大阪哀歌(エレジー)-2-
文字数 3,249文字
その日以来、気がつけば煌 は秋鹿 の姿を探していた。
だが、コンタクトを一緒に探したことなど、まるでなかったかのように。
目が合ったと思ってもふぃとそらされることが多いし、第一、校内で彼の姿を見かけること自体が大変レアだった。
(今日は挨拶してもらえたな)
「おい、夏苅 っ。置いてくぞ!」
返された目礼が嬉しくて、ホクホクしていた煌 に例の上級生が怒鳴る。
「グズグズすんなっ」
「あ、はい!」
乱暴な声に慌てて返事をして、もう一度振り返ったときには、秋鹿 の姿はどこにもない。
(え、一本道やのに。……相変わらず不思議なヒトやな)
首を捻 りながら、煌 は急いで仲間たちの背中を追った。
◇
梅雨入り宣言がされたその日。
学校から帰った煌 は、母屋向こうの店内が慌ただしい雰囲気に包まれていることに気づいた。
「ただいま帰りました」
暖簾 を掲げて煌 が顔を出すと、いつもは店頭に顔を出すことのないベテランの和菓子職人が、腕を組んで難しい顔をしている。
「ああ、ぼん!お帰り」
「あの、”ぼん”はやめてください」
目じりのしわも深く笑いかけてくる職人に、煌 の眉が八の字に下がった。
「なに言うてるんや。ぼんはぼんやろが」
店の中に入ってきた煌 の頭を大きな手が乱暴になでる横で、パートの女性が慌ただしく電話を切る。
「少し遅れるって連絡したけど、どないしよう」
「おかみさん、小一時間で戻るとは言うとったけどなぁ」
「どないしたん?杉野さんも岸本さんも」
煌 に負けないほど、眉毛を八の字に下げたパートの女性、杉野がため息をつく。
「今日、水曜やろ。お茶のお師匠さんのところに、お菓子を届けに行かなあかんのやけどな。ふみちゃんとこの次男坊が熱出したって、保育園から連絡が来て」
言われて店内を見渡せば、もうひとりのパートさんの姿が見えない。
「燎 ちゃん、今日は学校から直接塾やしなあ」
「こういうときに限って商店会の会合なんて、運があれへんなあ。どーせ、おかみさんの顔見たいだけの、古株が呼んだに決まってんねん」
「ゆりさん、人気者やから」
「そうそう。こないだだって、あの乾物屋のご隠居さんが」
「あの~、配達やんな。ボクが行こか?」
「え、煌 ちゃんが?でも、今日道場は?」
心配顔の杉野に、煌 はフルフルと首を横に振る。
「今日、先生が高校の出張指導とかで、休みなんやで」
「ほんま?頼んでもええ?」
「ええで。神社の近くのとこやろう?先月も行ったやん」
「そういうたら、そうやったね。お願いできる?」
「帰ってきたばっかなのに、すまんな、ぼん。おおきに」
学ランのまま荷物を受け取った煌 に、職人岸本が破顔した。
「かまへんって。役に立てて嬉しいし」
「煌 ちゃん!雨降りそうやから、傘持っていきなさい」
「はーい。ほな行ってきます!」
手渡された傘を片手に、さっそうと煌 は出ていく。
「……あないに小さいのに、気ばっかりつこて」
「ほんまに健気な子ぉやで。もう少し子供らしゅうてもええのに、我がままひとつ言わんといて」
杉野と岸本は目を見合わせため息を漏らし、それぞれの仕事へと戻っていった。
目的の家までは、徒歩でも15分ほど。
途中降り出した雨に傘を広げ、ちりめん風呂敷に包まれた漆塗りの重箱を胸に抱 え、煌 は慎重に歩く。
職人岸本と夏苅 の伯父、今では養父が、ひとつひとつ丁寧に作り上げた商売品だ。
万が一にも粗雑には扱えない。
養父には多大な恩を感じている。
「おとうちゃん」と呼ぶことにも慣れはした。
だが、サイズの合わない服を無理やり着ているような違和感が、どうしてもいまだに拭 えない。
最後に
そろそろ金の無心に来る頃合いだ。
自分という存在が、また迷惑をかけてしまう。
そんな不安が、いつまでたっても消えないのだ。
「あっ、すんまへん!」
考え事が過ぎたようで、前から来た人影にドンっと思い切り肩をぶつけてしまう。
「いったいなあ」
顔を上げようとして、聞き慣れた尖った声に体が固まった。
(え)
煌 がビクリと顔を上げると。
「あ……、先輩。……こんにちは」
「こんにちは、やないわ!どこに目ぇつけて歩いてんねん!」
剣道場でも学校でも。
大人の目がなくなったとたんに絡 んでくる、煌 をにらんでいた。
「おかげで濡れてもうたやんけ!どないしてくれるんや!」
「あの、ほんまにかんにん」
「お前なぁ、最近イキってるんちゃうんか!ちょっと先生にヒイキされとるからって!」
ドスッ、ドス!!
力任せのどつきに煌 の足元が揺れる。
しつこいと思うものの、煌 は風呂敷包みをかばいながら耐えるしかない。
「もらわれっ子が店の手伝いしてるんか。可哀そうやなぁ。お仕事せんと、家に置いてもらえへんねんな」
(言い返したらあかん)
煌 は唇を噛みしめ、うつむき堪えた。
「黙っとらんと、何か言えや!」
「うわっ」
両手で突き飛ばされた煌 の手から、はじけ飛んだ傘が電柱にぶつかり、道路に落ちて転がる。
(荷物が濡れてまう!)
