捨て犬事件の顛末(てんまつ)
文字数 3,409文字
弟が笑っている。
本当に、心から楽しそうに。
あんな屈託のない顔を見るのは久しぶりだ。
そうだな、バロンをプレゼントして以来だろうか。
ひとりにしがちな「my dear baby 」を心配した、母親から相談された小学校入学祝い。
迷うことなく、犬がいいと思った。
面倒見のいい子だから、よい友だちになるだろうと。
親族とこじれてからは、バロンにしか本音をさらけ出せないようで、心配もしていたけれど。
いつの間にか、あんなに親しくする仲間ができていたんだな。
「末永く、よろしくお願いいたします」
秋鹿 社長がスマートに一礼すると、秘書と一緒に去っていった。
「放っておいても大丈夫でしょうか」
不機嫌なまま出ていった妻の背中を、義叔父 が心配そうに見送っている。
「高梁 さんが任せたほどの息子さんなんだから、大丈夫だろう。……いつも済まないね、妹が」
父親が頭を下げると、義叔父 が慌てて同じように頭を下げた。
「私が夫として至らなくて」
その隣では、母親が弟と同い年の従弟 に手を差し出している。
「これからは同志になるのね。よろしく」
「同志?」
「イオキコーポレーションと同盟を組んでくれるんでしょう?私の会社理念と同じよ」
にっと笑う男前な義伯母 に、従弟 の眉が曇った。
「でも義伯母 さま、僕は創二 君に……」
「その問題はふたりで解決してちょうだい。それでもね」
母が従弟 の腕にそっと手を添える。
「子供にとって、家族からの影響は大きい。私たちが配慮すべきだったのよ、もっとね。大人としての落ち度だわ」
「すまなかったな」
両親の謝罪に従弟 は目を落として、短く首を横に振った。
「私がもっとかばってやれればよかったんだが……。そうすると、余計にお前にキツく当たるからな。でも、それは言い訳か……」
義叔父 がため息をついて天井を見上げる。
「やりようは、いくらでもあった」
「なかったと思うよ。それに、そのストレスを俺は創二 に向けてたんだから、同じレベルだ。……ほんとに、ごめんなさい」
顔を伏せたまま、従弟 は頭を下げた。
「創一 さんも、今までうるさくしてごめんなさい」
「うるさいなんて思ったことはないよ」
正直、従弟 があれほど頻繁 に自分を訪ねてくる、その理由がわからなかったのだが。
叔母の指示に逆らえなかったのかと思えば、不憫 に思う。
「これからも、何かあったら連絡して。そうそう、僕は家を出て、ひとり暮らしをする予定なんだ。きみはどうするの?僕の隣の部屋が、まだ空いていたはずだけれど」
「ああ、あそこからなら大学にも通いやすい。……離れるのもいいかもしれないね」
「しかし、あれはイオキの所有物件でしょう。息子が下宿するなら、それは私が用意すべき」
「何を言っているんだ。一族の大切な子供、それに変わりはないじゃないか」
「……お義兄 さん……」
親族同士、こんなに穏やかな雰囲気になるのも久しぶりだ。
見れば、ハーフモデルの友達に肩を組まれた弟は、華やかな女性陣を前に顔を真っ赤にしながらも、そつなく言葉を交わしているらしい。
小さな男爵 に託した弟は、自分の道を自分で切り開ける男になっていた。
よかった、本当に。
創二 、よく頑張ったな。
◇
創二 の叔母、レイカが鎮 の先導でホールから出ると、息子と同じ学校の制服を着た生徒が、廊下に佇 んでいるのに気づいた。
(迷子?図体が大きいのに情けない。そもそも、この階はうちの貸し切りなのに。親は何をやっているのかしら。庶民に周囲をうろうろされるのは不愉快なのよね。空気が悪くなるわ)
レイカが不機嫌そうに眉をひそめると、もうひとり。
廊下の曲がり角に、同じ制服の後ろ姿が見えた。
(なんなの。高校のイベントでもあるの?本当に目障 り)
ドアの外にいた高校生が、後ろからついてきているようだ。
(何かしら。フロントの場所でも聞きたいのかしら)
レイカの先を歩くタキシード姿の高校生は、このホテル屋の息子だという。
ならば、もし面倒ごとがあっても、当然この子が対処すればいいと、レイカは心の中で高を括った。
(それにしても、なんでこの子は白髪 なのかしら。そういうファッション?不良なのかしら。結局、創二 の周りにいる人間なんて、この程度ってことね)
「染料が体に合わないので」
「え?」
声に出したつもりはなかったのに。
振り返らないままの「ホテル屋の息子」から返事をされて、レイカの足が止まる。
「吐普加美依身多女 、吐普加美依身多女 ……」※1
レイカの背後から低い歌が聞こえてきた。
「寒言神尊利根陀見 掃 ひ玉 ひ清目 出玉 ふ」※1
急に目の前が霞 んで、レイカは目を擦 る。
けれど、薄い膜を張ったような視界は晴れることがない。
(なんなのかしら……。家もうまくいっていないのに、このうえ体調もなんて。最悪だわ)
