稀鸞の体が、糸の切れた操り人形のようにがくりと崩れ落ちた。
慌てて立ち上がった
煌がその体を受け止め、その違和感に思わず息を飲む。
(なんやこれ、軽……!)
その体のすべてが頼りなく、ふわふわと、まるで
綿の
塊を手にしているようだった。
「き、らんさ……」
稀鸞の腕がゆっくりと上がり、
煌の唇に冷たい人差し指が添えられる。
そして、その指はそのまま、汚物だまりから、ふらふらと立ち上がった男へと向けられた。
――黙って、見ていてごらん――
稀鸞の言いたいことが痛いほど伝わってくる。
……やっと
馴染んだアーユスではなくて、そのまなざしと、その微笑で。
「っく……、う……」
稀鸞は自分の左手から腕輪を抜くと、嗚咽を
堪えている
煌に握らせた。
「アグニ・アカシャの腕輪を、火の朱雀に」
その声にはもう、森羅万象を震わせた覇気も精彩もない。
「朱雀。あなたの優しさの結末を、ともに見守りましょう」
煌の鼓膜を震わせたのは、ほとんど吐息でしかない言葉。
「……見えますか?」
首を向ける力も残っていない
稀鸞を抱え直して、
煌は立ち上がった男へと体を回した。
黒い液体にまみれている男が、寄り添う
鎮と
蒼玉に気づき、一歩踏み出る。
男の目に生気が宿り、それに呼応するように、
蒼玉の首にかかる夕日の
勾玉が輝き始めた。
「
沙良。
鎮のお願いを聞いてくれる?」
「母さん。父さんへの霊力を、少し使ってもいい?」
ふたりの手が重ねられるように
勾玉に触れると、一気に
溢れ出た光が、宮司姿の男に向かって手を差し伸べる人の形となっていく。
「……さ、ら……」
ふらり、ふらりと。
男の足が光に近づいていった。
『久しぶりね』
体から力が抜けていくように、男は光の
沙良の前に膝立ちとなる。
『そんなに怒らないで。あなたを邪魔に思ったことなど一度もない。本当よ』
「……うん……」
宮司姿の壮齢の男が、幼子のようにこくりとうなずいた。
『伊豆に行ってもらったのは、あなたを守るためよ。本当はわかっているのでしょう?』
男は息を震わせながら、ただ
沙良を見上げている。
『あのとき、
秋鹿の事情を話せなくてごめんなさい。それであなたの不安を
煽ってしまったのね。不満を募らせてしまった。家族を分断してしまった』
一筋の黒い涙が、男の瞳から流れ始めた。
『それでも私は、
錬を愛さずにはいられなかったの』
しかめられた顔で流すその涙は、漆黒の炭粉を混ぜたようで。
幾本もの黒い筋が、男の顔を汚していく。
『私たちの我がままをあなたにも、
鎮にも背負わせてしまった。ごめんなさい。でもね、
望』
沙良の両腕が伸ばされ、その手が
望の頬を包みこんだ。
『あなたは思い違いをしているの。私は可哀そうなんかじゃない。だって、幸せだったから』
「幸せなわけ、ないだろ。あんな死に方、して……。小さい息子だっていたのに……」
『
遺していくことはつらかったわ。でも、幸せであったことには変わりがない。心から愛する人たちと過ごせたのだもの。そして』
光の
沙良は
屈みこんで、
望の頭をかき
抱く。
『これほど思ってくれる弟がいる私は幸せよ。そうでしょう?』
「っふぅ……」
黒い涙が薄墨色になり、次第に透明度を増していった。
『
望、私の大切な弟。あなたが私の幸せを望んでくれたように、私もあなたの幸せを祈っている』
「……さら……。ねえちゃん」
『
鎮を受け入れられないのなら、それは仕方がない』
瞬きもせず
沙良を見つめる
望の瞳からは、水晶のような涙が流れ続けている。
『……でもね』
泣きじゃくる弟をなでる手は優しいまま。
微笑の消えた厳しいまなざしで、
沙良は
望をのぞき込んだ。
『あなたは命で
贖わなければならないほどの過ちを犯した。悪しきモノに助力を願った』
目に
怯えをにじませて、
望はうなだれる。
『あなたの命乞いをしたのは
鎮の友達よ。
鎮はあなたのためじゃなく、友達のためにあなたを赦した。あなたは、もう大人でしょう?』
望はゆっくりと顔を上げると、
稀鸞を抱きかかえる
煌と、その隣に立つ
鎮に目を向けた。
『よく考えて。叔父ではなく、大人としてのケジメのつけ方を。……どんな結末であっても、私は
望を愛してる。少し遠くで、父さんと待っているから』
もう一度その腕の中に弟を閉じ込めると、
沙良は温かい微笑みを浮かべたまま細い光となって、
勾玉へと吸い込まれていく。
「
沙良っ」
望は手を伸ばすが、その先にはもう
沙良の姿はなくて。
勾玉の首飾りをかける少女がいるばかりであった。
「叔父さん」
初めてかけられた「叔父」という言葉に、
望が弾かれたように
鎮に顔を向ける。
「叔父さんは、俺のことが怖いのだと思っていました。……でも、それ以上に、叔父さんは俺が憎かったんですね」
鎮は視線を落として、自嘲気味の笑みを唇に乗せた。
「当たり前のことだけれど。
秋鹿の事情を、知らされなかったのだから。……
今は
、そう思います」
『叔父さんが、どれほど母さんを大切に思っていたのか。どうしてそれほど母さんを慕うのか、わかっていますから』
アーユスで過去を
視たことを伝えられた
望が、ぎょっとして、すぐに納得した顔になる。
「きみの……」
望は大きく息を吸いこみ、いったん止めてから盛大に吐き出した。
「
鎮の霊力は、これほどなのか。……
依代になってくれたお嬢さんは……。人というよりも、神域の存在だね。……ははっ」
乾いた、力のない笑いを漏らして、
望は天を仰ぐ。
「私
如きが、嫉妬や羨望を
抱くことすらおこがましい。この罪はいかようにも受けるよ。すべて、自分の矮小な魂が招いた厄災だ。……こんな私の命乞いをしてくれてありがとう」
望はフラフラと立ち上がると、
煌に深く頭を下げた。
「
沙良に会わせてくれて、
鎮に謝罪する機会を与えてくれて、ありがとう」
「叔父さんが生きることは、友人の望みです。……そのほうがつらいのかもしれないけれど」
望に歩み寄った
鎮がその手を取る。
「もう一度、人として生きてみてもらえませんか」
手を引かれた
望が、汚物だまりから一歩、抜け出るのと同時に。
「
斉宮さーん!」
底抜けに明るい声と、勢いよく走る足音が近づいてきた。
「よかった、ご無事だったんですね!あいつの呪符を手にしてから、妙なことが続きましたけど、……あれ?きみは……」
駆け寄ってきた神職姿の若者と、振り返った
紅玉が見つめ合って固まる。
「えっと、きみ、きみ、は……」
「……
駿河……」
そのふたりを見守る
蒼玉の目が、不愉快そうに細められた。