58.グッデのおじいさん
文字数 2,408文字
小雨が降り始めたのにも気づかなかった。ここ数日なるようにしかならない。雨が降れば濡れる。悪魔に襲われたら、おそらくそのまま抵抗せずにやられる。もし悪魔祓い師が来たら、血が騒ぐのだろう。こんな状態で、何故川のほとりで水に手を浸し、映る自分の顔をまじまじと見つめ、冷たい水を喉に送るのだろう?
森は夜だというのに星の光でそれほど暗くなかった。月とは顔合わせしたくない。水面に浮いている葉が視界をよぎっていくのを、ぼんやり見ている。二枚並んで流れている葉を見つけた。途中二枚が重なって、一枚が沈んでいった。残った一枚は流れ去り、沈んだ一枚は止まったまま。
顔を上げると、ぼんやりと丘が見えた。いつの間にか森が開けている。よくグッデと演奏しにいったり、走り回ったりしたホルストーンの丘とそっくりだ。そこに人影が見える。驚いてしまい、拒絶できない。思考が完全に停止し、おじいさんが近づいてくるのを自ら待っている。逃げてきたのに。これまで幾度となく。今すぐにでも物陰に隠れたいのに。
「うかない顔をしてどうしたのかのう? わしの孫と仲良くやっとるか?」
懐かしく、優しい笑顔が胸に突き刺さる。さり気ない一言にして、これまで受けたどんな言葉より残酷に聞こえる。グッデのおじいさんは、昔と変わらず、いつまでも若い、無垢な瞳をしている。グッデとそっくりだ。とてもじゃないが目を合わせていられない。もうここにグッデはいない。
おじいさんが詰め寄ってくるように感じた。不自然に映っているのだろう。どこにいってもいっしょだった二人。僕らは二人で一つだったみたで、今は半身が足りない。伝えなければいけない。はっきりと。
「ここにはもういないんです」
不思議そうな顔をするグッデのおじいさん。沈黙の合間を縫うように風が吹き抜けていく。
「どういうことじゃ? どこかに行っとるのか?」
グッデの名を出そうとしたら、頬を一筋の涙が伝った。顎まで達すると雨の雫と混じった。これでは何も話せやしない。言葉を探せば探すほど、とめどなく流れ落ちる。冷たい雨が重なって、視界が何重にも滲む。見るに忍びなかったのだろうか?
いつまでも濡れていると、おじいさんは雨をさえぎってくれた。おそらく傘だろうが、顔を見れないのでずっと、うつむいていた。たとえ慰めてもらっても、その資格がない。
「すみません」
何に対して謝ったのか分からない。だけどこれは全ての人に言える。心配そうにおじいさんが覗き込んでくるのが分かる。だからなおさら辛い。
「取り返しがつかないんだ」
他人の声に思えるくらいに震えた声が、明らかにおじいさんを困らせている。僕は背中を撫でられると、何度もしゃくり上げそうになる。
「グッデはいない。この世にはもういない!」
雲の上に立っているように足元が不安定になってくる。だが、今言葉を濁すと、もう二度と口から伝えられなくなる。
「僕が殺した。自分で抑えられなかった!」
大粒の雨にえぐられた土の上に、おじいさんの傘が落ちる。そのときはじめて気づいた。おじいさんの被っていた帽子が赤いことに。ああ、この人はいつも若い。僕はそのことを残念に思った。興奮と震えが皮下から迫ってくる。
「どうして? どうして孫を!」
おじいさんに揺さぶられた。今まで、グッデといっしょにどんなことをしても、優しく許してくれたグッデのおじいさんが、もう許してくれないだろう。どう謝罪したって済まされない。
「僕は悪魔だったから!」
脅してでも、これ以上近づかせるわけにはいかない。背筋から欲求が甦ってくる。さすがに自分でも自覚できる異変を感じた。前かがみで、獲物に飛びつくチャンスをうかがっていては。
どうにもならない邪悪な血。今この大切な人を今一度襲うことになるとは。我慢の限界。理性の限界。ああ。嫌だ。どうして今ここに自分はいるんだ!
