友人の船出-1-

文字数 3,400文字

 化粧台の前でダイヤのイヤリングをつけながら、刺々しい表情の女性がヒステリックに文句を言い続けている。
 もちろん、相手は鏡に映る自分ではない。
 リビングで待つ夫と息子に対してだ。
 わざとドアを開け放ったパウダールームから、電波が入りにくラジオのように大きくなったり小さくなったり、絶え間ない愚痴が流れてくる。
 
 会社の業績が悪い。
 学校の成績が落ちた。
 本家の義姉は家を守らないろくでなしだ。
 分家の叔父も、どうして自分を蔑ろにするのか。
 それもこれも、不甲斐ない夫と息子のせいに違いない。
 無能な家族に足を引っ張られるなんて、こんな不幸はない。

「先に出てる?」
 うんざりとした様子でソファに座る息子が、隣にいる父親を見上げる。 
 フォーマルスーツを着た父親は気の弱そうな笑顔を浮かべ、息子の肩を叩いた。
「あとの嵐がよけい酷くなるぞ。……本家に関わる前の恒例行事じゃないか」
「父さん、よく毎回毎回耐えるね。女の趣味悪すぎじゃない?」
「哲学者に徹しているんだよ。あれでも、昔は可愛かったんだぞ」
「顔なんかで選ぶから。だいたい、ソクラテスなんて時代遅でしょ」
「いいんだよ。この結婚がなければ、おまえは産まれてないんだから」
「……僕が産まれて、よかったと思うの?」
「そりゃあそうさ。我が子ほど大切なものはいない」
「でも、それって

じゃなきゃいけないわけじゃないでしょ。選択権は父さんにあったんだよ。違う人と結婚して産まれた子供でも、

じゃない」
「何を言ってるんだ。そうなったらおまえの人生が、」
「……最初からこの世に存在しなければ、幸も不幸もないし」
「今日は、……どうした」
 最近では寄り付きもしなかった息子の、いつにない態度に父親は心配そうに眉をひそめる。
「べつに。なんかもう、どうでもよくなってきてさ。それに、今日で終わりになるから。終わりにするって決めたから。清々してる」

(そう、これで終わりにして、自由になろう……)

 父親が見つめる先で、息子は寂しそうな横顔を見せた。


 最近、つるんでいた仲間たちが、ひとりふたりと周囲からいなくなって。
 その理由が理由だから、同じグループだった自分はクラスで浮いた存在になってしまった。
 どうせ、冬休みが明けたら登校日はほとんどない。
 あと少しの辛抱だと、静まり返った校舎の階段を独り下りていたとき。

 ダダダダ!

 勢いよく駆け上ってくる音に気づいて、ふと足を止めれば。
 誰かが風のように行き過ぎていった。
「……吐普加美依身多女(とほかみゑみため) 寒言神尊利根陀見(かんごんしんそんりこんだけん) (はら)(たま)清目(きよめ)出玉(いたま)ふ」※1

(え?)

 何を言われたのかと、通り過ぎた

を確認しようと体を(ひね)ったとき。

 パン!

 突然、背中に衝撃を感じた。

(!)
 
 痛みを感じるほどのものではなかったが、今、走り抜けていったのはひとり。
 ほかに人影もいなかったのに、どこから何が来たのか。

 怯えながら顔を戻せば、そこには……。
「誰、お前」
「1年生です」
 言われるまでもなく、締めているタイの色でそれはわかる。
 微妙にずれた答えを返してきたその1年生は、不気味なほどの白髪で。
「今、背中を叩いたのってお前?」
「自由になってください」
「は?」
「縛られていると思っているそれは、ただの幻です」
「なに、言って……」
「オン・シュダ・シュダ」※2
 階段を上っていく白髪の指が、ぺちんと額を叩いた。
「っ!」
 そのとたんに、膝から力が抜けてその場にしゃがみこんでしまう。
 音だけは派手だったけれど、大した力でもなかったのに。
 痛くもかゆくもなかったのに。

――自由になってください――

 その言葉がグルグルと頭を巡る。

(自由に、自由に。……自由で、いいんだ……)

 体に巻き付いていた鎖がほどけていくような。
 心に刺さっていたトゲが抜けていくような。
 そんな感覚が次々に襲い掛かってきて、立ち上がることもできない。

(でも、今さら自由になって、どうしろっていうんだ)

 清々しさと心許なさを同時に味わいながら、しばらくその場でしゃがみ続けた。 


 バタン!

