回る因果-4-
文字数 2,274文字
”お商売の話”をした日を境に、まるであの数週間が嘘だったかのような、穏やかな日常が戻ってきた。
竹之井の息子、煌 を見ればふいと顔をそらせ、どこかへ姿を消す始末。
彼におもねっていた同級生たちも、最初こそばつが悪そうにしていたものの、煌 が何も言わず、大人たちからの叱責もないとわかると、表面上は以前と同じように声をかけてくるようになった。
◇
「なー、秋鹿 さん」
来週あたりには梅雨明け宣言が出そうです、と天気予報が告げていた日の昼休み。
元茶道室で寝転びながら、煌 は中間試験範囲の問題に頭を悩ませていた。
「ここ、教えて?」
窓際で本を読んでいた秋鹿 が、広げられている教科書に目を落とす。
「……この公式を使うんだ。あと、このページの問③が類題だから……」
秋鹿 の指が、問題と公式の間を行き来する。
「あ、そっか……。んーと、ここにこれを当てはめて…。えーと、六五が三十、六六は三十六だから、六七、六七……、四十、二?あ、できた!……かな?」
自信なさげに答えのページをめくった煌 の顔がたちまち輝いた。
「合ってた!初めて自分で解けたで、秋鹿 さん!」
「よかったな。……ところで、どうして、まだここに来るんだ。もうハブられていないだろう」
「だって、秋鹿 さんに勉強、教えてもらえるもん」
「その分、俺の昼休みがつぶれるんだけど」
「だって、せんせーよか、秋鹿 さんの教え方のほうが解りやすい」
畳に本を伏せて置いた秋鹿 からため息が漏れる。
「……少し基礎が抜けてるからな、煌 は。九九が怪しいだろう」
「ん……」
煌 はごろりと仰向けになると、古びた天井を見上げた。
「九九やってるころな、アイツがしょっちゅう夏苅 に来ててん。そらもう毎日毎日。警察呼んでも“息子に会いに来ただけや”って言われたら、なんもでけへんやろ?……ほんまにアイツ、しん、!」
秋鹿 の指に唇を塞がれて、煌 は驚いて目を上げる。
「それを口にするな。言霊の呪いは自分に還ってくる」
「ん……」
うなずいた煌 はうつ伏せの姿勢になって、組んだ腕に顔を埋めた。
「そやけど、アイツ……。夏苅 は縁を切ったんやって言うたっても、息子は息子や、血はつながってんねんって、笑いながら……」
あの下卑たニヤケ顔を思い出すだけで、煌 は泣きたくなる。
沢潟屋 のパートさんたちが、最近ではホストになっていて、それもすぐに首になったらしいとウワサしていた。
確かに、顔面だけはそれも納得できるから、それがまた情けなく、腹立たしい。
だから、似ていると言われる自分の顔も大嫌いで、鏡を見ることさえ避けている。
「こないだ、おとうちゃんたちが新聞の取材やら受け取ったさかいな……。アイツが新聞なんか、読めへんやろうけど」
そう自分に言い聞かせても。
拭いきれない不安が、煌 の顔色を冴えないものにしていた。
◇
中間テストの結果もすべて出そろった今日。
浮かれた気持ちで昇降口で待っていたのだが、秋鹿 は一向に姿を現さなかった。
気づかず、すれ違ってしまったのかと外に目を向けるが、シトシトと降り続く雨に煙る校庭には、もちろん待ち人の姿はない。
昼休みも、試験前一週間で部活がなくなった放課後も。
秋鹿 に勉強を見てもらった煌 は、予想していたよりも上々の試験結果に、大いに晴れ晴れとした気持ちで夏休みを迎えようとしていた。
約束などしていなくても、必ず昇降口で待っている煌 の姿を見た秋鹿 が一度だけ、「……友達は、早まったか……」とつぶやいていたような気がしたけれど。
その後も態度を変えないでいてくれる秋鹿 に、空耳だったに違いないと煌 は開き直っている。
追試や補講のある者は、そのスケジュールを聞くために残されることもあるらしい。
だが、いつ、どの教科を聞いても的確なアドバイスをくれた秋鹿 に限って、その対象になっていることはないだろう。
何かトラブルだろうか。
もしかして、前に秋鹿 に絡んでいた連中が、また何か……?
