姉と弟-1-

文字数 3,002文字

 ずいぶんとオシャレをした姉が、玄関の鏡の前で身だしなみのチェックをしている。
沙良(さら)、今日休みじゃないの」
「休みよ?」
 それがどうしたのと振り返るその笑顔は、思わず目をそらすほどまぶしかった。
「職場がみなと地区になってから忙しいんだろ。休めるときに休んだら?」
「忙しいけど、充実してるもの。(のぞむ)はもう夏休み?」
「うん。学部の試験は終わったからね」
「学生最後の夏休みね。予定は?」
「なくはないけど」
「なら、目いっぱい楽しまなきゃ。じゃあ行ってきます!」

 俺たちの母親は早くに亡くなってしまったから、学生時代の姉の負担は、それは大きかったと思う。
 ずっと母親代わりで、部活にも入らないで。
 友達とだって、滅多に遊びに行くこともなかった。
(のぞむ)が一人前になるまでは、私がここを守らないとね」
 そう言って笑っていたけれど、本当は進みたかった道だってあったと思う。
 なのに、自分のことは二の次にして、いつだって俺や父親の世話ばかりやいていた。
 いや、姉の負担を増やしていたのは、俺だったってことはわかってる。
 人付き合いのヘタな、手のかかる子供だったから。


 小学生のとき、俺は問題児だった。
 集団遊びが苦手な、口ばかりが達者な皮肉屋で。
 だから、口ゲンカでやり込めてしまった相手から、暴力の報復もよく受けていた。

 きっかけが何だったかなんて、もう覚えていないけれど。
 あれは確か、小学三年生のときのこと。
 四、五人に囲まれて野次られながら、ランドセルでどつき回された俺は、持っていたサブバックを振り回して反撃した。
「いってぇっ」
 俺の顔にランドセルをぶつけようとしていたヤツが、しゃがみこんで顔を押さえている。
 サブバックがヒットしたらしいと気づいたけれど、すぐに謝る気にもなれなかった。
 だって、最初に攻撃してきたのは向こうなんだから。

「会議で席を外している間に、保健室の先生がメモを残しておいてくれたんです。(のぞむ)さんが乱暴をして、相手の子の唇が切れて腫れたって。今日中に謝りに行ってくださいね」
 担任からそんな電話が自宅に入ったのは、もう夕飯にしようかという時間帯。
「必ず、今日中ですよ。こういうことは早いほうがいいですから」
 きついキンキン声は、電話越しにも聞こえてくるほどのボリュームだった。
(のぞむ)から手を出したの?」
 受話器を置いた姉ちゃんの声は、怒ってはいなかったけれど。
 その顔を見ることができなくて、俺はうつむいた。
「……違うよ。アイツらが先に……」
 悔しくて、悔しくて。
 目にはみるみる涙がたまっていった。

 どうしてそうなったか事情も知らないくせに。
 そのあとどうなったのか聞こうともしないで。
 キンキン声で姉ちゃんを責める担任が憎かった。

「乱暴したの?」
「サブバックが当たっちゃったんだ」
「そしたら?」
「血が出てるってアイツらが騒ぎ出して、保健室連れてくから、オマエはもう帰れって」
「それで?」
「一緒に行くって言ったけど、うぜぇからついてくんなって」
「そっか……」
 そっとうかがうと、姉ちゃんは少し悲しそうな顔をしながら、到来物の、未開封の菓子箱を紙袋に入れていた。
「でも、あの先生じゃ聞いてくれそうもないね。お母さんがいないんだから、仕方ありませんけどねって、言われちゃった」
「かんけーねーじゃん!」
「うん、関係ないねぇ」
「アイツ、いっつもそんなこと言うんだ!」
 ランドセルを頭に振り下ろされても我慢した涙が、ぽろぽろと(こぼ)れていく。
斉宮(いつき)くんはお母さんがいないんだから、皆さんハイリョしましょーとか言って、怒るときは、お母さんいないから、シツケがなってないとか言うんだっ」
「ひどいねぇ」
「……ひどいよ……」
 (こぶし)で涙を(ぬぐ)う俺の頭を、姉ちゃんははずっとなでてくれていたんだ。

