一期一会-1-
文字数 3,282文字
亀の歩みだった車の列が、とうとうぴたりと止まってしまった。
ラジオの交通情報に耳を傾けながら、なかなか解消しない事故渋滞に焦燥が募る。
(これは一報を入れておく必要があるな)
カーナビを操作して電話をかけると、車内スピーカーから落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「もしもし」
「お忙しいところ申し訳ございません。私は高梁 と申します。そちらに秋鹿 鎮 さんがお世話になっていると伺っておりますが」
「ああ、はい。……鎮 」
(……名前を呼んだ)
ほどなく、「ありがとうございます、叔父さん。……お待たせしました」と電話に出た主人に、再び耳を疑う。
(叔父さん……)
本当に、何があったというのだろう。
あのふたりの確執の根は、浅いものではないと聞いているのだが。
「高梁 さん、時間を取らせてごめんなさい」
いつものとおり、揺らぎの少ない主人の声に物思いが断たれる。
「いえ、とんでもない。皆さんもご無事なんですね?」
「はい」
「小田厚で事故渋滞につかまって、そちらに到着する時刻が読めません。近くまで参りましたら、また連絡を入れますので」
「わかりました。あの……、高梁 さん。……お願いが、あります」
出会ったころのように口ごもる主人に、思わず眉の根が寄った。
(それほど躊躇 することが……?)
「なんなりと、ご遠慮なく」
「……送ってもらいたいのは、俺を含めて六人です」
「おや、ふたり増えましたね。お友達になった方でも?」
(やっかいな人物に関わってしまったとか。……まさか、叔父本人を?)
「ひとりはわたしです。……久しぶりね」
少し遠いその声に鳥肌が立つ。
「あなた……、は」
声を耳にする初めてだ。
けれど、そのトーンには覚えがある。
それは深く胸に刻まれ、忘れることを許されない「あの日の少女」のものだから。
◇
鎮 さんの見舞いから帰った翌日。
指定された番号に連絡を入れると、その表情が目に浮かぶほど、秋鹿 社長の声ははずんでいた。
「ありがとう、高梁 君。こんなに嬉しいことはありません。さっそくですが、正式に契約しましょう。今日の夜は、何か予定がありますか?」
「いえ、特別なにも」
「では……」
そうして秋鹿 社長から指定されのは、港に面したホテルの最上階ラウンジ。
一介の学生を招待するには、少々贅沢すぎる個室だった。
◇
「高梁 君は、何でも美味しそうに召し上がりますね」
席についたとたんに、遠慮する間もなく次々に食事が運ばれてくる。
創作懐石とでもいうのだろうか。
目にも美しい和食に、ついつい箸が進む。
「どれも美味しいです。これなどは」
濃淡が美しい緑釉 陶器を手に取り、盛られた料理に見入ってしまう。
「切り干し大根がサラダになるとは思いませんでした。……今度、作ってみよう」
「あなたは料理をなさるのですか」
「ええ、両親が共働きですから。夕食当番は、ほぼ僕の担当でした」
「……時間が合えばで構いませんが、鎮 とも一緒に食事をしていただければ、嬉しいです」
「それはもちろん。鎮 さんさえよければ」
「ありがとう」
それは同性でも見惚れるような、とことん魅力的な秋鹿 社長の笑顔だった。
「鎮 はとても喜んでいました。あなたがそのままの鎮 を、”当たり前の存在”として認めてくれたことに」
「そのままの鎮 くんはとても利発で、とても誠実でした。……ちょっと不思議なところもありますが、それも魅力のひとつでしょう」
「その評価は、親として本当に嬉しい」
目を潤ませる秋鹿 社長に、何と返せばよいのか迷い、口をつぐんでしまった。
詳しい事情は知らないし、こちらから聞くつもりもないけれど。
そんな顔をする父親が息子と一緒に暮らせないのは、さぞかしつらいことだろう。
「のちほど契約書をご覧に入れます。ご了承いただけるようなら、サインをお願いします。……さて、食事を先にすませてしまいましょう。高梁 君の得意料理はなんですか?」
「鶏の照り焼きです。普通の家庭料理ですけれど」
「それはとても贅沢な普通ですね。……きっと鎮 も気に入ると思います」
「そうだと嬉しいのですが。そのときには、ぜひ秋鹿 社長もご一緒に」
「……いいですね」
眉毛を下げたその笑顔はとても優しくて、とても切ないものだった。
食後のコーヒーを飲みながら、契約書を読んでいくと。
(……ん?)
