(四)

文字数 1,806文字

 ようやく春がやって来た草原を、まだ冷たい風をいっぱいに受けながら疾駆するリョウは、「俺はやはり風が好きだ」と、久しぶりに晴れ晴れとした気持ちになった。
 アユンやテペ、クッシなどと一緒に、ゲイック一族の武術の訓練に参加するようになって、半年近くが経っている。冬の間は、馬に乗らずに槍や剣を振るう稽古が主で、リョウも、そこそこには操れるようになっていた。それでも鎧を着けての相撲は苦手で、やはり奴隷兵士として稽古に参加していたオドンには何度も投げ倒された。
 春が来て、騎乗しての槍や弓の訓練が始まると、水を得た魚と言わんばかりに活き活きと動き、周囲を驚かせた。馬を操ることにかけては遊牧民の若者にはまだ負けるが、馬で草原を自在に駆け巡ることが大好きなことに関しては、彼らに負けなかった。

 休憩となり、リョウは馬を降り、春の草原に寝そべった。少し息は弾んでいたが、冷たい風が頬に気持ちよく、春の()を受けた土の(ぬく)もりが背中に感じられるようだった。頭上には、相変わらず、どこまでも広い大地の上に、どこまでも広い青空が乗っかっている。さっきまで、もうもうたる土煙をあげて走っていた馬たちも、今はそこここで、のんびりと草を()んでいる。悠々と風に乗って揺蕩(たゆた)うトンビの、ピーヒョロロという鳴き声も聞こえてきていた。

 リョウは、(おう)羲之(ぎし)の「蘭亭(らんてい)(じょ)」にある「宇宙」という漢字を、空に向かって指先でゆっくりと書いた。リョウの好きな字だった。「天朗氣清恵風和暢仰観宇宙之大」、天は(ほが)らかにして、気は清く、恵風(けいふう)(春風)和暢(わちょう)し(やわらかにそよぎ)、仰ぎ観る、宇宙の大、というくだりである。
 王爺さんは「宇」は無限の空間を、「宙」は永遠のときを表すのだと教えてくれた。王爺さんの遠い遠い昔の親戚であるという王羲之は、この文を会稽(かいけい)山陰(さんいん)という、長安よりはずっと南東の方角、江南の地で書いたのだという。そこの庭園の蘭亭というあずまやで、親しい友人や息子たちと酒を飲み、その間に詩をつくるという宴会の、その詩集の序文として書いたのが「蘭亭叙」なのだという。しかし、そんなところで宇宙は感じられないだろう、とリョウは思った。この北の大地から見上げる空こそが、宇宙にふさわしいのではないか……、リョウは草原に寝転がり、空を眺めるたびに思うのだった。

 その王爺さんも、この冬の間に病気になり、悦おばさんの看病の甲斐も無く、床に臥せて(ひと)月ほどで亡くなっていた。
 その少し前、王爺さんに、アユンのネケルに指名されたと話しに行ったときには、王爺さんは、困ったような顔をしてこう言った。
「ネケルといっても、しょせんは奴隷のネケルだ。何かあれば、お前が真っ先に痛めつけられるだろう。しかし、それでもアユンを恨んではいけない。そんなそぶりを少しでも見せれば、ゲイックはお前をアユンの傍に置くことに危険を感じて、遠ざけられるか、下手をすると殺される。ネケルになるからには、徹底してアユンを守るんだ」

 王爺さんは、何か苦い経験でもしていたのだろうか。そう言えば、こんなことも言っていた。
「どんなに武術の訓練をしても、書のことは忘れるな。他の者にない能力を持っていることが、お前を救うのだからな」
 書が戦の役に立つとも思えないが、それはゲイックが言っていた「言葉は武器になる」というのにも近いのだろうか。あのとき、リョウは王爺さんに、戦争での経験を聞かせてくれと頼んだが、王爺さんは、それには答えず、リョウに聞き返した。
「リョウよ、お前も殺されかけたと聞いたが、しょせん、戦争というのは人を殺すことだ。お前は人を殺せるか?」
「俺には分かりません。ただ、殺されそうになったら、その相手を殺すだろうと思います」
「戦は、支配者の欲望が生み出す。だが、命の取り合いをするのは兵士たちだ。その殺された兵士たちには、家族も友もいるだろう。その殺戮の記憶は、敵への恨みとなり、積み重なった憎しみが新たな戦を生み出すこともある」
「それと、書と、どう関係があるのですか?」
「書は思索に通じ、古今の“理”や“知”を見せてくれる。先祖の代から繰り返され、積み重なった憎しみは、それを経験してない者へも、言葉で伝えられ膨らんでいく。そうなると、もう理屈ではどうしようもない。それを断ち切るのが“理”であり“知”なのだが、人は憎しみを抑えるどころか、怨念を積もらせていく。残念ながら、わしもそうだがな」
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