の下からごそごそと紙の(つづ)りを取り出した。
「これは、わしが大事にしているもので、負け戦で突厥の捕虜になった時にも、雑囊(ざつのう)に忍ばせていたものだ。だから、貸すわけにはいかないが、ここに来て見ることは構わない。もう紙も擦りきれて、綴じ糸もボロボロになってきているから、くれぐれも水で濡らしたりしないようにな」

 大事そうにリョウの前に置かれた二つの紙束の表紙には「(らん)(てい)(じょ)」、「集王書(しゅうおうしょ)聖教序(しょうぎょうじょ)」と書かれていた。「蘭亭叙」は、(おう)羲之(ぎし)が書いたもの、「集王書聖教序」は、唐の太宗(たいそう)皇帝が玄奘(げんじょう)に与えた仏典の序文を、王羲之の字を集めて石碑としたものだと教えてくれた。王羲之という名に聞き覚えがあった。
「王羲之という人の字は、そんなに上手なのですか」
「そうだな、王羲之が生きたのは四百年も前のことだが、書聖と言われている。特に、太宗が熱愛したので、多くの臨書や摸本が作られたのだ」
 リョウは、自分が手習いした「千字文」も、王羲之の字を集めて作ったものだと教えてもらった記憶がある。その驚きを感づかれないよう、静かに息を呑み込んで、リョウは尋ねた。
「これを書いた人は、王爺さんと同じ姓なんですね」
「そうだな、もちろんこれは刻本(こくほん)で、その元の書も誰が書いたか知れたものではないが、最初にこれを書いた王羲之は、わしの遠い遠い親戚でもあるらしい。嘘か(まこと)かは知らぬが、わしの親が自慢していたものだ。それが今では、我が家はまったく落ちぶれ、わしに至っては突厥の奴隷というわけで、ご先祖様は悲しんでいるだろうがな」

 下っ端役人であっても、遠い先祖に少しはあやかりたいと思って、戦場にまで王羲之の手本を持ち歩いたのだろうか。リョウは何とも言えずに、手本を見せてくれたことの礼を言い、これからときどき来るので、漢字の読み書きはその時に教えてくれるよう頼みこんだ。帰りがけに、王爺さんが思い出したように声をかけてきた。
「ところでさっきの話じゃがな、確かに今度の手紙の主は、機を見るに敏な商人であることは確かだが、賢い商人かどうかは別物だ。こちらも、高値だからと、言われるままに今年の毛皮を全部その商人に売ってしまったら、次には他の商人との付き合いができなくなる。損して得取れと言って、商売は信用が基本なんだよ。わしが交易に行ってた頃は、その辺をうまくやっていたが、張がわかっているかどうか。リョウには少し難しい話だろうがな」
 もとは役人だとばかり思っていた王爺さんが、商売の話をするのにもびっくりしたが、きっと人と付き合うということは、何をしていても根っこは同じなんだろうなと、リョウはリョウなりに納得して自分のゲルに戻っていった。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み