(四)
文字数 1,475文字
子供の頃、長安の祖父が、リョウに石を彫らせてくれたたときには、まず細い石鑿 でまっすぐな線を彫るように言われた。次には、少し幅のある鑿で、四角形を、それができるようになると三角形をと、少しずつ形の違うものを彫るように言われた。上達すると、緩い弧の彫り方も教えてくれた。今思うと、あれは漢字を彫るための、部分部分の彫り方の練習だったのだろう。
もっとも、幼いリョウの力では、彫るというよりは、磨いた石の表面に石鑿で傷をつけた程度だったのかもしれない。それでも、自分の意思で石鑿を動かすことで、黒い石の表面が変化していくのを見るのは、とても楽しかった。夢中で彫っていると、誰かが、リョウの傍 らでじっと見ているのを感じるのだが、眼を起こすと誰もいないというようなこともあった。リョウは、そんな記憶を思い出しながら、眼前の黒い平たい石に向かった。
その石板には、すでに墨で大きく「永」と書いてある。王爺さんに頼んで、あらかじめ書いてもらったものだ。王羲之の「蘭亭叙」は、「永和九年歳在癸丑」(永和九年、歳 、癸丑 に在り)で始まっていた。王爺さんは、その最初の一字である「永」をまずはしっかり見ろと常々言っていた。
――木炭で書くだけなら、形を覚えるだけで良いが、筆で書くとなると、その最初の「﹅《てん》」ひとつでさえ、入り方や太さの変化、終わり方など奥が深い。「永」の一字には、そんな「とめ」「はね」「はらい」といった書の基本が全て含まれているのだから、まずはしっかり見ることから始めよ
そう教えてくれたのだった。もっとも「蘭亭叙」を貸してくれるわけではなく、王爺さんが木片に一画一画を、丁寧に楷書で書いてくれたものが、リョウの手本であった。
知らない漢字を早く覚えたいリョウには、そんな細かな書き方はどうでも良いことに思えたが、王爺さんは、まず「永」の字をしっかり見、次に「永」の字を書くことから、練習を始めさせるのだった。
リョウは石板の上に墨で書かれた「永」の字の、最初の「﹅ 」の縁を慎重に彫り始めた。まずすべての画 の縁をきれいに彫り、後で中を打ち抜くつもりだ。その縁取りには、母からもらった柄の長い特殊な石鑿を使った。それは石屋の祖父の形見でもあるのだが、切れ味が鋭く、微妙な弧を描く繊細な縁を彫っていくのには最適なものだった。
縁の外にはみ出さないよう、縁から内に向かって斜めに立てた石鑿の頭に、初めは軽く、徐々に力を込めて金槌を当てていく。最初の点が終わると、次に横画、縦画、下のはねと、筆の書き順と同じように縁取りを彫っていく。
漢字の練習をするとき、リョウは王爺さんから書き順もうるさく教えられた。しかし、石の上の墨書をなぞって彫るだけなら、書き順などどうでも良いと思って、初めの頃リョウは、真ん中の縦線から彫り始めていた。何の手掛かりも無い平面に納まり良く「永」の字を彫るには、まず真ん中にしっかりと基点を作った方が良いと思ったからだ。そのまっすぐな線は、かつて祖父がリョウに最初に教えてくれた石刻の基本でもあった。
しかし、何回か繰り返し練習するうちに、石を彫るときにも、正しい書き順で彫っていき、彫りながら全体のバランスを見て微調整した方が、仕上がりが良いことに、リョウは気付いた。石板に書かれた墨書をなぞって彫るといっても、微妙に線がずれるものであり、そのずれた線を活かしながら残った線を彫ることにより、元の書体の持つ流れに、より近づけることができる。単なる石刻という単純作業を超えて、より美しい書に近づけるのではないかと感じたのだった。
もっとも、幼いリョウの力では、彫るというよりは、磨いた石の表面に石鑿で傷をつけた程度だったのかもしれない。それでも、自分の意思で石鑿を動かすことで、黒い石の表面が変化していくのを見るのは、とても楽しかった。夢中で彫っていると、誰かが、リョウの
その石板には、すでに墨で大きく「永」と書いてある。王爺さんに頼んで、あらかじめ書いてもらったものだ。王羲之の「蘭亭叙」は、「永和九年歳在癸丑」(永和九年、
――木炭で書くだけなら、形を覚えるだけで良いが、筆で書くとなると、その最初の「﹅《てん》」ひとつでさえ、入り方や太さの変化、終わり方など奥が深い。「永」の一字には、そんな「とめ」「はね」「はらい」といった書の基本が全て含まれているのだから、まずはしっかり見ることから始めよ
そう教えてくれたのだった。もっとも「蘭亭叙」を貸してくれるわけではなく、王爺さんが木片に一画一画を、丁寧に楷書で書いてくれたものが、リョウの手本であった。
知らない漢字を早く覚えたいリョウには、そんな細かな書き方はどうでも良いことに思えたが、王爺さんは、まず「永」の字をしっかり見、次に「永」の字を書くことから、練習を始めさせるのだった。
リョウは石板の上に墨で書かれた「永」の字の、最初の「
縁の外にはみ出さないよう、縁から内に向かって斜めに立てた石鑿の頭に、初めは軽く、徐々に力を込めて金槌を当てていく。最初の点が終わると、次に横画、縦画、下のはねと、筆の書き順と同じように縁取りを彫っていく。
漢字の練習をするとき、リョウは王爺さんから書き順もうるさく教えられた。しかし、石の上の墨書をなぞって彫るだけなら、書き順などどうでも良いと思って、初めの頃リョウは、真ん中の縦線から彫り始めていた。何の手掛かりも無い平面に納まり良く「永」の字を彫るには、まず真ん中にしっかりと基点を作った方が良いと思ったからだ。そのまっすぐな線は、かつて祖父がリョウに最初に教えてくれた石刻の基本でもあった。
しかし、何回か繰り返し練習するうちに、石を彫るときにも、正しい書き順で彫っていき、彫りながら全体のバランスを見て微調整した方が、仕上がりが良いことに、リョウは気付いた。石板に書かれた墨書をなぞって彫るといっても、微妙に線がずれるものであり、そのずれた線を活かしながら残った線を彫ることにより、元の書体の持つ流れに、より近づけることができる。単なる石刻という単純作業を超えて、より美しい書に近づけるのではないかと感じたのだった。