ならば、今度こそ力になりたい。
煌 はスニーカーを脱ぎ捨てると、人影の少なくなった校舎の階段を駆け上がっていった。
何かを説明している教師の声が漏れ聞こえてきている教室の後ろのドアから、煌 はそっとなかをのぞき込んでみる。
「どないした?夏苅 弟」
気配に気づいた秋鹿 のクラス担任の声に、残されていた2,3人の生徒がぱっと後ろを振り返った。
「いえ、あの、秋鹿 さ、センパイは?」
「秋鹿 ?とっくに帰ったで」
「え!……あ、そう、ですか。お邪魔してすんまへん」
何事かと探るような上級生の視線から、逃げるように頭を下げて、煌 は踵 を返していく。
(とっくに帰ったって、なんでやろ)
忠犬のように待っている姿を見るたび、ため息をつく秋鹿 ではあったが。
煌 が少しでも遅れればショートメールで済ますこともなく、「先に帰るぞ」と、教室まで様子を見に来てくれる秋鹿 だというのに。
(よっぽどの用事があったんかいな。……ほな、家まで押し掛けるんは迷惑かも)
煌 は肩を落として昇降口まで戻ると、脱ぎ捨てたスニーカーにしょんぼりと足を突っ込んだ。
内側に折れ込んだ踵 を直すために屈 むと、カバンからバサバサと紙束が落ちて散らばっていく。
「えぇ~。……口が開いとったんかいな。もー、派手に散らばってもうて……。あれ?」
拾おうとしてみれば、落ちたのは今日返された答案ばかりだ。
そこに記されている、今まで取ったことのないような高得点に、煌 の迷いが消えていく。
「……よし!」
拾い集めた答案の束をぐっと握りしめて、煌 は力強く二、三度うなずいた。
竹之井の息子、
あの上級生
は学校でも道場でも、彼におもねっていた同級生たちも、最初こそばつが悪そうにしていたものの、
◇
「なー、
来週あたりには梅雨明け宣言が出そうです、と天気予報が告げていた日の昼休み。
元茶道室で寝転びながら、
「ここ、教えて?」
窓際で本を読んでいた
「……この公式を使うんだ。あと、このページの問③が類題だから……」
「あ、そっか……。んーと、ここにこれを当てはめて…。えーと、六五が三十、六六は三十六だから、六七、六七……、四十、二?あ、できた!……かな?」
自信なさげに答えのページをめくった
「合ってた!初めて自分で解けたで、
「よかったな。……ところで、どうして、まだここに来るんだ。もうハブられていないだろう」
「だって、
「その分、俺の昼休みがつぶれるんだけど」
「だって、せんせーよか、
畳に本を伏せて置いた
「……少し基礎が抜けてるからな、
「ん……」
「九九やってるころな、アイツがしょっちゅう
「それを口にするな。言霊の呪いは自分に還ってくる」
「ん……」
うなずいた
「そやけど、アイツ……。
あの下卑たニヤケ顔を思い出すだけで、
確かに、顔面だけはそれも納得できるから、それがまた情けなく、腹立たしい。
だから、似ていると言われる自分の顔も大嫌いで、鏡を見ることさえ避けている。
「こないだ、おとうちゃんたちが新聞の取材やら受け取ったさかいな……。アイツが新聞なんか、読めへんやろうけど」
そう自分に言い聞かせても。
拭いきれない不安が、
◇
中間テストの結果もすべて出そろった今日。
浮かれた気持ちで昇降口で待っていたのだが、
気づかず、すれ違ってしまったのかと外に目を向けるが、シトシトと降り続く雨に煙る校庭には、もちろん待ち人の姿はない。
昼休みも、試験前一週間で部活がなくなった放課後も。
約束などしていなくても、必ず昇降口で待っている
その後も態度を変えないでいてくれる
追試や補講のある者は、そのスケジュールを聞くために残されることもあるらしい。
だが、いつ、どの教科を聞いても的確なアドバイスをくれた
何かトラブルだろうか。
もしかして、前に
ならば、今度こそ力になりたい。
何かを説明している教師の声が漏れ聞こえてきている教室の後ろのドアから、
「どないした?
気配に気づいた
「いえ、あの、
「
「え!……あ、そう、ですか。お邪魔してすんまへん」
何事かと探るような上級生の視線から、逃げるように頭を下げて、
(とっくに帰ったって、なんでやろ)
忠犬のように待っている姿を見るたび、ため息をつく
(よっぽどの用事があったんかいな。……ほな、家まで押し掛けるんは迷惑かも)
内側に折れ込んだ
「えぇ~。……口が開いとったんかいな。もー、派手に散らばってもうて……。あれ?」
拾おうとしてみれば、落ちたのは今日返された答案ばかりだ。
そこに記されている、今まで取ったことのないような高得点に、
「……よし!」
拾い集めた答案の束をぐっと握りしめて、