因果応報-3-

文字数 2,471文字

「あなたの望みのままに」
 それは秋鹿(あいか)の声を使って、誰か別人が話をしているようだった。
「オーム・ナモー・バガヴァテー・ルドラーヤ」※1
 凛とした声が、聞いたことのない言葉を紡ぐ。 
 ダス!と片足を大地に打ち付けた秋鹿(あいか)は左右の手を組み、両人差し指を立てて、中指をからませる。※2
「オン・マカ・キャロニキャ・ソワカ!」※3
 秋鹿(あいか)の首にかかる勾玉が、チカチカっと光りを放った。
「今、お前と夏苅(なつがり)(あきら)の縁は切れました。金輪際、近づくこと(あた)わず。縁をちらとでも思い浮かべれば、その胸は劫火に焼かれるでしょう。……顔を上げて」
 ゆらりと上半身を起き上がらせた男の目と口を、模様のような文字のようなものが描かれた小さな半紙が覆い隠している。
 その異様で禍々しい光景を、(かがり)も杉野も、そして(あきら)も声もなく見入るばかりだ。
「オーム・ハラーヤ・ナマハ」※4
 秋鹿(あいか)の右手がトン!と軽く男の胸を突く。
「ぐ、ぐぁあああ」
 険しい表情と相反するような、優しくなでるほどの軽い動作であったというのに。
「ぐはっ……。ああ、ああああああっ!」
 男の苦悶の声が、夏の夕間暮れに沈み込んでいく。
 七転八倒して胸をかきむしる男を、観察するようにしばらく眺めたのち。
 秋鹿(あいか)はくるりと背を向けて、青ざめ、唇を戦慄(わなな)かせている杉野へと近づいていった。
「オン・アロリキヤ・ソワカ」※5
 お化けでも見るような目をしている杉野の額に、内縛(ないばく)印を結んだ秋鹿(あいか)の手が当てられると、その体がゆっくりと地面に横たわっていく。※6
「ちょ、どうしたん?」
 (かがり)が杉野を抱え起こそうとするが、ぐったりとしたその体はずっしりと重く、びくともしなかった。
「……アンタ、何したの……」
 杉野を腕に抱いた(かがり)が、秋鹿(あいか)をにらみ上げる。
「さっきから気持ちの悪い。ウチらにもう関わらんといてっ。(あきら)に近づかんといて!!アンタみたいな、」
「かがり!」
 いきなり目の前に飛び出してきた(あきら)に、(かがり)は驚いて口を閉じた。
「それ以上言うたら許せへんからなっ」
 両手を広げ、小柄な体を目いっぱい大きくした(あきら)は、秋鹿(あいか)をかばうようにしてその前に立っている。
「守ってくれたんやぞ!恩人やで!!」
「だって、けったいな技を」
「それがなんやっちゅうんや!俺らがなんかされた?!アイツをいてこましてくれただけやんけ!!」
「せやけど、杉野さん……」
「少し眠ってもらっただけですよ。目が覚めたときには、すべては夢のなか。……ありがとう」
 (あきら)の肩に、秋鹿(あいか)の手が優しく添えられた。
「あ、秋鹿(あいか)さん……」
 (あきら)が涙目で秋鹿(あいか)を振り仰ぐ。
「ほんまにかんにんな。姉ちゃん、悪気はあれへんねん」
「いいのです。驚いて、嫌悪を感じて当たり前」
 その諦めたような微笑みを見た(あきら)は、秋鹿(あいか)の胸のあたりをすがるように握り締めた。
「そんな、そんな顔で笑わんといて。ひとりで背負わんといて!アレは俺が決着をつけるべきやったのに、秋鹿(あいか)さんにやらせてしもうた……」
 うつむき涙を流す(あきら)の頬を両手で包んで、秋鹿(あいか)はその顔を上げさせる。
「あなたは驚かないの?」
 ぽたぽたと涙を流しながら、(あきら)はただ首を横に振った。
「気持ち悪いとは思わないの?」
 ぶんぶんと、さっきよりも激しくその首が振られる。
「オン・アラハシャ・ノウ」※7
「え?」
 (あきら)の涙を、秋鹿(あいか)の親指がすくうように(ぬぐ)った。
「ベタベタ触らんといてっ」
 (あきら)が振り返ると、まなじりを釣り上げた(かがり)秋鹿(あいか)をにらんでいる。
「大丈夫、取らないわ。でも、あなたにも必要かしら、お転婆さん」
 腕の中の杉野にちらりと目を遣る秋鹿(あいか)の余裕ある笑みに、(かがり)の背中がぶるっと震えた。
 
 目の前にいるのは、弟の友人だという十四歳の少年だ。
 そのはずだけれど……。
 だが、本当に?
 
 からかうように輝いていた秋鹿(あいか)の目が、すぅっと細められた。
「怖いのね。そばにいる理由がなくなることが。けれど、互いに目をそらし合っていては、本当の姿は見えない」

(なんも知らんクセにっ)
 
 訳知り顔の秋鹿(あいか)を見れば、さらに怒りが湧き上がる。
 だが、(かがり)はもう口を開くことができなかった。
 
 その(かがり)に謎のような微笑みを見せて、秋鹿(あいか)(あきら)の耳元に口を寄せる。
「あなたも、欲しいものに気がついたのね。守りたいものに。でも、もうしばらくそばにいてほしい。ともにいて得るものは、きっとあなたの役に立つわ」
 その姿勢のまま、秋鹿(あいか)の指がゆっくりと(あきら)の腹をなで下ろして、へその下当たりで、ぴたりとその手を止めた。
 何やら妖しげなその気配に、ふたりを凝視する(かがり)の目が険悪に細くなる。
「力を使い過ぎました。しばらく眠ります。このコをお願いね、朱雀。……オン・バザラ・タラマ・キリク」※8
 一度だけ、ぎゅっとその体を抱きしめてから秋鹿(あいか)(あきら)に背を向けた。
 そして、空気が漏れるような息を吐き続けている男を蔑む目で見下ろすと、その襟首(えりくび)をつかみ顔を上げさせる。
「去れ!」
 半紙を一気に引っぺがした秋鹿(あいか)がぴしり!と額を打てば、男はクラゲのようにフラフラと立ち上がった。
「……!」
 とっさに身構えた(あきら)だったが、男は覚束ない足取りで目の前を素通りしていく。
 男の口元から漏れるシュゥシュゥという不気味な音が遠ざかり、そして消えていった。
「……ふぅ」
 間近で落とされた大きなため息に(あきら)が顔を上げると。

秋鹿(あいか)さん、どうして……)

 遠くの空を見つめる秋鹿(あいか)は声をかけるのがためらわれるほど、寂しそうな目をしてたたずんでいた。

※1 ルドラマントラ シヴァ神の怒りの側面を表した神格
※2 大金剛輪印(だいこんごうりんいん) 
※3 十一面観音マントラ 人間の根底にある怒りや悲しみ、苦しみに寄り添い、繰り返していた悪縁を浄化する
※4 シヴァ神の別名、ハラのマントラ 自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化する
※5 聖観音真言 救いの声(音)があれば瞬く間に救済する 地獄道に迷う人々を救う
※6 内縛印 左右の指を互いに内に組み合わせて入れ、左の親指を内に入れる
※7 文殊菩薩マントラ 物事のあり方を正しく見極める力・判断力を意味する「智慧」を司る
※8 千手観音マントラ 苦難除去、現世利益、病気平癒
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