 息子の物思いを断ったのは、思い切り何かを叩きつける派手な音だった。
 リビングで待っていたふたりが驚いて首を回すと、半開きだったドアを乱暴に全開にした母親が立っている。
 フォーマルドレスを着たその姿は、これほど「憤懣(ふんまん)」が前面に出ていなければ、美しいと言ってもいいのに。
 「お待たせ」の一言もなく、自分しか存在していないかのように。
 母親はふたりの前を歩き過ぎていく。
「……行こうか」
 気怠そうに父親から促がされた息子は、げんなりした顔をしながら立ち上がった。


 豪華客船をイメージした高級ホテルの一室で、(しょう)は鏡の前に立たせた創二(そうじ)のネクタイを結んでやっていた。
「まぁ、今日はちょっと地味だけど、しょうがねぇよな。目立つわけにもいかねぇし」
「地味とは……?」
「おとなしめくらいが丁度いいからな」
「……おとなしめ?」
 薄青のシャツに、光沢のある濃紺のネクタイを締めた創二(そうじ)を鏡越しに眺めながら、(えんじゅ)(またが)っているイスの背にあごを乗せて首を(ひね)る。
「おかしくねぇ?ほんとに?」
 そわそわとしながら、創二(そうじ)はしきりに襟元(えりもと)を触っていた。
「ふつーのダークスーツだぜ?タキシードも考えたけど、創二(そうじ)は童顔だから、七五三になっちまうからな」
 いつもは鬱陶(うっとう)しく、まぶたにまでかかっている長めの前髪も、スタイリング剤を使ってきっちりとセットされている。
「よしよし。オレってば、売れっ子美容師になれそうじゃね?」
 満足そうな顔で、(しょう)創二(そうじ)の肩を景気よく叩いた。
「自信持って行ってこいよ!」
「うん」 
 悲壮なほどの覚悟を浮かべた創二(そうじ)が、振り返りうなずく。
「頑張ってくる」
 そうして部屋にいた友人たちと(こぶし)を合わせた創二(そうじ)が、ひとつ深呼吸をして部屋をあとにしていった。


 張り付けた微笑みを崩すことのない五百木(いおき)創一(そういち)は、そろそろ頬がつりそうだなと思いながら、挨拶を続けている。
 
(右側は会社(うち)の重役で、左は取引先の重役か。あと関係先の……、誰だったかな)

「ご長男はしっかりされてますね。大学生とはいえ、さすがイオキコーポレーションの跡取りですね」
「奥様似ですか?」
「まあ、お上手なことを」
 儀礼的な笑みで応えた母親は、普段は誰よりも仕事に生きている人なのだが。
 今日ばかりはホステス役に徹しているようだ。
「そういえば、弟さんがいらっしゃると伺ったのですが、」
 取引先の新しい専務だとかいう、恰幅(かっぷく)のいい男性が会場を見回している。
「ま、まだ高校生ですからね。こういう場所を苦手に思うのは当たり前でしょう」
 その上司である顔なじみの社長が、いたたまれない空気を読んで専務の言葉を奪った。

 創二(そうじ)の話題になると、のどに魚の骨が刺さってしまったような気持ちになる。
 大げさなことではない。
 けれど、確かにそこにある痛み。
 もう、どのくらい言葉を交わしていないだろう。
 兄である自分が「長男らしく」「後継者らしく」と勝手に期待されて、周囲が求める姿を演じ始めたあたりか。
 余計な干渉を避けるための手段にすぎなかったけれど、弟は自分よりも素直で不器用だ。
 自らの望みと周囲の期待の狭間(はざま)で苦しんで、結果、眉をひそめられる方向へと舵を切ってしまった。
 こういう場にも、中学に入ってからは一度も顔を出していない。
 親戚の集まりで、いつも不良呼ばわりされる弟を思うと胸苦しくなる。
 比較してほめられる自分が卑怯者のように思えて。
 
 気まずくなった間を持たせようと、手の中にあるシャンパングラスに口をつけようとしたとき。
 父親が意外なことを言った。
「いや、今日は来ているはずです」
「え?」
 父親が首を向けた方向に、自然と目が引きつけられていく。
「ああ、来たわね。創二(そうじ)!」
 にじみ出る姉御感を隠せない母親が、広いホールの中央扉から入ってきた人影に声をかけた。

創二(そうじ)?あれが?)

 目を疑ってしまったのは、その人物がスーツを着ていたからじゃない。
 いつすれ違っても、逃げるようにそらされていたその顔が、まっすぐに上げられているから。
 緊張してはいるが、その目が獲物を定めた狼のようだったからだ。
 
※1 三種大祓(さんじゅのおほはらへ) 北・北東・東・東南・南・南西・西・西北の八方向を守護する目的で八方の諸神に対してお祈りし、外部からの穢れの侵入を祓ったことに由来

※2 善無畏三蔵が作ったマントラ 邪気を消す
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