奇妙な一文に目が留まり、首を傾げてしまう。
「あの、秋鹿 社長」
「あなたは私の部下ではないのですから、社長と呼ばなくて結構ですよ。もちろん、卒業後に部下になってくれるつもりがあるなら、大歓迎ですが」
「ですが、私の雇い主になるわけでしょう?」
「あなたの雇い主は鎮 です」
「……え?」
慌てて契約書に目を落とすと、確かに雇用主の欄には「秋鹿 鎮 」の名が記されていた。
(思い込みは能力を下げると、肝に銘じているのに……)
こんな初歩的な読み落としをするなんて。
どこかで、「天下のAIKA社長にスカウトされた」と驕 っていたのだろうか。
(それにしても、彼はまだ小学生だぞ)
戸惑いが顔に出ていたのだろうか。
秋鹿 社長が喉の奥で小さく笑って、イタズラが成功した子供のような目をする。
「鎮 には、それなりの資産を持たせているのです。……万が一、私に何かあってもいいように。ですからあなたの給与は、そちらから支払われることになります」
「そう、ですか」
(なんとも別世界の考え方だな)
「かしこまりました。では、秋鹿 さん」
殿上人の哲学はともかく、どうしても気になった契約書の一文だけは説明してほしくて、指でなぞってみせた。
「この“自身と秋鹿 鎮 の命を最優先に行動する”とは、一体……?」
秋鹿 社長が深いため息をつきながら、イスの背に体を預ける。
「そこが一番、ご納得いただきたい条件なのです。……あの子の怪我の原因を、不慮の事故でと申し上げましたが、そうではないのですから」
「え?」
「母親も祖父も、そして鎮 も。同じ人間から危害を加えられたのです。……今のところ、確固たる証拠はそろっていないのですが」
「それでは、これからも同じようなことがありうる、ということですか」
「否定はできません。ただ、そうならないようにひとつ、環境は整えましたが」
秋鹿 社長が自宅には帰らない理由。
息子と同居できない理由。
そして、秋鹿 鎮 が度重なる悲劇に見舞われている、その理由。
聞かされているうちに、一口しか飲まなかったコーヒーはすっかり冷めてしまった。
「後出しのような手を使って申し訳ありません。契約を断られても仕方のないことだと、覚悟はしております」
寂しげに笑う秋鹿 社長におどけた顔、ができていたかどうかはわからないが、を浮かべてみる。
「本当に断られると思っていたら、そこまで僕に話さないでしょう。御社の機密にも関わることなのだから」
「……高梁 君……」
虚を突かれたような顔をする秋鹿 社長を前に、契約書にサインをした。
「子供の人生が大人の思惑で歪められるなど、あっていいはずがない。秋鹿 さん」
気持ちを目に込めると、ゆっくりと深く、秋鹿 社長がうなずき返してくれる。
「僕はまだ学生ですが、できうる限り、鎮 さんのお役に立てるよう尽力します」
「その身に危険が及んでも、ですか?」
「そうならないように知恵を絞ります。もちろん、多々ご協力を仰がねばなりませんが」
「家庭教師の仕事からは、かなり逸脱するとは思いますが」
「そのくらいでないと、あの破格の報酬に見合わないでしょう。それに、面白そうだと思ったのです」
「面白い?」
「鎮 さんが覚醒したら、大物になると思いませんか?どんな
「……あなたは本当に聡明で、人情味あふれる方だ。私の目に狂いはなかった」
「買いかぶりすぎですよ」
「迷子を放っておけないのでしょう?」
「つい、弟妹 を思い出したものですから」
「つまり、困っている子供には手を差し伸べてしまう」
「ええ、まあ」
「鎮 は今、とても困難な状況にいます。あの子は少し、人知を超えたような縁と能力を持つのですが、とても優しい子なのです。あなたにならお任せできる」
深々と頭を下げた屈指の経営者に、慌てて頭を下げ返した。
ラジオの交通情報に耳を傾けながら、なかなか解消しない事故渋滞に焦燥が募る。
(これは一報を入れておく必要があるな)
カーナビを操作して電話をかけると、車内スピーカーから落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
「もしもし」
「お忙しいところ申し訳ございません。私は
「ああ、はい。……
(……名前を呼んだ)
ほどなく、「ありがとうございます、叔父さん。……お待たせしました」と電話に出た主人に、再び耳を疑う。
(叔父さん……)
本当に、何があったというのだろう。
あのふたりの確執の根は、浅いものではないと聞いているのだが。
「
いつものとおり、揺らぎの少ない主人の声に物思いが断たれる。
「いえ、とんでもない。皆さんもご無事なんですね?」
「はい」
「小田厚で事故渋滞につかまって、そちらに到着する時刻が読めません。近くまで参りましたら、また連絡を入れますので」
「わかりました。あの……、
出会ったころのように口ごもる主人に、思わず眉の根が寄った。
(それほど
「なんなりと、ご遠慮なく」
「……送ってもらいたいのは、俺を含めて六人です」
「おや、ふたり増えましたね。お友達になった方でも?」
(やっかいな人物に関わってしまったとか。……まさか、叔父本人を?)
