チャンドラの矜持
文字数 2,967文字
膝に頭を乗せたまま眠る鎮 の髪を、蒼玉 は優しくなで続けている。
その寝顔は幼いころの面影を濃く残していて、知らず微笑を浮かべていた蒼玉 だが。
(空気が変わった)
蒼玉 は手を止め顔を上げると、窓の外に目を凝らす。
そして、おもむろに懐の短刀を手に取ると、左手人差し指の先に刃を当てた。
幼げな指先に紅い血球がぷっくりと膨れ上がり、ぽたりと床に落ちていく。
「此方 や月兎 、急急如律令」
「御意」
血雫が落ちた場所から白い耳先がのぞき、たちまち全身を現した白ウサギが、蒼玉 の前に首を垂れた。
『空気が不穏すぎる。様子を見てくるから、その間、鎮 をお願いできる?』
リリン……。
腕輪が小さく鳴ると同時に、鎮 の体が浮き上がる。
蒼玉 と入れ替わってベッドに乗った月兎 の体が、むくりと大きくなった。
「けれど、ビャッコ様はすぐにお気づきになるでしょう。主 がそばにいないことに」
ふかふかの足で鎮 の頭を支えながら、ウサギの赤目が蒼玉 を見つめる。
『とても眠りが深いから、しばらくは起きないと思うけれど』
床に降り立った蒼玉 は膝を曲げて、鎮 の頬に唇を寄せて微笑んだ。
『今よりお前の使命は、天空 と鎮 を守ること』
「かしこまりました」
ぺこりと耳を下げた月兎 は、そのままの姿勢で蒼玉 を意味ありげに見上げる。
「して、主 。万が一の場合、小僧共はいかがいたしますか」
『鎮 の大切な友人ですもの。その身に危険が迫るなら
「力及ばずの場合は許されるでしょうか」
『お前はそんな無能ではないでしょう。特に今は、わたしの血で呼んだのから。美しいわたしの信友 』
「もちろんでございます」
我が意を得たりという顔の月兎 にひとつ微笑みかけてから、腕輪を光らせた蒼玉 は、瞬時に部屋から姿を消していった。
◇
森がざわめき、風が怯 えている。
夜の主 たちも息をひそめ、見つかるまいとして気配を消していた。
(ずいぶんと禍々しい……)
ヴィラの外に立った蒼玉 は、近づく邪気に顔をしかめ、両手の腕輪を高らかに打ち鳴らす。
「オーム・ナマ・シヴァーヤ」※1
光りに包まれた蒼玉 の体が、一直線に夜空へと舞い上がり、湖へと飛び去っていった。
暗い湖の向こうは、鎮 が教えてくれたとおりの「街灯り」がきらめいてる。
夜とは思えないほど光あふれる方向から、重昏 い「ナニカ」の気配が迫ってきていた。
(もう復活した……?アーユスの核にまで凝縮してやったというのに)
――街の気は濃すぎて疲れる――
適当にかわすことに慣れているはずの鎮 ですら、ここに戻ってきたときには愚痴をこぼしていたほどだ。
(餌 には事欠かなかった、ということなのね)
湖の上空にたどりついたのと同時に、生臭い風が吹きつけてくる。
「ほぉほぉ、アグニ・チャンドラよ。相変わらず素晴らしいアーユスだ」
現れた昏 い気の塊 が、蒼玉 の目の前で人の形となった。
「とても永きに渡り地中にいたとは、思えないなあっ」
壮年ではあるが、なおその端正な顔立ちに陰りのない男が太刀を振りかぶる。
「オーム・ハラーヤ・ナマハ!」※2
唱えながら体を翻 して、蒼玉 は腕輪を打ち鳴らした。
「破!」
蒼玉 が腕を一振りすると、その手から放たれた幾筋もの光が一本の光縄に撚 り合わされ、男に向かっていく。
「ウダカの次官である私を攻撃するか!」
男の太刀が襲い来る光縄を断ち切り、風を切って蒼玉 に襲いかかった。
「次官?どなたが?」
冷たい侮蔑 の笑みを浮かべて、蒼玉 は男の太刀を腕輪で受ける。
「すでにあなたのアーユスは闇 となり果てている。汚らわしいっ。村の名を口にしないで!」
「ははっ」
太刀ごしに蒼玉 を凝視する男が、吼 えるように笑い出した。
「はははは!お前が闇堕 ちの英雄を親に持つお前が!」
ギリっと奥歯を噛みしめる蒼玉 の目の前で、男の顔が歪み変化していく。
「お前こそ、こちら側に在るべきモノだろう!!チャンドラ・蒼玉 よ」
膨れ上がった体に青黒い顔。
目ばかりギラギラと光らせてニタニタと笑う男は、もはや人の体は成していない。
「くだらないことを」
襲いかかる闇鬼 の闇刃を軽々とかわして、蒼玉 は懐の短刀を抜いた。
ガキン!
