顕現する悪魔‐嫉妬のマートサリヤースラ1‐
文字数 2,835文字
昼間、階段を駆け上がった場所なのに、その日の夜には空から降りる。
夢か現 か、まったく区別もつかない状況に理解が追いつかない。
白虎が地に足をつけると同時に、鎮 が「還 」と腕輪を弾き鳴らせば。
たちまち消えていく大虎に、槐 と煌 はバランスを崩して転げ落ちる。
「わっ」
「うぉ」
「……」
虎の口に咥 えられていた渉 にいたっては、そのまま大地に突っ伏して動かなくなった。
「ビャッコ様」
墓石の前で、稀鸞 を横たえた月兎 がほの白く光っている。
「母上さまと繋 がります。……そのあとのことは、すべてビャッコ様のお心のままに。……では」
白ウサギのふかふかの前足が、冴えた音を立てて宵闇に打ち鳴らされた。
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」※1
「……かあさん……」
月兎 の唱えに重なって、鎮 のつぶやきが落ちる。
ただ「永久 」とだけ刻まれた石が、月兎 と同じ淡い光を帯びていった。
「……うん、元気だったよ。そうだね、いろいろあったけど」
墓石からあふれ出した柔らかな光に抱かれるように、鎮 の姿が見えなくなる。
「ずっとソウが……。ソウはね、蒼玉 っていうんだ。うん、素敵な名前なんだ」
月兎 の祝詞 と鎮 の声がより合わされて、ひとつの歌になっていった。
「ひふみよいむなや こともちろらね」
「ありがとう。俺も大好きだよ」
「しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか」
「わかってたよ。かあさんが守ってくれていたこと」
「うおえ にさりへて」
「うん、この人を助けて欲しい。俺を守ってくれた人だから。ソウがずっと守っていた人だから」
「のますあせゑほれけ」
「ありがとう。あ、でも」
月兎 と鎮 を包んでいた光が収縮して、一筋の輝く清流に代わる。
そして、それは鎮 の体をなでるようにくるりと一回りしたあと、横たわる稀鸞 に流れ込んでいった。
「父さんが会いたがってる。……口には出さないけれど、わかるんだ。少し霊力を残して」
鎮 が胸にかかる勾玉 を指に掛けて、墓に向かって差し出す。
「ここで少し眠っていて。連れていくから」
光の川から蛍のような粒がひとつ離れて、夕焼け色の勾玉 に吸い込まれていった。
わずかに身動ぎをした稀鸞 に気づいた槐 が、様子を見るために包帯代わりのシーツを解 く。
「よかった。……血も止まってるし、傷もほとんど塞 がってる」
槐 がほっと胸をなでおろしたのもつかの間。
月兎 の耳がぶるりと震えた。
「ビャッコ様。……ナニか、来ます」
漆黒の闇に沈む鳥居の下から。
ぺた、ぺた、ぺた……。
上がってくる微かな気配に、鎮 から目配せされた煌 が、渉 を抱えて槐 の横に座らせる。
そして、立てた人差し指を唇に当てた。
――声を出すな――
そう理解して、うなずこうとした渉 だったが。
「……う、ぐぅ」
あたりに漂ってきた、何かが腐ったような強烈な刺激臭に、思わず喉を鳴らしてしまった。
「……聞こえた、聞こえたぞ。誰かいるな。鎮 か?」
白装束を着た腕が闇から浮き上がり、鳥居と墓所との境を、まるで透明な壁があるかのようにカリカリと引っ掻いている。
「おかしいな……入れない……」
……カリカリ、カリカリ……。
「おかしいな……入れない……」
同じ声が、森と墓所が接する際 から聞こえてきた。
「おかしいな……入れない……」
今度はまた別の方向から。
……カリカリ……カリカリカリ……。
何かをしきりに引っ掻く音が、小高い墓所の周囲を取り巻いていく。
「紗良 の墓参りに来ただけだよぉ」
鳥居の向こうで、重い声が訴えた。
「墓を隠すなんて酷いじゃないかぁ。紗良 をあんな目に遭わせて、墓参りもさせない……」
囲む気配がドン!と一気に重苦しくなる。
「オマエみたいなガキが産まれてくるからだぁぁぁぁ!」
ドォォン、ドォォン。
気配たちが一斉に結界に体当たりする音が、辺りの森を震わせた。
『秋鹿 さ』
思わずといった様子で袖に伸びてきた煌 の手を、鎮 はなだめるように叩く。
『アレの目当ては俺だけだ。……アーユスも出すなよ』
鎮 と、そのすぐ後ろで三人を守るように立っている白ウサギがうなずき合い、それぞれの両手がぱん!と打ち鳴らされた。
「高天原 に神留座須 皇御親 の神 伊弉諾尊 衆神 身曾岐 の大水時 に成生 せる神 八十禍津日神 大禍津日神 神直日神 大直日神 底津少童神 底筒男尊 中津少童神 中津都男尊 上津玉積神 上津都男尊 及 祓殿 の諸神神 諸 の障 り汚 を 祓 ひ清 むる事 の由 を 平 けく安 けく御諫 給 ひて聞 し食 せと臼 す」
バリバリバリバリっ!