「こちらです。どうぞついてきて」
白髪 の少年が曲がり角を示している。
(違う、セラーはそっちでは……)
「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄 と祓給 ふ 天清浄 とは天の七曜 九曜 二十八宿 を清め 地清浄 とは地の神 三十六神 を清め 内外清浄 とは家内 三宝 大荒神 を清め 六根清浄 とは其身 其体 の穢 を祓給 清め給 ふ事の由 を 八百万 の神等 諸共 に 小男鹿 の八 の御耳 を振立 てて聞 し食 せと申 す」※2
「え、なに?」
白髪 の少年が何かを言っているけれど、声は聞こえているけれど。
(意味がわからない。……何も、理解できない)
だというのに、「従わなければならない」という焦燥が募ったレイカがふらふらと廊下を曲がると、そこにはさっき背中が見えた、金髪の高校生が待っていた。
(金髪……。また毛色が違う子。本当に、なんで高校生ばかり)
懐 っこいその笑顔は子犬のようで、ふっとレイカの心は緩む。
(子犬。……犬は、好きだわ……)
小学校帰りに見つけた、あの小さな犬。
雨のゴミ集積所。
デパートの紙袋がもぞもぞ動いていて、細い鳴き声が聞こえていた。
ガムテープでふさがれた隙間 から、真っ黒な小さな鼻が見えていて。
必死で抱 えて、連れて帰ったのに。
泣いて頼んだのに。
兄さんがアレルギーだから駄目って、お父さんが……。
私の部屋で飼うと言っても、何を言っても許してもらえなかった。
兄さんもかばってはくれなかった。
なのに、甥にはあんなに簡単に買い与えて……。
いつもいつも兄さんが優先。
兄さんの希望は叶う。
大学だって、兄さんと同じところへの進学は反対された。
「賢 しらな女は、ろくな嫁のもらい手がないぞ。それでなくても、気が強い女なんか嫌われるんだから。大人しく女子大にもで行ってろ」って。
池尻の叔父は、兄さん贔屓 だから。
「こっちですよ」
金髪の子がエレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
(これに乗ればいいのかしら)
誰かがそっと手を引いてくれる。
『このまま進んで』
指示されたとおりにエレベーターに乗り込む。
私はどこへ行くのだったかしら。
私は、どうしていつも怒りが消えないのかしら。
叔父の紹介なんか嫌で、結婚相手は自分で選んだけれど。
結局は満足できなかった。
私がこんなに我慢して尽くしているのに。
夫も息子も、それに応えようとしてくれない。
(満たされない、満たされない。……満たされない)
エレベーターの扉が開いた。
「こっちですよ」
金髪の少年が笑顔で開けてくれた部屋のドアからは、光があふれ出ているようで。
(あの場所に行きたい……)
吸い込まれるように足が動く。
「極 めて汚 きも滞 なければ穢 はあらじ 内外 の玉垣清浄 と申す」※3
『あなたの望みは何ですか?』
(私の、望み)
『本当の、心からの』
(心からの)
――認められたい 必要とされたい――
――縋 るような目をしていたあの子犬を、手放したくなかった――
『横になって、力を抜いて。体からも、心からも』
レイカがベッドに横たわると、襲ってきた眠気にまぶたが落ちていった。
「高梁 さん?あとはお願いします」
温かな手が、レイカの額をさらりとなでていく。
(誰かの体温を感じるなんて、いつ以来かしら……)
『貴女 の不全感に引き寄せられていたモノたちを祓 いました。あとは、ご自分次第です。代償はあるかもしれない。でも、やり直しはできる。貴女 は生きているんですから』
――あとは、私、しだい――
――私は、生きている。……生きている――
※1三種太祓 「吐普加美依身多女」は三返
※2天地一切清浄祓
※3一切成就祓
本当に、心から楽しそうに。
あんな屈託のない顔を見るのは久しぶりだ。
そうだな、バロンをプレゼントして以来だろうか。
ひとりにしがちな「
迷うことなく、犬がいいと思った。
面倒見のいい子だから、よい友だちになるだろうと。
親族とこじれてからは、バロンにしか本音をさらけ出せないようで、心配もしていたけれど。
いつの間にか、あんなに親しくする仲間ができていたんだな。
「末永く、よろしくお願いいたします」
「放っておいても大丈夫でしょうか」
不機嫌なまま出ていった妻の背中を、
「
父親が頭を下げると、
「私が夫として至らなくて」
その隣では、母親が弟と同い年の
「これからは同志になるのね。よろしく」
「同志?」
「イオキコーポレーションと同盟を組んでくれるんでしょう?私の会社理念と同じよ」
にっと笑う男前な
「でも
「その問題はふたりで解決してちょうだい。それでもね」
母が
