可愛いあなた-1-
文字数 3,556文字
食器を片付けた鎮 が部屋に戻ると、窓際に立つ蒼玉 の腕輪が、静かに光を収めていくところだった。
『結界を強化したんだね』
『おかえりなさい』
笑顔で振り返った蒼玉 の手を引いて、鎮 は稀鸞 の眠る隣のベッドに座らせた。
『かなりの結界を張っていたのに、まだ強化が必要だった?』
『闇鬼 の気配が追えないから。鎮 も休んで。皆さんは?』
『下の部屋で、もう寝てた』
『もう?方術の効きが早かったのね』
『あれだけのことがあったから、あいつらも疲れていたはずだ』
『……そうね。でも、これで今日のお仕事は終わりね。……はい、横になって』
ポンポンと隣をを叩く蒼玉 に素直に従った鎮 が、ベッドに上がって、その膝に頭を乗せる。
『たくさんありがとう、鎮 。お疲れさま』
『どういたしまして』
頭をなでる蒼玉 の手の感触に、鎮 はうっとりと口元を緩めた。
『お礼に子守唄でも歌う?』
『俺が小さいころ、眠れないときに届けてくれたね。今日、初めて蒼玉 の声を聞けて嬉しかった。アーユスそのままの、優しくて可愛い声だったから』
『ほめすぎ』
『本当のことだよ』
鎮 は蒼玉 の手を握って口元に運ぶと、軽い口付けを落とす。
『初めて蒼玉 の姿を見たときも嬉しかった。覚えてる?』
『もちろん。鎮 のアーユスが強くなって、波長が合って。暗闇を怖がって泣いていた、小さな可愛い子だとすぐにわかったわ』
『あのときは、すごく悲しくて、悲しくて……』
『ええ』
前髪から離れた蒼玉 の手が滑りおりて、宝物に触れるように鎮 の頬を包み込んだ。
◇
母親が交通事故で命を落としたのは、鎮 が小学校に上がる直前のこと。
その日は、いつものように境内の片隅で、母手製の祓詞 が書かれた絵本を読んでいた。
――無口で、ひとりでいることを好む子供――
他人と過ごすことが苦手な鎮 への評価は、おおむねそんなものだった。
友達から話しかけられると、その言葉よりも多くの隠れた感情が伝わってきてしまう。
どれに反応したらよいのか迷ううちに、相手は呆れてどこかへ行ってしまうのだ。
先生や、送り迎えで会う大人はもっと苦手で。
口にする言葉がどんなにキレイでも、正しくても。
その裏側のどす黒い感情を見つけてしまえば恐ろしくて、逃げ出してしまいたかった。
だから、幼稚園に入ってすぐに「行きたくない」と訴えた。
「……そうなのね……」
ちょっと困ったような顔をしていた母が、翌日手渡してくれたのは一冊のノート。
「嫌なことがあったときにはね」
――とほかみゑみため はらいたまへきよめたまう―― ※1
母が開いたページの文字の横には、太陽と山と海。
そして、笑いながら頬を寄せ合う、母と鎮 の可愛いイラストが描かれている。
「心の中で唱 えてごらん」
「なんてかいてあるの?」
首を傾 げる鎮 に、母は優しい声で、歌うように文字をなぞった。
「なんのうた?」
「祓詞 よ」
「はらいことば?」
「遠いけれど、すぐ近くにいる神様と仲良くなるおまじない」
「かみさまとなかよくなれるの?」
「そう。きっと鎮 を守ってくれる」
「ぼくを?……おじいちゃんの好きな”ダジャレ”みたい」
「ふふっ、ほんとだね」
頬をくっつけ合って母と笑えば、重い不安も溶けていくようだった。
それから。
足の竦 むほどの感情に遭ってしまったときには、教わった「はらいことば」を心の中で唱えた。
(とほかみゑみため はらいたまへきよめたまう。かみさま、かみさま。……おかあさん)
唱え続けているうちに暖かい何かが鎮 を包み、目の前にある重黒い感情の輪郭は薄くなっていく。
どうしてなのか、それが何ものなのかはわからない。
けれど、確かに守られていると感じることができた。
