可愛いあなた-2-
文字数 3,132文字
通夜祭のときにぼそっと漏らしていた叔父の言葉が頭をグルグルと巡って、鎮 の体が震え出した。
――サラがあんな子をうむからだ――
(おじさん、すごくこわい顔、してた)
棺の前に立つ叔父を包んでいたのは深い悲しみ。
そして、強い怒り。
(ぼくにおこってたのかな。ぼくが、いたから……)
忙しいらしい叔父とは何回も会ったことはなく、まして親しく言葉を交わした記憶もない。
だからといって、邪険に扱われることもなかったのだが。
むしろ、顔を合わせたときにはいつも丁寧に接してもらっていたと思う。
そう、それは幼い鎮 にもわかる、不自然なほどの丁寧さで。
そして、それは叔父が自分に「怖れ」を抱いているからだともわかっていた。
「鎮 」
――ここから連れ出さなければ――
「おじさん」の明確な意思を感知した鎮 は、握られた手を勢いよく振り払う。
(やっぱり、ぼくがいけないんだ……)
「ぼく、ここにいちゃいけないの?おかあさんをころしたから?」
「そうじゃない」
「おじさん」の腕が伸ばされるのを見て、鎮 の体が反射的に動いた。
「鎮 !」
(つかまえられたら、どこかにやられてしまうんだ!)
「鎮 っ、戻りなさい!」
「外に出るな!」
無我夢中で縁側を飛び出した鎮 には、ふたりの止める声も届かない。
あまりに混乱していて、「忌明 けとなる五十日祭までは、敷地から一歩も出てはいけない」という、祖父との約束もすっかり頭から抜け落ちていた。
木々が生い茂る庭から参拝者用の駐車場に出て、そこからつながる裏山に鎮 は駆け込む。
そして、いつも母と使っていた「近道」を通って、舗装された道路に出た、そのとき。
『キタヨ、キタヨ』
『サラノムスコダネ』
『アア……、モノスゴクウマソウダ』
澱 んだ声が空から降りてきて、夕闇に沈んだ空気が形を取り始めた。
(え、なに?なぁに……?)
足がすくんで、鎮 はそこから動けなくなる。
『サラ、キエタ。マモリモ、キエタ』
首筋にねっとりとした温気 が這 い回って、背筋がぞくりと冷たくなった。
『ウマイ、ウマイヨー』
『ヨコセヨコセ』
頭上から形のはっきりとしない「ナニカ」が、烏 の大群のように一斉に襲いかかってくる。
「わああっ」
恐ろしくて、ただ恐ろしくて。
(こわい……。おかあさん、たすけて!)
鎮 はしゃがみこで、両手で顔を覆 った。
『モウイナイ、サライナイ』
嗤 う「ナニカ」が鎮 を取り囲んで、迫ってくる。
(おかあさん、おかあ、さん)
あまりの恐怖に意識を失いそうになった鎮 の手の中に、小さな光が飛び込んできた。
『立ち止まってはだめ』
(……え?)
「ぎゃあああ」
『こっち、こっちよ』
「ナニカ」が遠ざかるのと同時に、その光は鎮 の手から飛び出していく。
『こっちにいらっしゃい』
「あ……。まって!」
『ナンダアレハ』
『エサガニゲルゾ』
「まって……、っ?!わああああ!」
気が急くあまり、光を追って走る鎮 は道路を踏み外して、崖を転がり落ちていった。
『ドッチニイッタ?』
『シタダヨ、ミズノホウダヨ』
禍々 しい「ナニカ」が自分を探しているのはわかるのに。
早く逃げなければと思うのに。
(……いたい……)
小石だらけの湖岸に体を打ちつけた鎮 は、すぐには動くことができなかった。
『がんばって!』
顔を上げた鎮 の目の前で、小さな光がジグザグに飛んでいる。
『大丈夫、大丈夫よ。そう、立ち上がって』
一直線に飛んでいく光を目で追うと、その先には黒々とした洞穴があった。
(あっちに、いかなきゃ……)
よろよろと立ち上がった鎮 を励ますように、洞穴の中で光が明滅している。
『こっち、こっちよ!』
光に促されるまま一歩踏み出せば、膝がズキンと痛んだ。
もがくように歩く鎮 の背後から、生臭い風が吹きつけてくる。
『ドコダ、ドコニイル』
『ニオウヨォ、スグソコダヨォ』
どうやら「ナニカ」が湖岸に降りてきたようだ。
「ふ、ふぅ……」
恐怖に鎮 の息が浅くなる。
走りたいのに、足がもつれて歩くこともままならない。
(あと、もうちょっと……)
洞穴まで、あともう一歩というところで。
『モォォォォォラッッタァ』
鋭い鉤爪 のような形を作った「ナニカ」が、鎮 の背中を切り裂いた。
「わぁ!」
その衝撃と痛みに小さな体がのけぞり飛んで、上半身が暗い穴の中へと倒れ込んだ。
『!』
洞穴の奥にいた光が、まっすぐに鎮 へと飛んでくる。
『こんなに血が……。可哀そうに。でも、これで、あなたの力を借りることができるわ』
岩場に横たわる鎮 の周囲を飛び回ると、光は外へと飛び出していった。
『幸魂 奇魂 守り給 ひ 幸 へ給 へ!』※1
『ギャアアアア』
『吐普加美依身多女 寒言神尊利根陀見 掃 ひ玉 ひ清目出玉 ふ』※2
『サラキエタノニ、アアアア』
『オマエハダレダ、ナニモノ……』
「ああああああああ」
重い唸 り声が遠ざかっていく。
『……モウスコシ、ダッタノニ……』
狂おしい気配が遠く消えていくのを感じたけれど、鎮 は動くこともできなかった。
(……いたいよぅ……)
『かわいそうに……。極 て汚 きも滞 なければ穢 はあらじ』
転がったまま体を丸める鎮 の耳元で、鈴が鳴る。
『内外 の玉垣清浄 と申す』 ※3
涼やかな鈴の音が鳴るごとに、痛みがこそげ落ちていく。
(……いたく、なくなった?)
