146.ディス登場
文字数 2,001文字
子守唄のような、か細い声がする。バロピエロが微笑んでいる。偽りではなく、まるで、母のようだ。体が軽くなった。
手袋から太陽の光が降り注ぐ。冷え切った体の内側から、熱と力が戻ってくる。破裂しそうなほど、速く。腹と、胸の傷に、床に広がっている大量の血が風に舞い、傷口に戻ってくる。
でも、内側にあり余る力に体がついていけない。血が止まり始め、傷痕も残り始める。魔界で受けた傷は全て残っていく。特に肩が大きく、えぐれたと分かる。
「もういい頃でしょうか。仕上げといきましょう。彼に会ってきて下さい」
傷が完治したところで、母に見えていたバロピエロが悪魔のように笑う。手を握られ、不安になる。今度は自分で額に触れさせられる。何がはじまるのだ?
バロピエロが、「それでは」と、消えていく。後は、自分で何とかしろということか。もう、引き止めはしない。
照明が消えた。部屋が闇に包まれる。そもそも、この部屋には明かりがあったのかさえ分からない。ロウソクも、電球も見当たらないのに、この白い部屋は自ら光っていた。
それが失われると、どうしてか寂しい。檻が消え、宇宙のように広がる空間。さっきと同じ場所なのだろうか?
風が吹いている。密室ではない。どこまでも平行線な世界だ。床は、歩く度にガラスが砕ける音を立てる。ところどころ床が割れている。ここはジークの城ではなさそうだ。
城はどこも冷たい。床のひび割れた間から、吹き上げる温かい風を受けているとそう気づいた。ちょうど元気を取り戻した心臓と同じように、風は温かく、一定のリズムで吹き上がる。定期的な風の音に合わせて、歩いて行く。
宇宙に放り出されたようで、物悲しい。暗いし、誰に会っても顔を判別できないだろう。明かりが欲しいと思っていると、まばゆい光が満ちた。
両目をつぶると光は弱まった。床が光っている。初めて分かったが、床は一面ガラスだった。それも、はじめからひび割れている。
靴に何枚か、破片が刺さっていた。バロピエロはこんなところで、誰に会えと言ったのか? ジークではないだろう。親しい人に会えたら嬉しいが。
こんなときに何を甘えたことを思っているのだろう。ひびの入っていない一枚のガラスをじっと見つめていた。そこに誰かが映った。グッデのおじいさんだ!
疑問を口にする前に、おじいさんの隣に自分の姿を見た。グッデのおじいさんに食事をよばれている。旅立つ前、人間の頃の自分だ。
鏡が音を立てて砕けた。破片が腕を傷つけた。けれども、立ち尽くしている。グッデのおじいさんがガラスから消えた。もっと、覗いていたかった。
割れていないガラスを探した。おおよそ、視界に入る半数以上が割れている。なかなか、見つからないので駆け足になる。
割れていないガラスを見つけると、すぐに覗き込んだ。燃え盛る図書館。僕は誰かといっしょに廊下を走っている。隣にいるのは、グッデ。
ああ、どうして、こんなに嬉しくて悲しいんだ。乾いた瞳を涙が潤す。また、鏡が割れる。視線を落とすと、隣の鏡に映った別の過去が見えた。過去を映す鏡か。
すでにひびが入っているにもかかわらず、映像が流れだす。過去へと連れ戻す。グッデだ。荒い呼吸が耳にこだまする。
グッデの乱れた呼吸と、醜く笑みを浮かべる鏡の中の自分と、今ここで立ち尽くしている自分の息が混ざり合う。薄青い見開かれた目が、自分を見上げている。そんな、目で見ないでくれ!
今になっても恐ろしい光景だ。視線を逸らして鏡から逃げる。その場を離れると、また一枚鏡が割れた音がした。割れた後も、さっきの鏡を見る勇気が出ない。
身の破滅の始まりを今更見ても、後悔も、何も感じない。だけど、親友の死はそう簡単に片づけられない。
頭から全てを消し去りたい。そう願うと、鏡に亀裂が入り、次々に崩壊を始めた。飛び散った破片が足や腕に刺さる。
これは、報いだろうか。闇色 の血が、もう元の人間の血の色に戻らないと見せつけて流れていく。
「心に逆らおうとしなくてもいいんじゃないか。ここが心の中ってことに限らずに」
若い青年の声がする。初めて聞くはずだが、聞いたことがある。どこにも姿は見えない。足音もしないが、声は近づいている。
「闇色の血も、ジークを憎む感情がそうさせているだけだ。まだ、元に戻せる」
目の前で聞こえた声が、闇の空間からベールを脱ぐ。
自分より背丈の高い青年が近づいてきた。腰まである黒髪と、宇宙のように深みのある黒い瞳が印象的だ。群青のローブが、高貴な身分を現わしているように見える。
しかし、その雰囲気を男の疲れきった表情が台無しにしている。男の面影に、ぞっとするものを感じた。
ジークと瓜二つの顔だ。だが、ジークと違い悪魔特有の嫌らしい笑みはない。微笑みがこぼれるどころか、口は引き締まり、厳しくこちらを正視している。
「ディス、なのか?」
手袋から太陽の光が降り注ぐ。冷え切った体の内側から、熱と力が戻ってくる。破裂しそうなほど、速く。腹と、胸の傷に、床に広がっている大量の血が風に舞い、傷口に戻ってくる。
でも、内側にあり余る力に体がついていけない。血が止まり始め、傷痕も残り始める。魔界で受けた傷は全て残っていく。特に肩が大きく、えぐれたと分かる。
「もういい頃でしょうか。仕上げといきましょう。彼に会ってきて下さい」
傷が完治したところで、母に見えていたバロピエロが悪魔のように笑う。手を握られ、不安になる。今度は自分で額に触れさせられる。何がはじまるのだ?
