白虎の矜持

文字数 1,723文字

 湖岸へ続く崖を、(まもる)は飛ぶように下りていく。
 月明りも届かない、深い闇に沈む斜面。
 だが、(まもる)の足は止まることがない。
 
 五感に頼らなくても、周囲の様子が手に取るようにわかる。
 足元がぐらついても、枝をつかみそこなっても。
 アーユスで簡単にバランスを保つことができた。
 転倒する不安など、どこにもない。
 
――開放するべきときは、自ずとわかるわ――
 
 (おぼろ)な光の少女だった蒼玉(そうぎょく)の言葉が、今わかった。
 パドマのすべてが、熱を持ってさらに開いていく。

 目に飛び込んできた光景に、湖岸にたどり着いた(まもる)の足が止まった。
 月明りを反射した湖の上空で、華奢な人影が蒼玉(そうぎょく)に太刀を向けている。
「そ……」
 (まもる)が声をかけようとしたそのとき、その人影を光縄が引きはがした。
「きゃああっ」
「何をやっているのだ、タるラぁぁぁぁっ」
 濁った重い怒号が響き、長い髪を振り乱して落下した人影が、太刀で光縄を斬り払う。

(……誰?)

 月光に照らされた美しい、けれど狼の目をした少女を(まもる)は呆然と見上げた。
(まもる)っ』
 一瞬。
 ほんの一瞬だけ漏れ出した蒼玉(そうぎょく)のアーユスに、美少女がにやりと笑う。
「アレってチャンドラの大事なモノ?じゃあ、壊しちゃわなきゃねっ」
 太刀を振りかぶった美少女が、(まもる)に向かってきた。
(まもる)!」
『わかってる』
「オン・アミリタ・テイセイ・カラウン!」※1
 深く息を吸って、(まもる)は腹の底からマントラを唱える。
「出で給え、白虎!」

 ガキン!!

 鋭い金属音が夜空を貫いた。
「な、んで……」
 白い大虎に太刀をくわえ込まれて、身動きの取れなくなった少女の目が、驚愕に丸くなる。
 だが、それも一瞬。
 美少女は太刀を手放して、振り向きざま(ふところ)から抜いた短刀を構えた。
 
 キィィィン!

 斬り結び合った蒼玉(そうぎょく)と美少女の短刀が、火花を散らす。
「……チャンドラ……。なんであんたはアタシの邪魔ばっかりするのっ。なんで人のままでいられるの?なんで?!」
 振りぬかれた美少女の短刀を、蒼玉(そうぎょく)が身軽にかわした。
稀鸞(きらん)めぇっ」
 少女たちが戦うその向こうの上空を、大鬼が唸り声を上げて横切っていく。
「この死にぞこないがぁ!」
 
 キンっ!!
 キィィン!

 闇と光の太刀が絶え間なくぶつかり合い、稀鸞(きらん)と大鬼のシルエットが近づいてはまた遠ざかる。
「そのアーユス、オマエのものだけではないな。徒人(ただびと)……、それも未熟なアーユスを取り込んだのか。くっ、くくく、あーはははは!」
 (わら)う鬼がむくむくと膨張していった。
「知っているか死にぞこない。この世は闇鬼(アンデラ)の楽園よ。邪心、賊心、害心がこれでもかというほど満ちている。個は弧であり、人の数だけ(ちり)のような正義がある。実に馬鹿らしくて、実に愉快だ」
 大鬼の足元に広がる湖が、不穏に波立ち始める。
「そのなかにほんの少し浸るだけで力が満ちるのだ。暗黒(カーラ)の力がなっ」
 波は(うず)を作り、そこから強い瘴気(しょうき)が立ち昇ってきた。
「くっ」
 吐き気を催すほどの邪気によろめく(まもる)を、白い大虎が寄り添い支える。
 薄らぼんやりとした霧はしだいに凝縮して、空に届くほどの大蛇となっていった。
(まもる)!結界のなかに、

に戻って。とうとう開いてしまった……』
 美少女の苛烈な攻撃をいなしながら、蒼玉(そうぎょく)(まもる)に『逃げろ』とアーユスを飛ばす。
『お願い、戻って!』
『あれは何?』
『あれはアンデラの将、傲慢の悪魔』
「ふふっ、怖いの?さすがのチャンドラでも」
 からかうように、月明りに照らされた美少女が小首を傾げた。
「気配はあっても、縛合(サンガ)がなくて顕現したことはなかったものね。現世(うつしよ)で見るのは初めてでしょう?」
 満面の笑みを浮かべながら、美少女は目にも止まらぬ攻撃を蒼玉(そうぎょく)にしかける。
「ここであんたも終わればいいのよ!」
「終わるのはあなたよ、瑠璃(るり)っ」
「真名を呼ばないで!」
「では何と呼べばいいの?あなたはもうタルラじゃない。闇堕ちしたヴィーラのできそこないとでも?」
 蒼玉(そうぎょく)の挑発に、瑠璃(るり)の柳眉が逆立った。
「……そのすまし顔、大っ嫌い!!」
 瑠璃(るり)が両手首にはまる暗黒の腕輪を打ち合わせる。
「消えてっ。アタシの前から消えて!!」
 すばやく飛び去る蒼玉(そうぎょく)に、幾本もの闇縄が迫っていった。

※1 阿弥陀如来マントラ 人々の心の闇を「無限の光明」で浄化 方角では西
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