鎮 と月兎 が唱え終わったとたん、雷が落ちたような衝撃音が周囲を巡る。
「わああああっ」
臭気を放つ気配たちが、弾け飛んで遠くなった。
「禊祓詞 か。何だよ、その霊力……。くそ、ガキのクセになんなんだ」
再び近づいてきた気配たちが、結界を力任せに叩き始める。
「紗良 は馬鹿だっ。あんなヤツに騙 されて、あんな子供を産んで!挙句の果てに捨てられて殺されて!!俺が守ってやるって言ったのに!言ったのに!言ったじゃないかっ」
気配たちが膨れ上がり、その声が重い邪気をはらんだ。
「なんで俺じゃ駄目だったんだよ!姉弟 で、家族で幸せだったじゃないかっ」
怒りと悲しみ。
喪失と慟哭。
向けられる感情の重さにつぶされそうで、三人はそれぞれ呼吸を確保するので精一杯だ。
「くそぉ、ちくしょぉ。こんなバケモノじみた子供なんか産むからっ」
重い執拗 な攻撃に、とうとう鳥居の前の結界が破られたらしい。
「親父 も紗良 も俺を無視しやがって。あいつ、あのガキが産まれてからっ」
瘴気 の濃度が上がり、白装束を着た両手がぐわりと結界の破れ目にかかった。
「ああああ、羨 ましい……。紗良 の心を独り占めしやがって……」
「キョーレツな霊力を持ちやがって……」
「あいつがいなければ……。アイツはいらない、イラナイ……」
三方から響いていた怨嗟 の声が、鳥居の前へと集まってくる。
そして、気配が大きな邪気の一塊 となったのと同時に、稀鸞 の目がかっと開かれた。
「アカシャっ、まだ動かれては!」
止める白ウサギの前足を軽く押さえ、稀鸞 は立ち上がる。
『これで動かなければ何のための天空 だ。……月 はいないのだな。白虎』
『はい』
『四神と完全なる契りが成ったときのマントラを。……時を置かずして使えと言うのは、酷だとは思いますが』
『すべて白虎のためにと、蒼玉 と約束しました』
『よいお覚悟です。……では』
そろって智拳印 を結んだふたりが、大きく息を吸った。
「唵 阿謨伽 尾盧左曩 摩訶母捺囉 麼抳 鉢納麼 入縛攞 鉢囉韈哆耶 吽 !」
稀鸞 と鎮 の背から、小さな陽が上るようなアーユスがほとばしる。
「ウラヤマシイ、ネタマシイ、ウラヤマシイネタマシイ……。ああああああ、うらやましいんだよぉおおおおお」
一塊 になった邪気がびゅん!と跳ね飛んだかと思うと。
鎮 たちの目の前に、三つの顔を持つ大蛇がボットリと落ちてきた。
※1 ひふみ祝詞
夢か
白虎が地に足をつけると同時に、
たちまち消えていく大虎に、
「わっ」
「うぉ」
「……」
虎の口に
「ビャッコ様」
墓石の前で、
「母上さまと
白ウサギのふかふかの前足が、冴えた音を立てて宵闇に打ち鳴らされた。
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のますあせゑほれけ」※1
「……かあさん……」
ただ「
「……うん、元気だったよ。そうだね、いろいろあったけど」
墓石からあふれ出した柔らかな光に抱かれるように、
「ずっとソウが……。ソウはね、
「ひふみよいむなや こともちろらね」
「ありがとう。俺も大好きだよ」
「しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか」
「わかってたよ。かあさんが守ってくれていたこと」
「うおえ にさりへて」
「うん、この人を助けて欲しい。俺を守ってくれた人だから。ソウがずっと守っていた人だから」
「のますあせゑほれけ」
「ありがとう。あ、でも」
そして、それは
「父さんが会いたがってる。……口には出さないけれど、わかるんだ。少し霊力を残して」
「ここで少し眠っていて。連れていくから」
光の川から蛍のような粒がひとつ離れて、夕焼け色の
わずかに身動ぎをした
「よかった。……血も止まってるし、傷もほとんど
「ビャッコ様。……ナニか、来ます」
漆黒の闇に沈む鳥居の下から。
ぺた、ぺた、ぺた……。
上がってくる微かな気配に、
そして、立てた人差し指を唇に当てた。
――声を出すな――
そう理解して、うなずこうとした
「……う、ぐぅ」
あたりに漂ってきた、何かが腐ったような強烈な刺激臭に、思わず喉を鳴らしてしまった。
「……聞こえた、聞こえたぞ。誰かいるな。
白装束を着た腕が闇から浮き上がり、鳥居と墓所との境を、まるで透明な壁があるかのようにカリカリと引っ掻いている。
「おかしいな……入れない……」
……カリカリ、カリカリ……。
「おかしいな……入れない……」
同じ声が、森と墓所が接する
「おかしいな……入れない……」
今度はまた別の方向から。
……カリカリ……カリカリカリ……。
何かをしきりに引っ掻く音が、小高い墓所の周囲を取り巻いていく。
「
鳥居の向こうで、重い声が訴えた。
「墓を隠すなんて酷いじゃないかぁ。
囲む気配がドン!と一気に重苦しくなる。
「オマエみたいなガキが産まれてくるからだぁぁぁぁ!」
ドォォン、ドォォン。
気配たちが一斉に結界に体当たりする音が、辺りの森を震わせた。
『
思わずといった様子で袖に伸びてきた
『アレの目当ては俺だけだ。……アーユスも出すなよ』
「
バリバリバリバリっ!
「わああああっ」
臭気を放つ気配たちが、弾け飛んで遠くなった。
「
再び近づいてきた気配たちが、結界を力任せに叩き始める。
「
気配たちが膨れ上がり、その声が重い邪気をはらんだ。
「なんで俺じゃ駄目だったんだよ!
怒りと悲しみ。
喪失と慟哭。
向けられる感情の重さにつぶされそうで、三人はそれぞれ呼吸を確保するので精一杯だ。
「くそぉ、ちくしょぉ。こんなバケモノじみた子供なんか産むからっ」
重い
「
「ああああ、
「キョーレツな霊力を持ちやがって……」
「あいつがいなければ……。アイツはいらない、イラナイ……」
三方から響いていた
そして、気配が大きな邪気の
「アカシャっ、まだ動かれては!」
止める白ウサギの前足を軽く押さえ、
『これで動かなければ何のための
『はい』
『四神と完全なる契りが成ったときのマントラを。……時を置かずして使えと言うのは、酷だとは思いますが』
『すべて白虎のためにと、
『よいお覚悟です。……では』
そろって
「
「ウラヤマシイ、ネタマシイ、ウラヤマシイネタマシイ……。ああああああ、うらやましいんだよぉおおおおお」
※1 ひふみ