赦し合うもの-2-

文字数 2,624文字

 稀鸞(きらん)の体が、糸の切れた操り人形のようにがくりと崩れ落ちた。
 慌てて立ち上がった(あきら)がその体を受け止め、その違和感に思わず息を飲む。

(なんやこれ、軽……!)

 その体のすべてが頼りなく、ふわふわと、まるで綿(わた)(かたまり)を手にしているようだった。
「き、らんさ……」
 稀鸞(きらん)の腕がゆっくりと上がり、(あきら)の唇に冷たい人差し指が添えられる。
 そして、その指はそのまま、汚物だまりから、ふらふらと立ち上がった男へと向けられた。

――黙って、見ていてごらん――
 
 稀鸞(きらん)の言いたいことが痛いほど伝わってくる。
 ……やっと馴染(なじ)んだアーユスではなくて、そのまなざしと、その微笑で。

「っく……、う……」
 稀鸞(きらん)は自分の左手から腕輪を抜くと、嗚咽を(こら)えている(あきら)に握らせた。
「アグニ・アカシャの腕輪を、火の朱雀に」
 その声にはもう、森羅万象を震わせた覇気も精彩もない。
「朱雀。あなたの優しさの結末を、ともに見守りましょう」
 (あきら)の鼓膜を震わせたのは、ほとんど吐息でしかない言葉。
「……見えますか?」
 首を向ける力も残っていない稀鸞(きらん)を抱え直して、(あきら)は立ち上がった男へと体を回した。
 
 黒い液体にまみれている男が、寄り添う(まもる)蒼玉(そうぎょく)に気づき、一歩踏み出る。
 男の目に生気が宿り、それに呼応するように、蒼玉(そうぎょく)の首にかかる夕日の勾玉(まがたま)が輝き始めた。
沙良(さら)(まもる)のお願いを聞いてくれる?」
「母さん。父さんへの霊力を、少し使ってもいい?」
 ふたりの手が重ねられるように勾玉(まがたま)に触れると、一気に(あふ)れ出た光が、宮司姿の男に向かって手を差し伸べる人の形となっていく。
「……さ、ら……」
 ふらり、ふらりと。
 男の足が光に近づいていった。
『久しぶりね』
 体から力が抜けていくように、男は光の沙良(さら)の前に膝立ちとなる。
『そんなに怒らないで。あなたを邪魔に思ったことなど一度もない。本当よ』
「……うん……」
 宮司姿の壮齢の男が、幼子のようにこくりとうなずいた。
『伊豆に行ってもらったのは、あなたを守るためよ。本当はわかっているのでしょう?』
 男は息を震わせながら、ただ沙良(さら)を見上げている。
『あのとき、秋鹿(あいか)の事情を話せなくてごめんなさい。それであなたの不安を(あお)ってしまったのね。不満を募らせてしまった。家族を分断してしまった』
 一筋の黒い涙が、男の瞳から流れ始めた。
『それでも私は、(れん)を愛さずにはいられなかったの』
 しかめられた顔で流すその涙は、漆黒の炭粉を混ぜたようで。
 幾本もの黒い筋が、男の顔を汚していく。
『私たちの我がままをあなたにも、(まもる)にも背負わせてしまった。ごめんなさい。でもね、(のぞむ)
 沙良(さら)の両腕が伸ばされ、その手が(のぞむ)の頬を包みこんだ。
『あなたは思い違いをしているの。私は可哀そうなんかじゃない。だって、幸せだったから』
「幸せなわけ、ないだろ。あんな死に方、して……。小さい息子だっていたのに……」
(のこ)していくことはつらかったわ。でも、幸せであったことには変わりがない。心から愛する人たちと過ごせたのだもの。そして』
 光の沙良(さら)(かが)みこんで、(のぞむ)の頭をかき(いだ)く。
『これほど思ってくれる弟がいる私は幸せよ。そうでしょう?』
「っふぅ……」
 黒い涙が薄墨色になり、次第に透明度を増していった。
(のぞむ)、私の大切な弟。あなたが私の幸せを望んでくれたように、私もあなたの幸せを祈っている』
「……さら……。ねえちゃん」
(まもる)を受け入れられないのなら、それは仕方がない』
 瞬きもせず沙良(さら)を見つめる(のぞむ)の瞳からは、水晶のような涙が流れ続けている。
『……でもね』
 泣きじゃくる弟をなでる手は優しいまま。
 微笑の消えた厳しいまなざしで、沙良(さら)(のぞむ)をのぞき込んだ。
『あなたは命で(あがな)わなければならないほどの過ちを犯した。悪しきモノに助力を願った』
 目に(おび)えをにじませて、(のぞむ)はうなだれる。
『あなたの命乞いをしたのは(まもる)の友達よ。(まもる)はあなたのためじゃなく、友達のためにあなたを赦した。あなたは、もう大人でしょう?』
 (のぞむ)はゆっくりと顔を上げると、稀鸞(きらん)を抱きかかえる(あきら)と、その隣に立つ(まもる)に目を向けた。
『よく考えて。叔父ではなく、大人としてのケジメのつけ方を。……どんな結末であっても、私は(のぞむ)を愛してる。少し遠くで、父さんと待っているから』
 もう一度その腕の中に弟を閉じ込めると、沙良(さら)は温かい微笑みを浮かべたまま細い光となって、勾玉(まがたま)へと吸い込まれていく。
沙良(さら)っ」
 (のぞむ)は手を伸ばすが、その先にはもう沙良(さら)の姿はなくて。
 勾玉(まがたま)の首飾りをかける少女がいるばかりであった。
「叔父さん」
 初めてかけられた「叔父」という言葉に、(のぞむ)が弾かれたように(まもる)に顔を向ける。
「叔父さんは、俺のことが怖いのだと思っていました。……でも、それ以上に、叔父さんは俺が憎かったんですね」
 (まもる)は視線を落として、自嘲気味の笑みを唇に乗せた。
「当たり前のことだけれど。秋鹿(あいか)の事情を、知らされなかったのだから。……