「子供にとって、家族からの影響は大きい。私たちが配慮すべきだったのよ、もっとね。大人としての落ち度だわ」
「すまなかったな」
両親の謝罪に
「私がもっとかばってやれればよかったんだが……。そうすると、余計にお前にキツく当たるからな。でも、それは言い訳か……」
「やりようは、いくらでもあった」
「なかったと思うよ。それに、そのストレスを俺は
顔を伏せたまま、
「
「うるさいなんて思ったことはないよ」
正直、
叔母の指示に逆らえなかったのかと思えば、
「これからも、何かあったら連絡して。そうそう、僕は家を出て、ひとり暮らしをする予定なんだ。きみはどうするの?僕の隣の部屋が、まだ空いていたはずだけれど」
「ああ、あそこからなら大学にも通いやすい。……離れるのもいいかもしれないね」
「しかし、あれはイオキの所有物件でしょう。息子が下宿するなら、それは私が用意すべき」
「何を言っているんだ。一族の大切な子供、それに変わりはないじゃないか」
「……お
親族同士、こんなに穏やかな雰囲気になるのも久しぶりだ。
見れば、ハーフモデルの友達に肩を組まれた弟は、華やかな女性陣を前に顔を真っ赤にしながらも、そつなく言葉を交わしているらしい。
小さな
よかった、本当に。
◇
(迷子?図体が大きいのに情けない。そもそも、この階はうちの貸し切りなのに。親は何をやっているのかしら。庶民に周囲をうろうろされるのは不愉快なのよね。空気が悪くなるわ)
レイカが不機嫌そうに眉をひそめると、もうひとり。
廊下の曲がり角に、同じ制服の後ろ姿が見えた。
(なんなの。高校のイベントでもあるの?本当に
ドアの外にいた高校生が、後ろからついてきているようだ。
(何かしら。フロントの場所でも聞きたいのかしら)
レイカの先を歩くタキシード姿の高校生は、このホテル屋の息子だという。
ならば、もし面倒ごとがあっても、当然この子が対処すればいいと、レイカは心の中で高を括った。
(それにしても、なんでこの子は
「染料が体に合わないので」
「え?」
声に出したつもりはなかったのに。
振り返らないままの「ホテル屋の息子」から返事をされて、レイカの足が止まる。
「
レイカの背後から低い歌が聞こえてきた。
「
急に目の前が
けれど、薄い膜を張ったような視界は晴れることがない。
(なんなのかしら……。家もうまくいっていないのに、このうえ体調もなんて。最悪だわ)
「こちらです。どうぞついてきて」
(違う、セラーはそっちでは……)
「
「え、なに?」
(意味がわからない。……何も、理解できない)
だというのに、「従わなければならない」という焦燥が募ったレイカがふらふらと廊下を曲がると、そこにはさっき背中が見えた、金髪の高校生が待っていた。
(金髪……。また毛色が違う子。本当に、なんで高校生ばかり)
(子犬。……犬は、好きだわ……)
小学校帰りに見つけた、あの小さな犬。
雨のゴミ集積所。
デパートの紙袋がもぞもぞ動いていて、細い鳴き声が聞こえていた。
ガムテープでふさがれた
必死で
泣いて頼んだのに。
兄さんがアレルギーだから駄目って、お父さんが……。
私の部屋で飼うと言っても、何を言っても許してもらえなかった。
兄さんもかばってはくれなかった。
なのに、甥にはあんなに簡単に買い与えて……。
いつもいつも兄さんが優先。
兄さんの希望は叶う。
大学だって、兄さんと同じところへの進学は反対された。
「
池尻の叔父は、兄さん
「こっちですよ」
金髪の子がエレベーターのボタンを押すと、すぐに扉が開いた。
(これに乗ればいいのかしら)
誰かがそっと手を引いてくれる。
『このまま進んで』
指示されたとおりにエレベーターに乗り込む。
私はどこへ行くのだったかしら。
私は、どうしていつも怒りが消えないのかしら。
叔父の紹介なんか嫌で、結婚相手は自分で選んだけれど。
結局は満足できなかった。
私がこんなに我慢して尽くしているのに。
夫も息子も、それに応えようとしてくれない。
(満たされない、満たされない。……満たされない)
エレベーターの扉が開いた。
「こっちですよ」
金髪の少年が笑顔で開けてくれた部屋のドアからは、光があふれ出ているようで。
(あの場所に行きたい……)
吸い込まれるように足が動く。
「
『あなたの望みは何ですか?』
(私の、望み)
『本当の、心からの』
(心からの)
――認められたい 必要とされたい――
――
『横になって、力を抜いて。体からも、心からも』
レイカがベッドに横たわると、襲ってきた眠気にまぶたが落ちていった。
「
温かな手が、レイカの額をさらりとなでていく。
(誰かの体温を感じるなんて、いつ以来かしら……)
『
――あとは、私、しだい――
――私は、生きている。……生きている――
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