(二)

文字数 2,357文字

 唐との間では何ごともなく、やがてまた春が来て、リョウは十七歳になった。リョウがこの北の草原に連れて来られてから、もう五年近くが経っていた。
 硬く凍った沼や小川の氷が緩み、草原では枯れ草色の中に少しずつ緑が増してくる。まだ()けていない雪の下に、もう緑の草が生え出していることに、リョウは草の生命力の強さを感じた。
 しかし、雪と氷に閉じ込められていた人間の欲望も、春の到来と共に(うごめ)きだす。ウイグルの動きが活発になり、西の集落が襲われ、一部の部族は降参してウイグルの傘下に入ったという報告も届いていた。

 南に面するゲイック・イルキンの部隊は、唐軍が当面の敵であったが、王忠嗣は東北の(けい)の攻略に主力を向けているということで、しばらくは平穏な日々が続いていた。
 しかし、夏も近づいてきた頃、東西を往来するソグド商人たちがもたらした情報は、そんな日々が長くは続かないと、覚悟せざるを得ないものだった。それは、「王忠嗣の軍は、今年に入って奚と三回戦い、三勝した。その勢いで、突厥(とっくつ)にも降伏を迫った。しかし、骨咄葉護可汗(クトゥルク・ヤブグ・カガン)が従わなかったので、今度は突厥を攻め滅ぼす算段をしている」というものだった。

 各部族の主だった者が集まる夏祭りは、戦争に向けた合議をするにも絶好の機会となった。
 ビュクダグ本人が夏祭りの行われる草原に、副官のティルキや百人隊長のラコンなど、主だった幹部を引き連れて来訪した。広場には、移動用とは思えない五十人も入りそうな巨大なゲルが設営された。
 祭りの開催を明日に控えた日の午後に、そのゲルで軍議が行われ、百人隊長アユンの付け人としてリョウも中に入ることを許された。リョウは、アユンのネケル仲間であるテペやクッシから兄貴分として一目置かれる存在になっており、また、昨年の戦闘以来、ティルキやラコンからも気楽に声をかけられるようになっていた。もっとも、クルト・イルキンとその一族であるカプラン、ブルトなどからは、あからさまに敵対的な、(さげす)んだ目で見られていることも感じていた。

 合議は、いつものようにティルキが仕切った。
「皆も聞いていると思うが、ウイグルが西の方で暴れまわっている。これについては、クルト・イルキンが聞き捨てならない情報を得ている。クルト、皆に話してくれ」
 指名されてクルトは、さも、自分だけが知っている秘密を教えてやるとばかりに、自慢そうな顔で皆を見回した。
「王忠嗣が奚の軍を破り、その勢いで突厥に降伏を求めたのは知っているだろう。しかし、骨咄葉護可汗(クトゥルク・ヤブグ・カガン)がそれを拒否したので、あやつは一計を案じた。突厥が唐へ放った間諜(かんちょう)を捕らえてこれを手なずけ、ウイグル族が突厥の地位を狙っていると可汗に嘘の報告をさせたのだ。もともと、王忠嗣という男は、勇猛なだけでなく兵法に通じているから、できるだけ味方の戦力をそがずに、戦いに勝つ戦略をとる男だ」
「しかしそれだけでは、ウイグルが突厥を襲う理由にはならないではないか」
 議場からの誰かの声に、クルトは落ち着き払って答えた。
「そこだよ。王忠嗣は、同時にウイグルにも使いを走らせ、突厥がウイグルをこの草原から駆逐することを狙っているから、唐と組んで突厥を倒そうと持ち掛けたのだ。ウイグルが勝てば、今後、唐と友好策をとらせ、その代わりに、この草原の支配は全てウイグルに任せるという条件だ」

 ゲイック・イルキンが、わからないという顔で訊ねた。
「そんな策略がわかっているなら、むしろ、我ら突厥とウイグルが和平を結び、力を合わせて唐を引き下がらせれば良いではないか。そうすれば、今まで以上に唐に圧力をかけて貢物を増やさせることもできる」
「ウイグルの本当の狙いは、唐ではない。今まで我ら突厥が享受していた唐からの貢物を、ウイグルが独り占めすることだ。そんなこともわからないから、羊を追うことしか知らない奴は困るんだ」
「なにを言う」
 すぐにも喧嘩を始めそうな二人を、ティルキが制した。
「まあお互いに、そんなにいがみ合うな。今は、唐とウイグルが共通の敵なのだから」 
 クルトは、ゲイックと睨みあうのを止め、また皆を見回した。
「ウイグルは、唐と友好策を取るように見せかけながら、同時に軍事力も見せつけて圧力をかけている。オアシス経由の西域との交易も、ソグド商人の権益を奪ってウイグル商人にやらせるよう迫っている。そうやって武力を背景に唐の富を吸い上げるには、草原における突厥の支配を終わらせる必要があると考えているのだ」
「だからウイグルは、唐に(だま)されたふりをして、王忠嗣と組んで我ら突厥を討とうと画策しているということだな」
 ビュクダグの声に、クルトが大きく(うなず)いた。

 聞いていたリョウは、そういうことだったのかと、はたと膝を打った。
 ソグド商人は、西域だけでなく、唐と突厥の間でも盛んに商売をしている。それと同時に、双方の情報を相手側に流したり売ったりしている。どっちからも裏切りと言われない程度には、情報を抑制しているが、どうしてそんな器用なことができるのかリョウは不思議だった。しかし、今の話を聞けば良くわかる。ソグド商人は、どちらに味方するわけでもなく、どちらもつぶれないように動いていたのだ。
 できれば両者が平和共存してくれれば最善で、たとえそれが叶わず双方が戦うことになっても、それが突厥と唐の争いである限り、ソグド商人は安泰なのだ。そこにウイグル軍が絡んでくると、ウイグル商人が軍と結託して、ソグド商人の上前(うわまえ)をはねようとしてくる。それを阻止しようと動いていたのだろう。もっとも、抜け目のないソグド商人のこと、ウイグルが優勢となれば、すぐにウイグルに取り入って鞍替えするので、ウイグル商人など敵ではないのだろうが。
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