10.要姫

文字数 1,966文字

 赤い空が見える。波に打ち上げられている。何がどうなっているのか分からないまま、血ではなく地に背中から落ちた。強く背中を打って痛くて気づかなかったが、首にはジェルダン王の指の跡がもう塞がりはじめている。それにもう目がかすむこともない。


 確かにさっき血を抜かれたのにもう治ったのか? ひょっとして僕を殺せなかったのか? 僕が死なないから? 


 それとも、殺さなかったのか。また疑問が湧いたとき、隣で大きな音がする。グッデが降ってきた。血の気のない唇。白い顔。それもそのはずだ、グッデが血の中で息ができるわけがない。

 戸惑っていると、豪雨のような音が聞こえた。恐る恐る振り返ると、再び津波ができているのが目に入った。


 「貴様達だけは見逃してやろう。封印を解いてくれた礼だ」

 何を言っているのかすぐに分かった。血しぶきが町に向かっていく。水の法にある町が滅びるというのは、このことだったのかと今さらのように気づいた。


 血は次々に暴れだし、飛び跳ねるように町に落ち、人間を探して、弾み、水たまりのようになっては動き回り、手当たりしだいに生き物を血に沈め、血だけを抜き取っていくのだろう。ほうっておいたらきっとそうなると思う。さっきこの身で経験した。


 止めないと! でも足が動いてくれなかった。時間だけが長く感じる。止まっていたのかもしれないと思うほどだ。立ち尽くすことしかできないなんて。無力だ。


 絶望に食われそうなとき、髪を冷たい水が濡らした。昼間とは思えない赤い空から、今度は頬に落ちてくる。雨? 本物の雨だ。雲などどこにもない。空が、本来のまばゆい色を取り戻した。遠くに渦が見え、迫ってくる。


 空から、もう冬の寒さを感じさせない本物の夏の空から、水の竜巻とともに一人の女性が降りてきた。わずか数秒のできごとだった。


 「誰が私の封印から目覚めたのかと思ったら、こんな薄汚い血だったなんてね」

 女性、僕らに目もくれず津波に向かう。短く整った、金色色(こがねいろ)に光るきれいな髪がなびいている。眉はきりっとして鼻が高く、どこまでも透き通る水色の目。スタイル抜群。


 そう美女の中の美女。きっとグッデならそう認めることだろう。灰色のスーツ姿が女性を厳格に見せていることもあり、近づき難い雰囲気が感じられる。


 見知らぬ女性が何を始めるのかと見ていると、津波と一定の距離を置いて、扇子を取り出した。


 金属製の扇子で、宝石で作られているらしい青い龍の絵柄がある。要、(扇子の下の方についてる丸い留め金のようなもの)は、青の水晶で、中に月と十字架が入っている。それと同じ水晶を指輪にもつけていた。


 女性が高らかに扇子をかざすと、せっかく晴れていた空の雲行きが怪しくなって、雷が鳴り雨が降りだす。その雨が町に降り注ごうとしていた血の津波を洗い流した。まさかこの女性は?


 ハイヒールを鳴らしながら近づいてくる女性。何も語らず、グッデに扇子を向ける。何かされる! と、とっさにグッデの前に割って入った。おそらく、この人がおじいさんの言っていた水、月夜の要姫(かなめひめ)だ。きっと、今降らしている雨は魔法に違いない。


 「何をするつもりですか?」

 女性は何も答えない。じっと答えを待っていると、恥ずかしいものがある。魔法を恐れているなんて馬鹿げている。


 一歩、女性が歩み寄った。突然突き飛ばされた! 後ろに倒れて痛かったが、それどころじゃない。女性が扇子をグッデの胸に当てて、何かぶつぶつしゃべっている。ただでも滑稽で、いかれているように見える行動に僕は本気でたじろいだ。だが、ものの数秒後に、魔法の存在を垣間見た。


 グッデが目を覚ましたのだ。

 駆け寄ると、グッデは何がなんだか分からないといった顔をしていた。良かった。このまま目を開けてくれなかったらどうしようかと思ってた。どうやら大丈夫そうだ。


 反省を込めて、お礼を言おうと思う。何だか言いにくい。女性が冷たく見すえていたから。

 「うお、美人なお姉様。この人誰?」


 側に美人の女性が立っていると気づいたグッデが遮った。

 「グッデ。この人はグッデを助けてくれたんだ」

 「ええっ?」


 女性は無反応。突然、目つきを変えて走り出した。ハイヒールとは思えない驚くべき速さ。収まっていた血の雨がターゲットを町から女性に変えて降ってきたのだ。


 女性は、扇子で弧を描く。先端から水が同じように弧を描いて血の雨を弾き飛ばす。

 「子供だましね。少しは本気で来ることも覚えてくれたと思ってたけど」


 きっとこれも魔法に違いない。改めて確信した。グッデも目を丸くしている。と、そのとき、足がすくわれた。この光景に見入ってしまって、足元に血が集まってきているのに気づかなかった。

 今度は血でできた人間より大きな手に捕まった! この血はどんな形にでもなれるようだ。
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