爪が獲物へと先走っていく。おじいさんの叫び。と、その時腕を捕まれた。チャスフィンスキーだ! だけど湧き上がってくる力。これは怒り? 分からない。振り払おうと暴れて、それでも放さないので、チャスの腕目がけて爪を振り下ろした。が、チャスの腕からバリバリという音とともに電気が走ってきた。痛い! 熱い! とにかく騒ぎ、喚く。目に見えるほどの放電。意思もなくなったかのように喚く体。ひたすら悪魔の雄たけびをあげる。
目が覚めると、息をすることが辛かった。酷い夢だ。おじいさんがあそこにいるわけなどないのだが。でも何でベッドで寝ているのだろうか? 誰も怪我はないのだろうか? どこにいるのだろうか? しかし起き上がる気になれなかった。
何分過ぎても、この部屋に人は誰もやって来なかった。まるで隔離されたかのように。部屋自体はそういう造りではない。窓もあるし、本棚だってある。それと、このベッド。ドアはない。焦った。でもすぐに思い直した。これでいいのだ。一人なら落ち着いていられる。
窓の外は海だった。崖の上だ。ここはどこだろう? そんな思いも、どうでもよくなった。本棚があることが気休めだろう。読む気など起きないが。ずっとこのまま時間が止まればいい。何も考えないで、何もしなくていいのなら。
窓の外の景色は少しずつ変わっていく。これほどゆったりと時が流れるのを感じたのは何ヶ月ぶりだろう。うとうとしはじめた頃、後ろの壁が扉のように開いた。飛ぶように逃げると、顔色の悪いチャスフィンスキーが入ってきた。後ろに上機嫌でも、不機嫌でもない魔術師のオルザドークがいる。
ちらりと見えた向こうの部屋には見覚えがある。ここはチャスの家の中の一部屋だったのだ。窓の外の風景は魔法の作り物だったらしい。今は、小鳥のさえずる森に変わっている。
最初に切り出したのはチャスだ。たぶん彼がいなかったら、誰も話し出さなかった。
「気絶させるしか手はなかった。ごめんな」
森は夜だというのに星の光でそれほど暗くなかった。月とは顔合わせしたくない。水面に浮いている葉が視界をよぎっていくのを、ぼんやり見ている。二枚並んで流れている葉を見つけた。途中二枚が重なって、一枚が沈んでいった。残った一枚は流れ去り、沈んだ一枚は止まったまま。
顔を上げると、ぼんやりと丘が見えた。いつの間にか森が開けている。よくグッデと演奏しにいったり、走り回ったりしたホルストーンの丘とそっくりだ。そこに人影が見える。驚いてしまい、拒絶できない。思考が完全に停止し、おじいさんが近づいてくるのを自ら待っている。逃げてきたのに。これまで幾度となく。今すぐにでも物陰に隠れたいのに。
「うかない顔をしてどうしたのかのう? わしの孫と仲良くやっとるか?」
懐かしく、優しい笑顔が胸に突き刺さる。さり気ない一言にして、これまで受けたどんな言葉より残酷に聞こえる。グッデのおじいさんは、昔と変わらず、いつまでも若い、無垢な瞳をしている。グッデとそっくりだ。とてもじゃないが目を合わせていられない。もうここにグッデはいない。
おじいさんが詰め寄ってくるように感じた。不自然に映っているのだろう。どこにいってもいっしょだった二人。僕らは二人で一つだったみたで、今は半身が足りない。伝えなければいけない。はっきりと。
「ここにはもういないんです」
不思議そうな顔をするグッデのおじいさん。沈黙の合間を縫うように風が吹き抜けていく。
「どういうことじゃ? どこかに行っとるのか?」
グッデの名を出そうとしたら、頬を一筋の涙が伝った。顎まで達すると雨の雫と混じった。これでは何も話せやしない。言葉を探せば探すほど、とめどなく流れ落ちる。冷たい雨が重なって、視界が何重にも滲む。見るに忍びなかったのだろうか?