キンっ!!
満月に照らされた湖の上空で、漆黒と白銀の刃が交わる。
「陰のヴィーラのくせに、なんだその攻撃力は!お前はおかしい、おかしいのだよ、チャンドラっ」
「おかしいのはお前よ!」
一歩も引かずに交わるふたりの刃から、舞い散る羽根のように火花が散った。
「っ!」
避けきれず、闇鬼 の太刀によって切られた蒼玉 の黒髪が、はらりと湖面に散っていく。
「はは、さすがのチャンドラもここまでか?十種神宝 を得た私に、勝てようもないからな!」
「闇鬼 が神宝 を使うなど、許されるはずがないわ」
吐き捨てるようにつぶやくと、蒼玉 は素早く内獅子印 を結んだ。
「ノウマク・サンマンダバザラダン・カン!」※1
「ぐ?……う……。はは、ははははは!あーはははは!」
光をまとわせた短刀によって、片腕を深く斬り裂かれたはずなのに。
鬼は傷口から黒い液体を溢 れこぼしながらも、顔を口にして笑っている。
(この余裕はなに?闇鬼 の気配はほかにない。仲間などいないはずなのに)
不気味なその態度に、蒼玉 はすかさず距離をとった。
「ははは、ははははは!チャンドラよ、見ていろ!……此方 や瑠璃 、急急如律令!!」
「まさか、あの子を式に?!……っ!」
闇鬼 の背中がみちみちと割れて、そこから黒い陽炎 のようなモノが、ゆらりと現れる。
かと思えば、それは次第に少女へと姿を変えて、醜悪な闇鬼 から抜け出 でると、いきなり蒼玉 に襲いかかった。
「久しぶりね、チャンドラ。またその顔を見るとは思わなかった」
夜空に浮かぶ少女は、まるで月光の精霊のように儚 く美しい。
「でもね、今日を最後に、二度と会わないから!」
華奢な少女の腕にある漆黒の腕輪がゴゥ!と鳴り、手にした細身の太刀が鞭 のようにしなった。
「そうね、わたしもそう願いたいわ」
漆黒の腕輪から放たれる闇矢も、間髪入れずに襲い来る太刀も。
蒼玉 は縦横無尽に飛びながら避けていく。
「ちょこまかとっ。相変わらず、人とは思えない動きね。……でも、これならどう?!」
立て続けに放たれた闇矢のひとつが、蒼玉 の肩を貫いた。
「ぐっ」
動きを止めた蒼玉 の目前に、青白く光る少女が迫る。
「さあ、もうこれでおしまい」
天女のような顔が酷薄な微笑みを浮かべ、太刀を握り直した。
「死んでちょうだい」
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダト・バン!」※2
湖上に真言 が響き渡るのと同時に、美少女に光縄が巻き付く。
そして、間髪入れずに鞭のようにしなり上がり、蒼玉 から少女を引き剥がした。
「きゃああああ!」
「アカシャ……」
「無茶なことを、チャンドラ。ひとり迎え撃とうとするなど」
辺り一帯を輝かせるほどの光を帯びた稀鸞 を前にして、蒼玉 の体がフルリと震える。
「アカシャの使命を果たさせておくれ」
慈愛に満ちたその瞳の前で、蒼玉 はただ恭 しく首を垂れた。
※1 シヴァ神マントラ
※2 シヴァ神の別名ハラのマントラ 自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化する
※3 不動明王 小呪
※4 大日如来マントラ 四魔を降伏し六道 を解脱し一切凡聖 の希願を満足せしむ(四魔…人々を苦しめる四つの魔 六道…輪廻転生する世界)
その寝顔は幼いころの面影を濃く残していて、知らず微笑を浮かべていた
(空気が変わった)
そして、おもむろに懐の短刀を手に取ると、左手人差し指の先に刃を当てた。
幼げな指先に紅い血球がぷっくりと膨れ上がり、ぽたりと床に落ちていく。
「
「御意」
血雫が落ちた場所から白い耳先がのぞき、たちまち全身を現した白ウサギが、
『空気が不穏すぎる。様子を見てくるから、その間、
リリン……。
腕輪が小さく鳴ると同時に、
「けれど、ビャッコ様はすぐにお気づきになるでしょう。
ふかふかの足で
『とても眠りが深いから、しばらくは起きないと思うけれど』