 相手のお母さんからは、「わざわざお姉さんが来なくても、子供同士のケンカなんだから」と言ってもらえて、ちょっとほっとしたけれど。
 姉ちゃんがそのやりとりを書いて提出した連絡帳を、担任はろくに読みもしないで、ハンコだけ押して返してきた。

 それからもずっと、担任の態度がそんな感じだったから。
 クラスの雰囲気は、俺を悪者にしておけばいいというものになっていった。

 「クサイ」「キモイ」とはやし立てられて言い返せば、「耳元で大声を出されたと」チクられる。
 俺のロッカーの前で立って、邪魔してたヤツの脇から手を伸ばしてランドセルを取り出したときには、「突き飛ばされた」と泣かれた。
 そうして、いつだって怒られるのは俺。

 だから、学年が上がってクラス替えがあっても、担任が変わっても。
 一度貼られたレッテルが()がされることはなく、理不尽だと思う仕打ちは続いた。

 一番記憶に残っているのは、俺たち赤組が優勝した、六年生の運動会。
 応援団長だったボス女子が、ふざけて優勝カップを頭にかぶった。
「王冠だね!似合う~」
 そいつにべったりの金魚のフン女子が大げさにほめれば、ほかの女子たちが「あたしも、あたしも」と次々に手を伸ばしていく。
 ついには男子も加わりだして、隣にいたクラスメイトが「おまえもかぶる?」と、俺に優勝カップを渡そうとしたとき。
「あんた、なんにも貢献してないじゃん」
 ボス女子がそう言って、優勝カップをひったくっていった。
「アイツ、徒競走ビリから二番目じゃんね~。ダメ人間じゃん」
 フンどものクスクス笑いを浴びながら。
 

が触れることを許されない優勝カップが、教壇へと戻されていく。
 
 すごく惨めだった。
 確かに俺の足は遅い。
 騎馬戦でも、最初に崩された馬なのも確かだ。
 でも、手を抜いたわけじゃない。
 ないのに。
 
 バン!!

 突然、派手な音が教室中に響き渡ったのは、俺の涙が一粒、床に落ちたときだった。
 顔を上げた俺の目に飛び込んできたのは……。
「……姉ちゃん……」
 仁王のような顔をしている姉ちゃんが、仁王立ちして教室をにらみまわしていた。

 「生徒会の用事が終わったら、すぐに行くね」と言っていたけれど。
 文化祭の準備って聞いていたから、間に合わないと思っていたのに。
 
 県下随一の進学高校の制服を着たままの姉ちゃんは、つかつかとボス女子に近寄ると、その手から優勝カップを奪い取った。
「運動会に貢献するっていうのは、加点される順位に入ること?そうじゃないとダメ人間なの?では、お伺いするわ」
 小学生を相手にするには硬い声と言い方で、その目は冷ややかで。
「徒競走ではひとりを除いて、このクラスのみなさん、全員三位以内だったのかしら」
 誰も何も言わなかった。
「騎馬戦ではひとつのグループを除いて、みなさん敵のハチマキを取れたのかしら」
 今度も無言。
 だって、唯一、俺のクラスがビリだった団体競技が騎馬戦だったんだから。
「運動会って、点数が入ったらエライの?入らないとエラクないの?」
「……当たり前じゃんね」
 ボス女子と取り巻きのフンたちが、ひそひそと(ささや)き合っている。
「当たり前、か。じゃあさあ」
 こんな不機嫌でガラの悪い姉ちゃんを見たことがなかった。
「優勝できなかったクラスの人たち全員に、そう言ってやったら」
「……はぁ?」
 姉ちゃんからヒタリと見つめられたボス女子が、首を倒して馬鹿にしたような顔をする。
「お前らみんな、優勝できなかったダメ人間なんだよって」
「うっざ」
 口を斜めに曲げたボス女子が、姉ちゃんから顔を背けた。
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