「ひとりはわたしです。……久しぶりね」
少し遠いその声に鳥肌が立つ。
「あなた……、は」
声を耳にする初めてだ。
けれど、そのトーンには覚えがある。
それは深く胸に刻まれ、忘れることを許されない「あの日の少女」のものだから。
◇
指定された番号に連絡を入れると、その表情が目に浮かぶほど、
「ありがとう、
「いえ、特別なにも」
「では……」
そうして
一介の学生を招待するには、少々贅沢すぎる個室だった。
◇
「
席についたとたんに、遠慮する間もなく次々に食事が運ばれてくる。
創作懐石とでもいうのだろうか。
目にも美しい和食に、ついつい箸が進む。
「どれも美味しいです。これなどは」
濃淡が美しい
「切り干し大根がサラダになるとは思いませんでした。……今度、作ってみよう」
「あなたは料理をなさるのですか」
「ええ、両親が共働きですから。夕食当番は、ほぼ僕の担当でした」
「……時間が合えばで構いませんが、
「それはもちろん。
「ありがとう」
それは同性でも見惚れるような、とことん魅力的な
「
「そのままの
「その評価は、親として本当に嬉しい」
目を潤ませる
詳しい事情は知らないし、こちらから聞くつもりもないけれど。
そんな顔をする父親が息子と一緒に暮らせないのは、さぞかしつらいことだろう。
「のちほど契約書をご覧に入れます。ご了承いただけるようなら、サインをお願いします。……さて、食事を先にすませてしまいましょう。
「鶏の照り焼きです。普通の家庭料理ですけれど」
「それはとても贅沢な普通ですね。……きっと
「そうだと嬉しいのですが。そのときには、ぜひ
「……いいですね」
眉毛を下げたその笑顔はとても優しくて、とても切ないものだった。
食後のコーヒーを飲みながら、契約書を読んでいくと。
(……ん?)
奇妙な一文に目が留まり、首を傾げてしまう。
「あの、
「あなたは私の部下ではないのですから、社長と呼ばなくて結構ですよ。もちろん、卒業後に部下になってくれるつもりがあるなら、大歓迎ですが」
「ですが、私の雇い主になるわけでしょう?」
「あなたの雇い主は
「……え?」
慌てて契約書に目を落とすと、確かに雇用主の欄には「
(思い込みは能力を下げると、肝に銘じているのに……)
こんな初歩的な読み落としをするなんて。
どこかで、「天下のAIKA社長にスカウトされた」と
(それにしても、彼はまだ小学生だぞ)
戸惑いが顔に出ていたのだろうか。
「
「そう、ですか」
(なんとも別世界の考え方だな)
「かしこまりました。では、
殿上人の哲学はともかく、どうしても気になった契約書の一文だけは説明してほしくて、指でなぞってみせた。
「この“自身と
「そこが一番、ご納得いただきたい条件なのです。……あの子の怪我の原因を、不慮の事故でと申し上げましたが、そうではないのですから」
「え?」
「母親も祖父も、そして
「それでは、これからも同じようなことがありうる、ということですか」
「否定はできません。ただ、そうならないようにひとつ、環境は整えましたが」
息子と同居できない理由。
そして、
聞かされているうちに、一口しか飲まなかったコーヒーはすっかり冷めてしまった。
「後出しのような手を使って申し訳ありません。契約を断られても仕方のないことだと、覚悟はしております」
寂しげに笑う
「本当に断られると思っていたら、そこまで僕に話さないでしょう。御社の機密にも関わることなのだから」
「……
虚を突かれたような顔をする
「子供の人生が大人の思惑で歪められるなど、あっていいはずがない。
気持ちを目に込めると、ゆっくりと深く、
「僕はまだ学生ですが、できうる限り、
「その身に危険が及んでも、ですか?」
「そうならないように知恵を絞ります。もちろん、多々ご協力を仰がねばなりませんが」
「家庭教師の仕事からは、かなり逸脱するとは思いますが」
「そのくらいでないと、あの破格の報酬に見合わないでしょう。それに、面白そうだと思ったのです」
「面白い?」
「
能力
だって使いようです」「……あなたは本当に聡明で、人情味あふれる方だ。私の目に狂いはなかった」
「買いかぶりすぎですよ」
「迷子を放っておけないのでしょう?」
「つい、
「つまり、困っている子供には手を差し伸べてしまう」
「ええ、まあ」
「
深々と頭を下げた屈指の経営者に、慌てて頭を下げ返した。