(五)

文字数 2,034文字

 秋も深まった頃に、ゲイック・イルキンにも、千人隊を率いて参戦するようにとの指示があった。
 はじめ、部族の内部では、決して主戦論ばかりではなかった。驚いたことに、最も強硬に主戦論を主張するかと思っていたドムズが、戦うのは無駄な血を流すだけだと言い出した。
「ドムズは戦好きだと思っていたが、肝心なところで怖気(おじけ)づいたのか」
 茶化すように言ったグネスを、ドムズは強い視線で(にら)み返した。
「戦好きの遊牧民なんているものか、戦が好きなのは権力者だけだ。だいたい、俺が、軍を強くするために兵士を鍛えてきたのは、負けない戦をするためだ。今度の戦いは、どう見ても分が悪い。ウイグル、カルルクだけでなく、隙に乗じて、南から王忠嗣の軍が攻めて来ることにも備えなければならない」
 ドムズを怒らせてしまったかと慌てたグネスが、なだめるように言った。
「しかし、今度の戦は、ここ何十年も無かった大会戦だ。クルト・イルキンは、負ければみんな虐殺されると言ってたぞ」

「あんなものは脅しだ。考えてもみろ。この大草原に散らばって移動しながら暮らしている大勢の者を、どうやって皆殺しにできるというのだ」
「散らばっているからこそ、一つ一つの部族ごとに敵軍に攻められたらひとたまりもない。だから十万のまとまった軍として、敵と戦うのではないのか」
「突厥の遊牧民を皆殺しにしても、ウイグルには何の得もない。農耕民の漢族は、千年もの間、自分が住む地面を取り合って戦争してきた。しかし、遊牧民どうしの戦いとなると訳が違う。その草原をどちらが支配するかを争うのであって、負けた側が一掃されるわけではない。一掃されるのは権力と富が集中する可汗ら支配層だけで、草原では、そこに居た遊牧民がそれまでどおり、羊を追って生活できる。突厥であれ、ウイグルであれ、遊牧民の国というのは、緩い部族連合に過ぎないのであって、可汗の一族でもなければ、可汗に忠誠を尽くす理由はない。ましてや、今の骨咄葉護可汗(クトゥルク・ヤブグ・カガン)は、昨年、伊然可汗(イネル・カガン)を殺した張本人だ。わしらが忠誠を尽くす理由など全くないではないか」

 リョウもその話は知っていた。昨年、骨咄葉護(クトゥルク・ヤブグ)に殺された伊然可汗(イネル・カガン)は、今の突厥を建国した阿史那骨咄禄(アシナ・クトゥルグ=イルティリシュ・カガン)の孫であり、その子で唐の玄宗と和親策を取って平和な時代を作った毘伽可汗(ビルゲ・カガン)の子でもあり、遊牧民の尊敬を集めていた。
 伊然可汗を殺した骨咄葉護は、その弟を次の可汗に立てたが、その弟もまたすぐに内紛で殺されると、自らが可汗として即位したのだった。このような内紛が、突厥を弱体化させ、唐やウイグルからの侵攻を招いたのは明らかで、その可汗のために自分たちの血を流す必要は無いというドムズの主張は、そこに居た皆にも十分に納得がいくものだった。

「クルトが言っていた言葉のことはどうなるのだ。クルトは、負けたらもう突厥語では生きていけないと言ってたぞ」
 そう聞いたのは、アユンだった。それには、リョウが答えた。
「唐の国は、広大だ。そこで話されている言語は、漢語とは言っても、北から南まで千差万別で、地域が違うと漢人どうしでも会話ができないほどだ。それに比べれば、ウイグルの言葉も、突厥の言葉も、元は同じテュルク(トルコ)系の言葉だから、そんなに心配はいらないと思う」
 
「それはリョウが、漢語も、突厥語も、ソグド語も話せるからだろう。俺にはとても他の言葉は覚えられそうにない」
 そう言ったのはテペだったが、すかさずクッシが茶化した。
「お前なんか、羊だけ追いかけてるんだから、言葉なんかいらないだろう」
「馬鹿野郎、女を追いかけるのには、男前だけじゃだめで、言葉がいるだろうが」

 場が少し和んで、笑い声も起きたが、ゲイックは難しい顔を崩さなかった。
「ドムズの言うとおり、俺たちがすぐに殺されたり、追い立てられたりすることは無いだろう。たとえウイグルが勝っても、その利益を最大にするには、何もかもぶち壊すよりも、今の遊牧をそのまま続けさせるのが一番確実だからな。その代わり、可汗への貢物は今まで以上に出す必要があるだろうし、戦争ともなれば兵士は最前線に行かされるだろう。もし、ウイグルの遊牧民が大挙してこの草原に進出してくれば、草の豊富な良い場所や、温かい冬営地からは追い出されるかもしれない。それに、最も確実なことは、もし参陣を拒み、突厥が勝利したら、次には自分たちが、味方のはずの骨咄葉護可汗(クトゥルク・ヤブグ・カガン)から攻められるということだ」
 初めから、選択肢の無い戦いだった。
「今度は、騎馬民族どうしの戦いだ。難しい戦いになるが、やるしかあるまい」
 ゲイックの言葉に、ドムズもアユンも、しぶしぶと頷いた。支配者どうしの欲、そして国境の部族どうしの憎悪がぶつかり合う戦いは、生き残りを賭けた壮絶な戦いになる予感がした。
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