恐る恐る手足を動かして、ゆっくりと起き上がってみれば、すぐ目の前には、長い黒髪の少女が佇 んでいた。
「おねえさん、だあれ?」
目を丸くする鎮 に、少女が柔らかく微笑む。
『がんばりましたね。もうだいじょうぶ。だいじょうぶですよ』
頭の中に流れ込んできたのは、先ほど聞いた鈴の音と同じ、清涼な「想い」。
「だいじょうぶ?」
『ええ、怖いモノはいなくなりました』
鎮 の傷をなぞっていく少女の手はそよ風のように頼りなく、だが、温かい。
そして、ただただ優しかった。
『とても悲しいことがあったのですね。きれいな瞳がこんなに涙で濡れて』
「あ、ぼく、コンタクト……」
『あなたの赤い瞳は久しぶりに見ます。とてもきれい。髪もずっと黒くしていて残念です。美しい白なのに』
「うつくしい?へん、じゃない?」
『変?どうしてですか?私には白い毛に紅 い目の信友 がおりますが、とても強くて、とても美しい子ですよ』
「おねえさん、その子のこと、スキ?」
『はい。大好きです』
――大好き――
それは、少女の友への言葉だとわかっているけれど。
(ぼくにいってくれてるみたい)
だって、それは母がくれた「想い」と一緒だと、なぜかわかったから。
「お、おかあ、さん」
鎮 の目にみるみる新しい涙がたまりだした。
『悲しくて、心が痛いのですね』
「うん。……お、おかあさん、が」
ポロリと鎮 の目から涙がこぼれていく。
『はい』
「しんじゃ、しんじゃったの。……ぼくの、せいで……」
『それは違います』
少女の光が鎮 の全身を込むと、冷たかった体がぎゅっと温かくなった。
『あなたのせいではありません』
「……な……で、わか、るの」
『おかあさまがそう言っています』
「お、かあさ……、いる?」
『はい』
「みえな、みえない、よぉ」
ポロポロと涙を流す、鎮 を包む熱が上がっていく。
『見えなくても聞こえなくても、触れられなくても。形在るときと変わらぬ心で、あなたを大好きと言っています』
伸ばした鎮 の手は少女を通り抜けて、硬く冷たい何かに当たった。
(おっきな、石……)
光に包まれている少女と重なるようにしてそこにあったのは、何かの目印のように置かれている大石。
「くすん、ぐすん……。うわぁぁぁぁぁん!」
少女の代わりに大石に縋 りつきながら、鎮 は母が死んでから初めて、大声を上げて泣き続けた。
※1 神語 キリスト教の「アーメン」、仏教の「南無阿弥陀仏」にあたる
※2三種太祓
※3一切成就祓
――サラがあんな子をうむからだ――
(おじさん、すごくこわい顔、してた)
棺の前に立つ叔父を包んでいたのは深い悲しみ。
そして、強い怒り。
(ぼくにおこってたのかな。ぼくが、いたから……)
忙しいらしい叔父とは何回も会ったことはなく、まして親しく言葉を交わした記憶もない。
だからといって、邪険に扱われることもなかったのだが。
むしろ、顔を合わせたときにはいつも丁寧に接してもらっていたと思う。
そう、それは幼い
そして、それは叔父が自分に「怖れ」を抱いているからだともわかっていた。
「
――ここから連れ出さなければ――
「おじさん」の明確な意思を感知した
(やっぱり、ぼくがいけないんだ……)
「ぼく、ここにいちゃいけないの?おかあさんをころしたから?」
「そうじゃない」
「おじさん」の腕が伸ばされるのを見て、
「
(つかまえられたら、どこかにやられてしまうんだ!)