そうして、他人と過ごすことに少しずつ慣れていった鎮 ではあるが。
それでも幼稚園から解放されたあとは、家でひとり過ごすことを好んだ。
(あのうた、きょうもきこえてくるかな……)
他人の渦巻く想いに中 りすぎたとき。
電気が消されて心細い夜。
気がつけば優しい、優しい風のような歌が聞こえてくる。
自分以外には聞こえていないとわかっても、それでも、ちっとも怖くはない。
鈴のような声を聞いているうちに、必ず心は凪 いでいくから。
鎮 はふと耳を澄ませてみるが、境内を吹き抜けていく風の音のほかは、何も聞こえてこない。
今日はあまり困るようなことはなかったし、卒園式の練習もうまくできた。
大好きな母の作った夕飯を食べたら、お風呂は祖父と入る約束をしている。
「鎮 っ」
ちょうど心に思い描いていた祖父から大声で呼ばれて、鎮 は驚いてノートから顔を上げた。
社務所のほうから、見たこともないほど怖い、……乱れた感情が、その姿を隠すほどの影になっている祖父が走り寄ってくる。
「おいで!」
「どうしたの」と問う暇もなかった。
強く腕を引っ張られて、鎮 の手からノートが落ちていく。
「……あ」
振り返るが、小走りの祖父についていくのが精一杯で、訴えることも拾うこともできずに、鎮 は祖父に引きずられていった。
それからの日々は、あまり記憶に残っていない。
病院で慌ただしく指示を出している医師、祖父に話をする警官。
泣いている人、堪 えている人。
通夜祭と遷霊祭 。
葬場祭 。
落としたノートはどこへいったのか。
自分の目で見た景色なのか、人から聞いた景色なのか。
それさえ曖昧な日々が過ぎていく。
ひとつ確かなことは。
もう二度と、母に会うことはできないということ。
あの笑顔を向けてくれることはないということ。
ざわざわと慌ただしい、薄墨 色の日々が積み重なっていったある日。
あの日から一度も登園せずに、卒園式にも出られなかった鎮 は、自分の部屋からぼんやりと外を眺めていた。
「いい加減にしてくれっ」
「お願いです。どうか聞いてください」
突然、階下から男性同士の言い争うような声が聞こえてきて、鎮 はドアへと首を巡らせる。
(おじいちゃんと……、だれだろう)
「そんなことを了解しろとっ?鎮 のことを考えたら……」
「考えればこそです。あの子の身の安全を、……!」
声を荒らげる祖父が心配で階下に降りてきた鎮 の気配を感じたのか、スーツを着た男性が振り返った。
「……鎮 」
祖父の前に立っていた男性が、障子の桟 に両手でしがみついている鎮 に近づき、しゃがみ込んで目線を合わせる。
「久しぶりだね。……なくなるころだろうと思って、持ってきたよ」
男性がポケットから取り出した小さな紙箱。
それは、いつも母から受け取っていた、カラーコンタクトレンズが入っているものと同じだった。
「あ」
慌てて小さな手で片目を隠した鎮 に、男性の泣き出しそうな笑顔が向けられる。
「元気だった?……会えて嬉しいよ」
男性は鎮 の小さな手を自らの手で包み込むようにして、箱を握らせた。
この男性のことを鎮 はよく知っている。
年に数回、母を訪ねて神社にお参りに来る人だから。
近くのリゾートホテルへ食事に連れていってくれることもあるし、誕生日にはプレゼントもくれる。
母は「友達だよ」と紹介してくれて、自分も「おじさん」と呼んで親しくしていたつもりだが、母の葬儀では、その姿を見かけることはなかった。
(おかあさん、ヒミツっていってたのに、”おじさん”はしってたのかな……)
「鎮 、今日から僕のところへおいで」
「え?」
コンタクトの箱を見つめていた鎮 は、ぽかんとして「おじさん」を見上げた。
「今日はもう帰ってくれ、秋鹿 さん!」
「ですが、おとうさん」
