03.逆流
文字数 2,031文字
病院を夢遊病者のごとく歩き回る。古びた床がきしんだ音を立てる。真夜中の暗闇から抜け出したくなった。静まり返る病院を抜け出すのは、正気のさたではない。何度も段差につまづいて、向かった先は自分の家の跡。
完全に崩れた外観から、異臭を放つ焦げた柱が突き出している。無性に恋しい。貧しかったとはいえ、それなりに暮らせた楽しい家だ。ここに辿り着いた理由が分かった。改めて認識したかったのだ。
がれきの山に分け入って、楽器を探そう。自分のビオラと、父さんのチェロ。他に、バイオリンがあったはずだ。一歩踏み入れると、足の裏に痛みを感じた。裸足だった。灰のかかったガラスが足に刺さっている。
抜こうと手を伸ばしたとき、異変が生じた。溢れ出したばかりの血が、傷口に戻った。かさぶたが取れるようにガラスが剥がれ落ちた。今の不可解な現象は何なのか?
痛みも消えている。熱帯夜の風が吐き気を誘う。家の周囲の空気が淀む。幽霊に出くわしても、こんなに背筋が寒くなるようなことはないだろう。楽器を探す勇気が出ず。慌てて逃げ帰った。そういえば、ここは白髪の少年がちょうど立っていた場所だ。
病院で朝一番に声をかけてきたのは、またしてもグッデだった。彼女にしようとしていた女の子の墓に花を供えてきたところだという。町で一番元気なこいつがしょんぼりしているのを見ると、情けなくなってくる。と言っても、自分の今の顔はもっと青ざめているのだが。
「どうした? って聞くのもおかしいな。元気出せとは言わねぇけど、その」
グッデには心配をかけたくない。だけど、これからどうすればいいのか分からない。住む家もない。頼れるのはシュパウン家しかない。グッデの家は裕福だ。だけど、そこまで面倒をかけては悪い。
それに、昨日の血。目を反らしたいことばかりだ。これらを解決する方法はたった一つしかない。この町の人ははっきり言って無知でほかの町のことは何も知らない。食べ物だって自給自足の生活で、全く隣町とは関わらない。それは掟のせいでもあるのだけど。
「旅に出たい」
一緒に音楽の道を進むとばかり思っていたのだろう。グッデが唖然としている。
「バ、バカなこと言うなよ。マジかよ。でも何で?」
「理由は」急に口ごもった。理由はあまり言いたくない。父さんと母さんがいなくなっただけでも十分理由になるが、言葉では表せない寒気がするのだ。悲しみでもなくて、痛みに近い。
僕は自分のことには無頓着だったけれど、昨日の恐怖が駆り立てた。今こそ勇気を出して旅立たなければならない。知らないことだらけではすまされない。僕はもっと自分の身に起きたことを知らなければならない。
「とにかく今日行くよ」
「急だな」
当惑するのも当然か。本当は黙って行くつもりだった。グッデは恵まれた環境にある。音楽をやめる必要などない。
「おれも行く」
驚いた。グッデと別れることばかり考えていて、とても辛かったんだ。
「駄目だよ。グッデには家族がいるんだから」
きつく言いつけると逆効果だった。一度口に出したことは取り消さない。と、腹に決めているグッデには敵わない。断っても、無視しても、置いて行っても、ついて来るのは明らかだ。
「おれに相談ぐらいしてくれよな。町の外にはかわいい女の子もいっぱいいるって噂だし、隣町のケーキは美味いって聞いたし。って誰も食べたことないけど。そうか、あれは幻のケーキなのか。うん」
もう、旅に行くことになっている。言い出しがたい秘密が、余計に言いにくくなる。グッデを巻き込みたくないという旨をどうしたら分かってもらえるのだろうか。打ち明けたいけどなかなか言えない。それに口では説明しにくい。僕自身で見せるしかない。
近くのナースを呼びつけて、グッデがお見舞いに持ってきてくれた果物を切ると嘘をつき、ナイフを借りた。
次の瞬間、グッデは目を疑っただろう。何を切るのかと見ていた青い瞳が恐怖で揺らめく。
「お、おい、何考えてんだバカ!」
グッデが叫んだときには、床に深紅の血が滴り落ちる。僕は左手首を切ったのだ。グッデは一体どうしたらいいのか分からず、ただただ、見ていた。見たこともない大量の血を。焦った末にグッデがナースを呼ぼうとするので引き止めた。声を荒げてグッデが怒鳴る。
「おまえ何やってんだよ!」
まだ焦っている。それもそうだろう、グッデの目には自殺しようとしたとしか映らないはずだ。でも、そのときが来た。変な感覚に見舞われた。グッデが異変に気づいた。
手についていた血が、どんどん上に吸い上げられて、引きよせられる。血が逆流する。手首へと戻って来る。ものの、数秒で元通り。床について乾きかけた血も、戻った。手首の傷口も消えている。
「どうなってんだよ」グッデの声は混乱しきってかすれている。
あまり自信はなかったが成功だ。忌まわしい腕を布団で隠す。
「これでも、一緒について来てくれる? 僕が何者か知りたいんだ」
完全に崩れた外観から、異臭を放つ焦げた柱が突き出している。無性に恋しい。貧しかったとはいえ、それなりに暮らせた楽しい家だ。ここに辿り着いた理由が分かった。改めて認識したかったのだ。
がれきの山に分け入って、楽器を探そう。自分のビオラと、父さんのチェロ。他に、バイオリンがあったはずだ。一歩踏み入れると、足の裏に痛みを感じた。裸足だった。灰のかかったガラスが足に刺さっている。
抜こうと手を伸ばしたとき、異変が生じた。溢れ出したばかりの血が、傷口に戻った。かさぶたが取れるようにガラスが剥がれ落ちた。今の不可解な現象は何なのか?