「
「外に出るな!」
無我夢中で縁側を飛び出した
あまりに混乱していて、「
木々が生い茂る庭から参拝者用の駐車場に出て、そこからつながる裏山に
そして、いつも母と使っていた「近道」を通って、舗装された道路に出た、そのとき。
『キタヨ、キタヨ』
『サラノムスコダネ』
『アア……、モノスゴクウマソウダ』
(え、なに?なぁに……?)
足がすくんで、
『サラ、キエタ。マモリモ、キエタ』
首筋にねっとりとした
『ウマイ、ウマイヨー』
『ヨコセヨコセ』
頭上から形のはっきりとしない「ナニカ」が、
「わああっ」
恐ろしくて、ただ恐ろしくて。
(こわい……。おかあさん、たすけて!)
『モウイナイ、サライナイ』
(おかあさん、おかあ、さん)
あまりの恐怖に意識を失いそうになった
『立ち止まってはだめ』
(……え?)
「ぎゃあああ」
『こっち、こっちよ』
「ナニカ」が遠ざかるのと同時に、その光は
『こっちにいらっしゃい』
「あ……。まって!」
『ナンダアレハ』
『エサガニゲルゾ』
「まって……、っ?!わああああ!」
気が急くあまり、光を追って走る
『ドッチニイッタ?』
『シタダヨ、ミズノホウダヨ』
早く逃げなければと思うのに。
(……いたい……)
小石だらけの湖岸に体を打ちつけた
『がんばって!』
顔を上げた
『大丈夫、大丈夫よ。そう、立ち上がって』
一直線に飛んでいく光を目で追うと、その先には黒々とした洞穴があった。
(あっちに、いかなきゃ……)
よろよろと立ち上がった
『こっち、こっちよ!』
光に促されるまま一歩踏み出せば、膝がズキンと痛んだ。
もがくように歩く
『ドコダ、ドコニイル』
『ニオウヨォ、スグソコダヨォ』
どうやら「ナニカ」が湖岸に降りてきたようだ。
「ふ、ふぅ……」
恐怖に
走りたいのに、足がもつれて歩くこともままならない。
(あと、もうちょっと……)
洞穴まで、あともう一歩というところで。
『モォォォォォラッッタァ』
鋭い
「わぁ!」
その衝撃と痛みに小さな体がのけぞり飛んで、上半身が暗い穴の中へと倒れ込んだ。
『!』
洞穴の奥にいた光が、まっすぐに
『こんなに血が……。可哀そうに。でも、これで、あなたの力を借りることができるわ』
岩場に横たわる
『
『ギャアアアア』
『
『サラキエタノニ、アアアア』
『オマエハダレダ、ナニモノ……』
「ああああああああ」
重い
『……モウスコシ、ダッタノニ……』
狂おしい気配が遠く消えていくのを感じたけれど、
(……いたいよぅ……)
『かわいそうに……。
転がったまま体を丸める
『
涼やかな鈴の音が鳴るごとに、痛みがこそげ落ちていく。
(……いたく、なくなった?)
恐る恐る手足を動かして、ゆっくりと起き上がってみれば、すぐ目の前には、長い黒髪の少女が
「おねえさん、だあれ?」
目を丸くする
『がんばりましたね。もうだいじょうぶ。だいじょうぶですよ』
頭の中に流れ込んできたのは、先ほど聞いた鈴の音と同じ、清涼な「想い」。
「だいじょうぶ?」
『ええ、怖いモノはいなくなりました』
そして、ただただ優しかった。
『とても悲しいことがあったのですね。きれいな瞳がこんなに涙で濡れて』
「あ、ぼく、コンタクト……」
『あなたの赤い瞳は久しぶりに見ます。とてもきれい。髪もずっと黒くしていて残念です。美しい白なのに』
「うつくしい?へん、じゃない?」
『変?どうしてですか?私には白い毛に
「おねえさん、その子のこと、スキ?」
『はい。大好きです』
――大好き――
それは、少女の友への言葉だとわかっているけれど。
(ぼくにいってくれてるみたい)
だって、それは母がくれた「想い」と一緒だと、なぜかわかったから。
「お、おかあ、さん」
『悲しくて、心が痛いのですね』
「うん。……お、おかあさん、が」
ポロリと
『はい』
「しんじゃ、しんじゃったの。……ぼくの、せいで……」
『それは違います』
少女の光が
『あなたのせいではありません』
「……な……で、わか、るの」
『おかあさまがそう言っています』
「お、かあさ……、いる?」
『はい』
「みえな、みえない、よぉ」
ポロポロと涙を流す、
『見えなくても聞こえなくても、触れられなくても。形在るときと変わらぬ心で、あなたを大好きと言っています』
伸ばした
(おっきな、石……)
光に包まれている少女と重なるようにしてそこにあったのは、何かの目印のように置かれている大石。
「くすん、ぐすん……。うわぁぁぁぁぁん!」
少女の代わりに大石に
※1 神語 キリスト教の「アーメン」、仏教の「南無阿弥陀仏」にあたる
※2
※3