「あなたから“おとうさん”と言われる立場にはありませんよ、私はね」
祖父の両手は、震えるほど力を込めて握られている。
「鎮 の認知はしています。決して他人ではない。……他人と思ったことなど、一度もありません」
「おじさん」の言葉を祖父はただ黙って、青筋を立てて聞いていた。
――言い返したい。だが、できない――
葛藤と怒りが祖父の背から立ち昇っている。
「せめて沙良 の死亡原因がはっきりするまで」
「沙良 は事故死だっ」
「ですから、その不自然な事故の」
「殺されたというのなら、それはあんたがっ」
「ころされた?……おかあさんが?」
祖父がしまったという顔になり、「おじさん」がはっとして鎮 を振り返った。
「どうして?なんで?」
葬儀のとき、必要以上に声を潜めていた大人たちの姿を、鎮 は思い出す。
自分を見ると顔を背け、その場から立ち去る者も多かった。
「ぼくの、せい?……伊豆のおじさん、いってた。サラがあんな子、うんだからって」
祖父がイライラとしたため息をつき、鎮 に一歩近づく。
「まったく。あいつは余計なことしか言わない。いいかい、鎮 。叔父さんはお母さんを怒っていたわけじゃない」
「じゃあ、だれを?ぼくを?」
「違う」
祖父の言葉は、鎮 には届かなかった。
※1三種祓詞
『結界を強化したんだね』
『おかえりなさい』
笑顔で振り返った
『かなりの結界を張っていたのに、まだ強化が必要だった?』
『
『下の部屋で、もう寝てた』
『もう?方術の効きが早かったのね』
『あれだけのことがあったから、あいつらも疲れていたはずだ』
『……そうね。でも、これで今日のお仕事は終わりね。……はい、横になって』
ポンポンと隣をを叩く
『たくさんありがとう、
『どういたしまして』
頭をなでる
『お礼に子守唄でも歌う?』
『俺が小さいころ、眠れないときに届けてくれたね。今日、初めて
『ほめすぎ』
『本当のことだよ』
『初めて
『もちろん。
『あのときは、すごく悲しくて、悲しくて……』
『ええ』
前髪から離れた
◇
母親が交通事故で命を落としたのは、
その日は、いつものように境内の片隅で、母手製の
――無口で、ひとりでいることを好む子供――
他人と過ごすことが苦手な
友達から話しかけられると、その言葉よりも多くの隠れた感情が伝わってきてしまう。
どれに反応したらよいのか迷ううちに、相手は呆れてどこかへ行ってしまうのだ。
先生や、送り迎えで会う大人はもっと苦手で。
口にする言葉がどんなにキレイでも、正しくても。
その裏側のどす黒い感情を見つけてしまえば恐ろしくて、逃げ出してしまいたかった。
だから、幼稚園に入ってすぐに「行きたくない」と訴えた。
「……そうなのね……」
ちょっと困ったような顔をしていた母が、翌日手渡してくれたのは一冊のノート。
「嫌なことがあったときにはね」
――とほかみゑみため はらいたまへきよめたまう―― ※1
母が開いたページの文字の横には、太陽と山と海。
そして、笑いながら頬を寄せ合う、母と
「心の中で
「なんてかいてあるの?」
首を
「なんのうた?」
「
「はらいことば?」
「遠いけれど、すぐ近くにいる神様と仲良くなるおまじない」
「かみさまとなかよくなれるの?」
「そう。きっと
「ぼくを?……おじいちゃんの好きな”ダジャレ”みたい」
「ふふっ、ほんとだね」
頬をくっつけ合って母と笑えば、重い不安も溶けていくようだった。
それから。
足の
(とほかみゑみため はらいたまへきよめたまう。かみさま、かみさま。……おかあさん)
唱え続けているうちに暖かい何かが
どうしてなのか、それが何ものなのかはわからない。
けれど、確かに守られていると感じることができた。
そうして、他人と過ごすことに少しずつ慣れていった
