チャンドラの矜持

文字数 2,967文字

 膝に頭を乗せたまま眠る(まもる)の髪を、蒼玉(そうぎょく)は優しくなで続けている。
 その寝顔は幼いころの面影を濃く残していて、知らず微笑を浮かべていた蒼玉(そうぎょく)だが。

(空気が変わった)

 蒼玉(そうぎょく)は手を止め顔を上げると、窓の外に目を凝らす。
 そして、おもむろに懐の短刀を手に取ると、左手人差し指の先に刃を当てた。
 幼げな指先に紅い血球がぷっくりと膨れ上がり、ぽたりと床に落ちていく。
此方(こち)月兎(げつと)、急急如律令」
「御意」
 血雫が落ちた場所から白い耳先がのぞき、たちまち全身を現した白ウサギが、蒼玉(そうぎょく)の前に首を垂れた。
『空気が不穏すぎる。様子を見てくるから、その間、(まもる)をお願いできる?』

 リリン……。

 腕輪が小さく鳴ると同時に、(まもる)の体が浮き上がる。
 蒼玉(そうぎょく)と入れ替わってベッドに乗った月兎(げつと)の体が、むくりと大きくなった。
「けれど、ビャッコ様はすぐにお気づきになるでしょう。(あるじ)がそばにいないことに」
 ふかふかの足で(まもる)の頭を支えながら、ウサギの赤目が蒼玉(そうぎょく)を見つめる。
『とても眠りが深いから、しばらくは起きないと思うけれど』
 床に降り立った蒼玉(そうぎょく)は膝を曲げて、(まもる)の頬に唇を寄せて微笑んだ。
『今よりお前の使命は、天空(アカシャ)(まもる)を守ること』
「かしこまりました」
 ぺこりと耳を下げた月兎(げつと)は、そのままの姿勢で蒼玉(そうぎょく)を意味ありげに見上げる。
「して、(あるじ)。万が一の場合、小僧共はいかがいたしますか」
(まもる)の大切な友人ですもの。その身に危険が迫るなら


「力及ばずの場合は許されるでしょうか」
『お前はそんな無能ではないでしょう。特に今は、わたしの血で呼んだのから。美しいわたしの信友(しんゆう)
「もちろんでございます」
 我が意を得たりという顔の月兎(げつと)にひとつ微笑みかけてから、腕輪を光らせた蒼玉(そうぎょく)は、瞬時に部屋から姿を消していった。


 森がざわめき、風が(おび)えている。
 夜の(ぬし)たちも息をひそめ、見つかるまいとして気配を消していた。

(ずいぶんと禍々しい……)

 ヴィラの外に立った蒼玉(そうぎょく)は、近づく邪気に顔をしかめ、両手の腕輪を高らかに打ち鳴らす。
「オーム・ナマ・シヴァーヤ」※1
 光りに包まれた蒼玉(そうぎょく)の体が、一直線に夜空へと舞い上がり、湖へと飛び去っていった。
 
 暗い湖の向こうは、(まもる)が教えてくれたとおりの「街灯り」がきらめいてる。
 夜とは思えないほど光あふれる方向から、重昏(おもぐら)い「ナニカ」の気配が迫ってきていた。

(もう復活した……?アーユスの核にまで凝縮してやったというのに)

――街の気は濃すぎて疲れる――

 適当にかわすことに慣れているはずの(まもる)ですら、ここに戻ってきたときには愚痴をこぼしていたほどだ。
 
(エサ)には事欠かなかった、ということなのね)

 湖の上空にたどりついたのと同時に、生臭い風が吹きつけてくる。
「ほぉほぉ、アグニ・チャンドラよ。相変わらず素晴らしいアーユスだ」
 現れた(くら)い気の(かたまり)が、蒼玉(そうぎょく)の目の前で人の形となった。
「とても永きに渡り地中にいたとは、思えないなあっ」
 壮年ではあるが、なおその端正な顔立ちに陰りのない男が太刀を振りかぶる。
「オーム・ハラーヤ・ナマハ!」※2
 唱えながら体を(ひるがえ)して、蒼玉(そうぎょく)は腕輪を打ち鳴らした。
「破!」
 蒼玉(そうぎょく)が腕を一振りすると、その手から放たれた幾筋もの光が一本の光縄に()り合わされ、男に向かっていく。
「ウダカの次官である私を攻撃するか!」
 男の太刀が襲い来る光縄を断ち切り、風を切って蒼玉(そうぎょく)に襲いかかった。
「次官?どなたが?」
 冷たい侮蔑(ぶべつ)の笑みを浮かべて、蒼玉(そうぎょく)は男の太刀を腕輪で受ける。
「すでにあなたのアーユスは(カーラ)となり果てている。汚らわしいっ。村の名を口にしないで!」
「ははっ」
 太刀ごしに蒼玉(そうぎょく)を凝視する男が、()えるように笑い出した。
「はははは!お前が