、そう思います」
『叔父さんが、どれほど母さんを大切に思っていたのか。どうしてそれほど母さんを慕うのか、わかっていますから』
 アーユスで過去を()たことを伝えられた(のぞむ)が、ぎょっとして、すぐに納得した顔になる。
「きみの……」
 (のぞむ)は大きく息を吸いこみ、いったん止めてから盛大に吐き出した。
(まもる)の霊力は、これほどなのか。……依代(よりしろ)になってくれたお嬢さんは……。人というよりも、神域の存在だね。……ははっ」
 乾いた、力のない笑いを漏らして、(のぞむ)は天を仰ぐ。
「私(ごと)きが、嫉妬や羨望を(いだ)くことすらおこがましい。この罪はいかようにも受けるよ。すべて、自分の矮小な魂が招いた厄災だ。……こんな私の命乞いをしてくれてありがとう」
 (のぞむ)はフラフラと立ち上がると、(あきら)に深く頭を下げた。
沙良(さら)に会わせてくれて、(まもる)に謝罪する機会を与えてくれて、ありがとう」
「叔父さんが生きることは、友人の望みです。……そのほうがつらいのかもしれないけれど」
 (のぞむ)に歩み寄った(まもる)がその手を取る。
「もう一度、人として生きてみてもらえませんか」
 手を引かれた(のぞむ)が、汚物だまりから一歩、抜け出るのと同時に。
斉宮(いつき)さーん!」
 底抜けに明るい声と、勢いよく走る足音が近づいてきた。
「よかった、ご無事だったんですね!あいつの呪符を手にしてから、妙なことが続きましたけど、……あれ?きみは……」
 駆け寄ってきた神職姿の若者と、振り返った紅玉(こうぎょく)が見つめ合って固まる。
「えっと、きみ、きみ、は……」
「……駿河(するが)……」
 そのふたりを見守る蒼玉(そうぎょく)の目が、不愉快そうに細められた。
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