フォークロア‐闇鬼‐

文字数 1,400文字

 酸鼻を極める部屋に足を踏み入れれば、稀鸞(きらん)の足元でぴちゃりと濡れた音が鳴る。
 目を落とせば、それは床に広がる血だまりのせいだと気づいた。
「アグニ・アカシャ、後ろ!」
 耳に突き刺さるような叫び声に、稀鸞(きらん)が飛び退()きながら首を回す。
「これはっ」
 うねり迫る幾本もの闇の(つる)に、稀鸞(きらん)の目が見開かれた。
 それは部屋の中空にぽっかりと開いた(くら)い穴から、いくつもいくつも這い出してくる。
「オーム・ナモー・バガヴァテー・ルドラーヤ!」 ※1
 触手のような(つる)(アグニ)(チャンドラ)の放つ光縄によって、次々と消えていった。
 だが、一息つく間もなく。
「ちっ」
 背後からの舌打ちと殺気に、稀鸞(きらん)は振り向きざまに腰の太刀を抜いた。
 
 ガキン!!

 斬り結び合った刃が火花を放つ。

「……琉沱(るた)
「この間合いで止めるか」
 口を歪める男の太刀をいなし、稀鸞(きらん)は距離を取る。
「まさか、これはお前が……」
「何をしている、タルラ!アグニを殺せ!」
 憎々し気に稀鸞(きらん)をにらむ男の怒鳴り声に、(ウダカ)の危機を知らせたはずの戦士(ヴィーラ)(タルラ)が、草摺(くさずり)の腰に()いていた太刀を引き抜いた。
「アグニ・アカシャ、ご容赦!」
「タルラ、なぜだっ」
「私はもう、こうするよりほか道がないのです」
 細身の太刀を繰り出す少女の微笑みは、まるで泣いているのかのようで。
「グズグズするな!まったく使えないヴィーラだっ」
 (ののし)りながら、(ウダカ)村の次官であった琉沱(るた)も、稀鸞(きらん)に斬りかかってくる。
 同胞ふたりからの激しい攻撃に、稀鸞(きらん)が追い詰められていった。
 
 稀鸞(きらん)の窮状に気づいた蒼玉(そうぎょく)が、(つる)を相手にしながらも、両腕にはめた銀の腕輪を打ち鳴らす。
此方(こち)や、急急如律令、月兎(げつと)!」
「御意!」
 蒼玉(そうぎょく)の影から飛び()でた白ウサギが、むくむくと大きくなりながら走り、琉沱(るた)の腕を蹴り飛ばした。
 その勢いに琉沱(るた)はたたらを踏み、稀鸞(きらん)を狙っていた大太刀の軌道が大きく外れる。
「式の分際(ぶんざい)でっ」
 鬼の形相になった琉沱(るた)が刀印で早九字を切り、(ふところ)から取り出した数枚の形代(かたしろ)に、息を吹きかけていった。
 兵士に姿を変えた形代(かたしろ)月兎(げつと)を取り囲む。
 だが、白ウサギは軽やかに体を(ひね)って、まるで遊んでいるかのように、その攻撃をかわしていった。
瑠璃(るり)、お前はチャンドラを消せぇ!」
 青筋を立てた琉沱(るた)の怒号に、瑠璃(るり)と呼ばれた少女が両手を高く振り上げる。
此方(こち)や急急如律令、天、ああっ!」
 一閃(いっせん)の光が瑠璃(るり)を弾き飛ばし、同時にその右手の腕輪が砕け散った。
「ウダカ・タルラ!見損なったよっ」
 ひとりの少女が扉を蹴破って部屋に飛び込んでくる。
 燃え盛る村の炎を背に、少女は息継ぎすら許さない勢いで光矢を投げ放った。


 頭の中に放り込まれたのは、炎の翼を持つ(おおとり)のような少女。
「……!」
(しょう)の呼吸が一瞬止まった。

 (ほむら)を映し、強く輝く黒水晶の瞳。
 しなやかな体。
 鮮やかな攻撃を仕掛けるたびに、結い上げられた長い黒髪が揺れる。

 (よろい)を身に付け、刀を振るう少女は熾烈(しれつ)であり、同時に(みやび)やかな天女のようだった。
 そして、その声は稀鸞(きらん)のアーユスが見せている、幻影にすぎないというのに。
 清澄(せいちょう)な笛の()が、耳元で奏でられたのかと思うほどだった。
 
 (しょう)の胸が早鐘を打ち始める。
 心が奪われ、(とら)われたと思ったときには、もう落ちていると気づいた。
 
 舞うように戦い続ける、鮮烈な少女に心を撃ち抜かれて。
 呆然となった(しょう)は、稀鸞(きらん)の回想にどっぷりと浸っていた。

※1 ルドラ(シヴァの怒りの側面を表した神格)マントラ
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