床に降り立った
『今よりお前の使命は、
「かしこまりました」
ぺこりと耳を下げた
「して、
『
ついでに
』「力及ばずの場合は許されるでしょうか」
『お前はそんな無能ではないでしょう。特に今は、わたしの血で呼んだのから。美しいわたしの
「もちろんでございます」
我が意を得たりという顔の
◇
森がざわめき、風が
夜の
(ずいぶんと禍々しい……)
ヴィラの外に立った
「オーム・ナマ・シヴァーヤ」※1
光りに包まれた
暗い湖の向こうは、
夜とは思えないほど光あふれる方向から、
(もう復活した……?アーユスの核にまで凝縮してやったというのに)
――街の気は濃すぎて疲れる――
適当にかわすことに慣れているはずの
(
湖の上空にたどりついたのと同時に、生臭い風が吹きつけてくる。
「ほぉほぉ、アグニ・チャンドラよ。相変わらず素晴らしいアーユスだ」
現れた
「とても永きに渡り地中にいたとは、思えないなあっ」
壮年ではあるが、なおその端正な顔立ちに陰りのない男が太刀を振りかぶる。
「オーム・ハラーヤ・ナマハ!」※2
唱えながら体を
「破!」
「ウダカの次官である私を攻撃するか!」
男の太刀が襲い来る光縄を断ち切り、風を切って
「次官?どなたが?」
冷たい
「すでにあなたのアーユスは
「ははっ」
太刀ごしに
「はははは!お前が
人の
村を語るか!ギリっと奥歯を噛みしめる
「お前こそ、こちら側に在るべきモノだろう!!チャンドラ・
膨れ上がった体に青黒い顔。
目ばかりギラギラと光らせてニタニタと笑う男は、もはや人の体は成していない。
「くだらないことを」
襲いかかる
ガキン!
キンっ!!
満月に照らされた湖の上空で、漆黒と白銀の刃が交わる。
「陰のヴィーラのくせに、なんだその攻撃力は!お前はおかしい、おかしいのだよ、チャンドラっ」
「おかしいのはお前よ!」
一歩も引かずに交わるふたりの刃から、舞い散る羽根のように火花が散った。
「っ!」
避けきれず、
「はは、さすがのチャンドラもここまでか?
「
吐き捨てるようにつぶやくと、
「ノウマク・サンマンダバザラダン・カン!」※1
「ぐ?……う……。はは、ははははは!あーはははは!」
光をまとわせた短刀によって、片腕を深く斬り裂かれたはずなのに。
鬼は傷口から黒い液体を
(この余裕はなに?
不気味なその態度に、
「ははは、ははははは!チャンドラよ、見ていろ!……
「まさか、あの子を式に?!……っ!」
かと思えば、それは次第に少女へと姿を変えて、醜悪な
「久しぶりね、チャンドラ。またその顔を見るとは思わなかった」
夜空に浮かぶ少女は、まるで月光の精霊のように
「でもね、今日を最後に、二度と会わないから!」
華奢な少女の腕にある漆黒の腕輪がゴゥ!と鳴り、手にした細身の太刀が
「そうね、わたしもそう願いたいわ」
漆黒の腕輪から放たれる闇矢も、間髪入れずに襲い来る太刀も。
「ちょこまかとっ。相変わらず、人とは思えない動きね。……でも、これならどう?!」
立て続けに放たれた闇矢のひとつが、
「ぐっ」
動きを止めた
「さあ、もうこれでおしまい」
天女のような顔が酷薄な微笑みを浮かべ、太刀を握り直した。
「死んでちょうだい」
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダト・バン!」※2
湖上に
そして、間髪入れずに鞭のようにしなり上がり、
「きゃああああ!」
「アカシャ……」
「無茶なことを、チャンドラ。ひとり迎え撃とうとするなど」
辺り一帯を輝かせるほどの光を帯びた
「アカシャの使命を果たさせておくれ」
慈愛に満ちたその瞳の前で、
※1 シヴァ神マントラ
※2 シヴァ神の別名ハラのマントラ 自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化する
※3 不動明王 小呪
※4 大日如来マントラ 四魔を降伏し