それでも幼稚園から解放されたあとは、家でひとり過ごすことを好んだ。
(あのうた、きょうもきこえてくるかな……)
他人の渦巻く想いに
電気が消されて心細い夜。
気がつけば優しい、優しい風のような歌が聞こえてくる。
自分以外には聞こえていないとわかっても、それでも、ちっとも怖くはない。
鈴のような声を聞いているうちに、必ず心は
今日はあまり困るようなことはなかったし、卒園式の練習もうまくできた。
大好きな母の作った夕飯を食べたら、お風呂は祖父と入る約束をしている。
「
ちょうど心に思い描いていた祖父から大声で呼ばれて、
社務所のほうから、見たこともないほど怖い、……乱れた感情が、その姿を隠すほどの影になっている祖父が走り寄ってくる。
「おいで!」
「どうしたの」と問う暇もなかった。
強く腕を引っ張られて、
「……あ」
振り返るが、小走りの祖父についていくのが精一杯で、訴えることも拾うこともできずに、
それからの日々は、あまり記憶に残っていない。
病院で慌ただしく指示を出している医師、祖父に話をする警官。
泣いている人、
通夜祭と
落としたノートはどこへいったのか。
自分の目で見た景色なのか、人から聞いた景色なのか。
それさえ曖昧な日々が過ぎていく。
ひとつ確かなことは。
もう二度と、母に会うことはできないということ。
あの笑顔を向けてくれることはないということ。
ざわざわと慌ただしい、
あの日から一度も登園せずに、卒園式にも出られなかった
「いい加減にしてくれっ」
「お願いです。どうか聞いてください」
突然、階下から男性同士の言い争うような声が聞こえてきて、
(おじいちゃんと……、だれだろう)
「そんなことを了解しろとっ?
「考えればこそです。あの子の身の安全を、……!」
声を荒らげる祖父が心配で階下に降りてきた
「……
祖父の前に立っていた男性が、障子の
「久しぶりだね。……なくなるころだろうと思って、持ってきたよ」
男性がポケットから取り出した小さな紙箱。
それは、いつも母から受け取っていた、カラーコンタクトレンズが入っているものと同じだった。
「あ」
慌てて小さな手で片目を隠した
「元気だった?……会えて嬉しいよ」
男性は
この男性のことを
年に数回、母を訪ねて神社にお参りに来る人だから。
近くのリゾートホテルへ食事に連れていってくれることもあるし、誕生日にはプレゼントもくれる。
母は「友達だよ」と紹介してくれて、自分も「おじさん」と呼んで親しくしていたつもりだが、母の葬儀では、その姿を見かけることはなかった。
(おかあさん、ヒミツっていってたのに、”おじさん”はしってたのかな……)
「
「え?」
コンタクトの箱を見つめていた
「今日はもう帰ってくれ、
「ですが、おとうさん」
「あなたから“おとうさん”と言われる立場にはありませんよ、私はね」
祖父の両手は、震えるほど力を込めて握られている。
「
「おじさん」の言葉を祖父はただ黙って、青筋を立てて聞いていた。
――言い返したい。だが、できない――
葛藤と怒りが祖父の背から立ち昇っている。
「せめて
「
「ですから、その不自然な事故の」
「殺されたというのなら、それはあんたがっ」
「ころされた?……おかあさんが?」
祖父がしまったという顔になり、「おじさん」がはっとして
「どうして?なんで?」
葬儀のとき、必要以上に声を潜めていた大人たちの姿を、
自分を見ると顔を背け、その場から立ち去る者も多かった。
「ぼくの、せい?……伊豆のおじさん、いってた。サラがあんな子、うんだからって」
祖父がイライラとしたため息をつき、
「まったく。あいつは余計なことしか言わない。いいかい、
「じゃあ、だれを?ぼくを?」
「違う」
祖父の言葉は、
※1