痛みも消えている。熱帯夜の風が吐き気を誘う。家の周囲の空気が淀む。幽霊に出くわしても、こんなに背筋が寒くなるようなことはないだろう。楽器を探す勇気が出ず。慌てて逃げ帰った。そういえば、ここは白髪の少年がちょうど立っていた場所だ。
病院で朝一番に声をかけてきたのは、またしてもグッデだった。彼女にしようとしていた女の子の墓に花を供えてきたところだという。町で一番元気なこいつがしょんぼりしているのを見ると、情けなくなってくる。と言っても、自分の今の顔はもっと青ざめているのだが。
「どうした? って聞くのもおかしいな。元気出せとは言わねぇけど、その」
グッデには心配をかけたくない。だけど、これからどうすればいいのか分からない。住む家もない。頼れるのはシュパウン家しかない。グッデの家は裕福だ。だけど、そこまで面倒をかけては悪い。
それに、昨日の血。目を反らしたいことばかりだ。これらを解決する方法はたった一つしかない。この町の人ははっきり言って無知でほかの町のことは何も知らない。食べ物だって自給自足の生活で、全く隣町とは関わらない。それは掟のせいでもあるのだけど。
「旅に出たい」
一緒に音楽の道を進むとばかり思っていたのだろう。グッデが唖然としている。
「バ、バカなこと言うなよ。マジかよ。でも何で?」
「理由は」急に口ごもった。理由はあまり言いたくない。父さんと母さんがいなくなっただけでも十分理由になるが、言葉では表せない寒気がするのだ。悲しみでもなくて、痛みに近い。
僕は自分のことには無頓着だったけれど、昨日の恐怖が駆り立てた。今こそ勇気を出して旅立たなければならない。知らないことだらけではすまされない。僕はもっと自分の身に起きたことを知らなければならない。
「とにかく今日行くよ」
「急だな」
当惑するのも当然か。本当は黙って行くつもりだった。グッデは恵まれた環境にある。音楽をやめる必要などない。
「おれも行く」
驚いた。グッデと別れることばかり考えていて、とても辛かったんだ。
「駄目だよ。グッデには家族がいるんだから」
きつく言いつけると逆効果だった。一度口に出したことは取り消さない。と、腹に決めているグッデには敵わない。断っても、無視しても、置いて行っても、ついて来るのは明らかだ。
「おれに相談ぐらいしてくれよな。町の外にはかわいい女の子もいっぱいいるって噂だし、隣町のケーキは美味いって聞いたし。って誰も食べたことないけど。そうか、あれは幻のケーキなのか。うん」
もう、旅に行くことになっている。言い出しがたい秘密が、余計に言いにくくなる。グッデを巻き込みたくないという旨をどうしたら分かってもらえるのだろうか。打ち明けたいけどなかなか言えない。それに口では説明しにくい。僕自身で見せるしかない。
近くのナースを呼びつけて、グッデがお見舞いに持ってきてくれた果物を切ると嘘をつき、ナイフを借りた。
次の瞬間、グッデは目を疑っただろう。何を切るのかと見ていた青い瞳が恐怖で揺らめく。
「お、おい、何考えてんだバカ!」
グッデが叫んだときには、床に深紅の血が滴り落ちる。僕は左手首を切ったのだ。グッデは一体どうしたらいいのか分からず、ただただ、見ていた。見たこともない大量の血を。焦った末にグッデがナースを呼ぼうとするので引き止めた。声を荒げてグッデが怒鳴る。
「おまえ何やってんだよ!」
まだ焦っている。それもそうだろう、グッデの目には自殺しようとしたとしか映らないはずだ。でも、そのときが来た。変な感覚に見舞われた。グッデが異変に気づいた。
手についていた血が、どんどん上に吸い上げられて、引きよせられる。血が逆流する。手首へと戻って来る。ものの、数秒で元通り。床について乾きかけた血も、戻った。手首の傷口も消えている。
「どうなってんだよ」グッデの声は混乱しきってかすれている。
あまり自信はなかったが成功だ。忌まわしい腕を布団で隠す。
「これでも、一緒について来てくれる? 僕が何者か知りたいんだ」