村を語るか!闇堕(やみお)ちの英雄を親に持つお前が!」
 ギリっと奥歯を噛みしめる蒼玉(そうぎょく)の目の前で、男の顔が歪み変化していく。
「お前こそ、こちら側に在るべきモノだろう!!チャンドラ・蒼玉(そうぎょく)よ」
 膨れ上がった体に青黒い顔。
 目ばかりギラギラと光らせてニタニタと笑う男は、もはや人の体は成していない。
「くだらないことを」
 襲いかかる闇鬼(アンデラ)の闇刃を軽々とかわして、蒼玉(そうぎょく)は懐の短刀を抜いた。

 ガキン!
 キンっ!!
 
 満月に照らされた湖の上空で、漆黒と白銀の刃が交わる。
「陰のヴィーラのくせに、なんだその攻撃力は!お前はおかしい、おかしいのだよ、チャンドラっ」
「おかしいのはお前よ!」
 一歩も引かずに交わるふたりの刃から、舞い散る羽根のように火花が散った。
「っ!」
 避けきれず、闇鬼(アンデラ)の太刀によって切られた蒼玉(そうぎょく)の黒髪が、はらりと湖面に散っていく。 
「はは、さすがのチャンドラもここまでか?十種神宝(とくさのかむだから)を得た私に、勝てようもないからな!」
闇鬼(アンデラ)神宝(かむだから)を使うなど、許されるはずがないわ」
 吐き捨てるようにつぶやくと、蒼玉(そうぎょく)は素早く内獅子印(ないじしいん)を結んだ。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・カン!」※1
「ぐ?……う……。はは、ははははは!あーはははは!」
 光をまとわせた短刀によって、片腕を深く斬り裂かれたはずなのに。
 鬼は傷口から黒い液体を(あふ)れこぼしながらも、顔を口にして笑っている。

(この余裕はなに?闇鬼(アンデラ)の気配はほかにない。仲間などいないはずなのに)

 不気味なその態度に、蒼玉(そうぎょく)はすかさず距離をとった。
「ははは、ははははは!チャンドラよ、見ていろ!……此方(こち)瑠璃(るり)、急急如律令!!」
「まさか、あの子を式に?!……っ!」
 闇鬼(アンデラ)の背中がみちみちと割れて、そこから黒い陽炎(かげろう)のようなモノが、ゆらりと現れる。
 かと思えば、それは次第に少女へと姿を変えて、醜悪な闇鬼(アンデラ)から抜け()でると、いきなり蒼玉(そうぎょく)に襲いかかった。
「久しぶりね、チャンドラ。またその顔を見るとは思わなかった」
 夜空に浮かぶ少女は、まるで月光の精霊のように(はかな)く美しい。
「でもね、今日を最後に、二度と会わないから!」
 華奢な少女の腕にある漆黒の腕輪がゴゥ!と鳴り、手にした細身の太刀が(むち)のようにしなった。
「そうね、わたしもそう願いたいわ」
 漆黒の腕輪から放たれる闇矢も、間髪入れずに襲い来る太刀も。
 蒼玉(そうぎょく)は縦横無尽に飛びながら避けていく。
「ちょこまかとっ。相変わらず、人とは思えない動きね。……でも、これならどう?!」
 立て続けに放たれた闇矢のひとつが、蒼玉(そうぎょく)の肩を貫いた。
「ぐっ」
 動きを止めた蒼玉(そうぎょく)の目前に、青白く光る少女が迫る。
「さあ、もうこれでおしまい」
 天女のような顔が酷薄な微笑みを浮かべ、太刀を握り直した。
「死んでちょうだい」
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダト・バン!」※2
 湖上に真言(マントラ)が響き渡るのと同時に、美少女に光縄が巻き付く。
 そして、間髪入れずに鞭のようにしなり上がり、蒼玉(そうぎょく)から少女を引き剥がした。
「きゃああああ!」
「アカシャ……」
「無茶なことを、チャンドラ。ひとり迎え撃とうとするなど」
 辺り一帯を輝かせるほどの光を帯びた稀鸞(きらん)を前にして、蒼玉(そうぎょく)の体がフルリと震える。
「アカシャの使命を果たさせておくれ」
 慈愛に満ちたその瞳の前で、蒼玉(そうぎょく)はただ(うやうや)しく首を垂れた。
 
※1 シヴァ神マントラ
※2 シヴァ神の別名ハラのマントラ 自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化する
※3 不動明王 小呪
※4 大日如来マントラ 四魔を降伏し六道(りくどう)を解脱し一切凡聖(いっさいぼんしょう)の希願を満足せしむ(四魔…人々を苦しめる四つの魔 六道…輪廻転生する世界)
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