いつまでも濡れていると、おじいさんは雨をさえぎってくれた。おそらく傘だろうが、顔を見れないのでずっと、うつむいていた。たとえ慰めてもらっても、その資格がない。
「すみません」
何に対して謝ったのか分からない。だけどこれは全ての人に言える。心配そうにおじいさんが覗き込んでくるのが分かる。だからなおさら辛い。
「取り返しがつかないんだ」
他人の声に思えるくらいに震えた声が、明らかにおじいさんを困らせている。僕は背中を撫でられると、何度もしゃくり上げそうになる。
「グッデはいない。この世にはもういない!」
雲の上に立っているように足元が不安定になってくる。だが、今言葉を濁すと、もう二度と口から伝えられなくなる。
「僕が殺した。自分で抑えられなかった!」
大粒の雨にえぐられた土の上に、おじいさんの傘が落ちる。そのときはじめて気づいた。おじいさんの被っていた帽子が赤いことに。ああ、この人はいつも若い。僕はそのことを残念に思った。興奮と震えが皮下から迫ってくる。
「どうして? どうして孫を!」
おじいさんに揺さぶられた。今まで、グッデといっしょにどんなことをしても、優しく許してくれたグッデのおじいさんが、もう許してくれないだろう。どう謝罪したって済まされない。
「僕は悪魔だったから!」
脅してでも、これ以上近づかせるわけにはいかない。背筋から欲求が甦ってくる。さすがに自分でも自覚できる異変を感じた。前かがみで、獲物に飛びつくチャンスをうかがっていては。
どうにもならない邪悪な血。今この大切な人を今一度襲うことになるとは。我慢の限界。理性の限界。ああ。嫌だ。どうして今ここに自分はいるんだ!
爪が獲物へと先走っていく。おじいさんの叫び。と、その時腕を捕まれた。チャスフィンスキーだ! だけど湧き上がってくる力。これは怒り? 分からない。振り払おうと暴れて、それでも放さないので、チャスの腕目がけて爪を振り下ろした。が、チャスの腕からバリバリという音とともに電気が走ってきた。痛い! 熱い! とにかく騒ぎ、喚く。目に見えるほどの放電。意思もなくなったかのように喚く体。ひたすら悪魔の雄たけびをあげる。
目が覚めると、息をすることが辛かった。酷い夢だ。おじいさんがあそこにいるわけなどないのだが。でも何でベッドで寝ているのだろうか? 誰も怪我はないのだろうか? どこにいるのだろうか? しかし起き上がる気になれなかった。
何分過ぎても、この部屋に人は誰もやって来なかった。まるで隔離されたかのように。部屋自体はそういう造りではない。窓もあるし、本棚だってある。それと、このベッド。ドアはない。焦った。でもすぐに思い直した。これでいいのだ。一人なら落ち着いていられる。
窓の外は海だった。崖の上だ。ここはどこだろう? そんな思いも、どうでもよくなった。本棚があることが気休めだろう。読む気など起きないが。ずっとこのまま時間が止まればいい。何も考えないで、何もしなくていいのなら。
窓の外の景色は少しずつ変わっていく。これほどゆったりと時が流れるのを感じたのは何ヶ月ぶりだろう。うとうとしはじめた頃、後ろの壁が扉のように開いた。飛ぶように逃げると、顔色の悪いチャスフィンスキーが入ってきた。後ろに上機嫌でも、不機嫌でもない魔術師のオルザドークがいる。
ちらりと見えた向こうの部屋には見覚えがある。ここはチャスの家の中の一部屋だったのだ。窓の外の風景は魔法の作り物だったらしい。今は、小鳥のさえずる森に変わっている。
最初に切り出したのはチャスだ。たぶん彼がいなかったら、誰も話し出さなかった。
「気絶させるしか手はなかった。ごめんな」