48.別れ

文字数 1,460文字

 「バレ?」


 不思議なほどに冷静な声のグッデ。息が乱れたのは僕の方だった。何が起きたのか分からない。手が、腕がぬめりを帯びている。真紅の温もりが僕の手にある。


 冷たい水に打たれたような気分だ。怯えたグッデの表情の上には飛び散った血のりの痕が滴る。震えが止まらない。


 グッデの首から下を見る勇気がない。それでも視線を降ろしていくと、胸から腹まで及ぶ五本の切り傷。それも全て足まで血が滴っている。赤く染まっているのはグッデだけではなかった。


 僕のブラウスも色を変えていた。一番先に覚えたのは、不気味な指の感覚。爪の間に血の塊が詰まっている。爪がおかしい。やや伸びているし、黒い。滴っているのは血。赤い血。グッデの血。


 いたいけなグッデの顔を見て、取り返しのつかないことをしてしまったと気づいた。望んではいけないことを望んでしまった。得てしまった。雲が月を隠した。空が闇に覆われて、一切の光を絶ってしまった。このままだと本当に大切なものを失ってしまう。


 グッデはしばらく見上げるような格好で立っていたが、出血がひどいため、とうとう足から力が抜けたように倒れた。


 見知らぬおじさんが駆けつけてきた。旅をしていて色んな人に会ったが、こんないいタイミングで現れた人は初めてだった。だが、それも、僕にとっては、悪いタイミングだった。おじさんは僕を一目見るなり言った。

 「おまえがやったのか?」


 あきらかに、恐怖と憎悪の目で見ていた。返り血を浴びて立っているのだ。誰に何を言われても仕方がない。現に、この手で、この手でやってしまった! 分からない。何で? 何が起きた? どうして? どうしてこんなことに?


 呼吸も困難なくらい弱っているグッデ。自分をののしるおじさん。血に染まった自分の手……。僕がやったのか? ほんとに僕がやったのか? やったんだ。僕がやったんだ! 僕が、僕が、やってしまったんだ。


 足が、後退りしはじめた。グッデの訴える目がゆっくりと閉じていく。僕の代わりに一生懸命おじさんがグッデを揺さぶっているが、こと切れているのは誰の目にも明らかだった。血だまりが地面に広がっていく。グッデが死んだ。


 ごめんとか、そんな言葉言えるわけもなかった。それに、その血だまりを見ているともう我慢できない。もうここにはいられない。とにかく走るしかなかった。気づくと、そこから逃げていた。

 「お、おい!」


 おじさんも、グッデさえも遠ざけた。目に映る惨事が、悪い夢であったかのように。それでも振りきれない。事実は変えられない。振りきれない。すごく怖い。これまで大切にしてきたものが、一瞬にして消え去ってしまうかもしれない。


 かもしれないではなく、今の一瞬で失われた。何もかも無になってしまう。グッデは僕を憎んでいるかもしれない。そうだ、そうに決まっている。


 僕は今までどこにそんな力があったのかという全速力で走っていた。ときどき右足と左足で、もつれたり絡まったりする。


 風が冷たい。頭の中で、次々に浮き上がってくる恐怖と不安の混ざったものが、混乱を招く。頭といえば、さっきから熱い。目頭も熱い。少し濡れている気がする。グッデの名を心の中で呼んでみる。自分が犯してしまった罪の大きさがのしかかる。


 足が止まり、そのままへたり込んだ。一度座ると立てないぐらいに震えていることに気づいた。


 手には微妙に冷えた赤いものが残っている。自分が一度望んだものだ。見るに見られず、目をきつくつぶった。何故。何故なのか。どうしてこんなものを望んでしまったんだ!
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