バロピエロが、「それでは」と、消えていく。後は、自分で何とかしろということか。もう、引き止めはしない。
照明が消えた。部屋が闇に包まれる。そもそも、この部屋には明かりがあったのかさえ分からない。ロウソクも、電球も見当たらないのに、この白い部屋は自ら光っていた。
それが失われると、どうしてか寂しい。檻が消え、宇宙のように広がる空間。さっきと同じ場所なのだろうか?
風が吹いている。密室ではない。どこまでも平行線な世界だ。床は、歩く度にガラスが砕ける音を立てる。ところどころ床が割れている。ここはジークの城ではなさそうだ。
城はどこも冷たい。床のひび割れた間から、吹き上げる温かい風を受けているとそう気づいた。ちょうど元気を取り戻した心臓と同じように、風は温かく、一定のリズムで吹き上がる。定期的な風の音に合わせて、歩いて行く。
宇宙に放り出されたようで、物悲しい。暗いし、誰に会っても顔を判別できないだろう。明かりが欲しいと思っていると、まばゆい光が満ちた。
両目をつぶると光は弱まった。床が光っている。初めて分かったが、床は一面ガラスだった。それも、はじめからひび割れている。
靴に何枚か、破片が刺さっていた。バロピエロはこんなところで、誰に会えと言ったのか? ジークではないだろう。親しい人に会えたら嬉しいが。
こんなときに何を甘えたことを思っているのだろう。ひびの入っていない一枚のガラスをじっと見つめていた。そこに誰かが映った。グッデのおじいさんだ!
疑問を口にする前に、おじいさんの隣に自分の姿を見た。グッデのおじいさんに食事をよばれている。旅立つ前、人間の頃の自分だ。
鏡が音を立てて砕けた。破片が腕を傷つけた。けれども、立ち尽くしている。グッデのおじいさんがガラスから消えた。もっと、覗いていたかった。
割れていないガラスを探した。おおよそ、視界に入る半数以上が割れている。なかなか、見つからないので駆け足になる。
割れていないガラスを見つけると、すぐに覗き込んだ。燃え盛る図書館。僕は誰かといっしょに廊下を走っている。隣にいるのは、グッデ。
ああ、どうして、こんなに嬉しくて悲しいんだ。乾いた瞳を涙が潤す。また、鏡が割れる。視線を落とすと、隣の鏡に映った別の過去が見えた。過去を映す鏡か。
すでにひびが入っているにもかかわらず、映像が流れだす。過去へと連れ戻す。グッデだ。荒い呼吸が耳にこだまする。
グッデの乱れた呼吸と、醜く笑みを浮かべる鏡の中の自分と、今ここで立ち尽くしている自分の息が混ざり合う。薄青い見開かれた目が、自分を見上げている。そんな、目で見ないでくれ!
今になっても恐ろしい光景だ。視線を逸らして鏡から逃げる。その場を離れると、また一枚鏡が割れた音がした。割れた後も、さっきの鏡を見る勇気が出ない。
身の破滅の始まりを今更見ても、後悔も、何も感じない。だけど、親友の死はそう簡単に片づけられない。
頭から全てを消し去りたい。そう願うと、鏡に亀裂が入り、次々に崩壊を始めた。飛び散った破片が足や腕に刺さる。
これは、報いだろうか。
「心に逆らおうとしなくてもいいんじゃないか。ここが心の中ってことに限らずに」
若い青年の声がする。初めて聞くはずだが、聞いたことがある。どこにも姿は見えない。足音もしないが、声は近づいている。
「闇色の血も、ジークを憎む感情がそうさせているだけだ。まだ、元に戻せる」
目の前で聞こえた声が、闇の空間からベールを脱ぐ。
自分より背丈の高い青年が近づいてきた。腰まである黒髪と、宇宙のように深みのある黒い瞳が印象的だ。群青のローブが、高貴な身分を現わしているように見える。
しかし、その雰囲気を男の疲れきった表情が台無しにしている。男の面影に、ぞっとするものを感じた。
ジークと瓜二つの顔だ。だが、ジークと違い悪魔特有の嫌らしい笑みはない。微笑みがこぼれるどころか、口は引き締まり、厳しくこちらを正視している。
「ディス、なのか?」