傘を拾おうとした煌 の横腹を、さらに上級生が蹴り飛ばした。
ばしゃり!
派手な水音を立てて。
道路に溜まり始めていた雨水のなかに、煌 は勢いよく尻もちをついてしまった。
(立ち上がらな、早よ……)
商品を守らなければと焦るが、目の前の上級生から肩に足を乗せられて、煌 は体を起こすことさえできない。
「あ~、気の毒になあ。どこにお使いに行くのか知れへんけど、そんな菓子、売り物になれへんよなぁ」
煌 が顔を上げると、ひどく歪んだ上級生の目が見下ろしていた。
「なんやねん、その生意気な顔!おまえのとこみたいな弱小和菓子屋、うちがつこてやれへんかったら、すぐにつぶれるんやさかいな!」
煌 を狙いすますように、上級生が足を上げる。
ガスっ!
「いってぇ!」
煌 を蹴ろうとしていた足を打ち払い遠ざけたのは、たたまれた傘だった。
「……は?おまえ、なんでこんなとこに……」
「ほら、立て」
面食らっている上級生の目の前でその傘が開いて、煌 に差しかけられる。
「……秋鹿 、センパイ……」
呆然としながら、煌 は差し出された手を取って立ち上がった。
「待ってるから行こう」
まるで、ほかには誰もいないかのように。
秋鹿 は煌 の手を取ったまま歩き出した。
「あ、俺の傘」
「骨が折れてしまっているけれど……。捨てていくわけにはいかないか」
「うん、せっかく買うてもうたものやさかい」
「……そう。取っておいで」
骨のひしゃげた傘を、それでも大事そうに拾ってから、煌 は秋鹿 の隣に並ぶ。
「待てや、秋鹿 っ」
背中から浴びせられた怒鳴り声に、秋鹿 が足を止めた。
「どういうつもりや」
秋鹿 を追いかけた上級生が、その肩をつかんで強引に振り向かせる。
「どういうって?」
「謝りもせえへんで行くつもりかっ」
「なんで謝らないといけないんだ?」
「傘でぶっ叩いたやろが!」
「さそうとした傘を、お前が勝手に蹴ったんだ。それに謝れというなら、夏苅 を転ばせたお前が先だろう」
「勝手に転んだんや!」
「蹴り飛ばしておいて?」
「おまえインケンやなぁ。どこで見とったんや?せやけどな、見とっただけやったら、証拠にはなれへんさかいな!おまえが嘘ついてへん証拠はあれへんもんなっ」
「証拠……。じゃあ、俺がお前を“ぶっ叩いた”証拠は?」
「!」
悔しそうに口を閉じて、上級生は秋鹿 と煌 をにらみつけた。
「……覚えとけよ、夏刈 。うちに入れてる和菓子、考え直すように親に言うとくさかい」
捨て台詞を吐くと、上級生はくるりと背を向けて去っていく。
「……どないしよう……」
肩を震わせうつむく煌 の背中に、秋鹿 の手がそっと添えられた。
「大丈夫。悪いようにはならない。とりあえず、そのお菓子を届けよう」
なぜ秋鹿 はこんなところにいるのだろう。
そして、煌 の事情を全部知っているようなこの物言いは、どういうことだろう。
疑問は多々あったが。
不安に胸が潰れそうな煌 はそれ以上口もきけず、骨の曲がったままの傘をさして、とぼとぼと歩き出した。
だが、コンタクトを一緒に探したことなど、まるでなかったかのように。
目が合ったと思ってもふぃとそらされることが多いし、第一、校内で彼の姿を見かけること自体が大変レアだった。
(今日は挨拶してもらえたな)
「おい、
返された目礼が嬉しくて、ホクホクしていた
「グズグズすんなっ」
「あ、はい!」
乱暴な声に慌てて返事をして、もう一度振り返ったときには、
(え、一本道やのに。……相変わらず不思議なヒトやな)
首を
◇
梅雨入り宣言がされたその日。
学校から帰った
「ただいま帰りました」
「ああ、ぼん!お帰り」
「あの、”ぼん”はやめてください」
目じりのしわも深く笑いかけてくる職人に、
「なに言うてるんや。ぼんはぼんやろが」
店の中に入ってきた
「少し遅れるって連絡したけど、どないしよう」
「おかみさん、小一時間で戻るとは言うとったけどなぁ」
「どないしたん?杉野さんも岸本さんも」
「今日、水曜やろ。お茶のお師匠さんのところに、お菓子を届けに行かなあかんのやけどな。ふみちゃんとこの次男坊が熱出したって、保育園から連絡が来て」
言われて店内を見渡せば、もうひとりのパートさんの姿が見えない。
「
「こういうときに限って商店会の会合なんて、運があれへんなあ。どーせ、おかみさんの顔見たいだけの、古株が呼んだに決まってんねん」
「ゆりさん、人気者やから」
「そうそう。こないだだって、あの乾物屋のご隠居さんが」
「あの~、配達やんな。ボクが行こか?」
「え、
心配顔の杉野に、
「今日、先生が高校の出張指導とかで、休みなんやで」
「ほんま?頼んでもええ?」
「ええで。神社の近くのとこやろう?先月も行ったやん」
「そういうたら、そうやったね。お願いできる?」
「帰ってきたばっかなのに、すまんな、ぼん。おおきに」
学ランのまま荷物を受け取った
「かまへんって。役に立てて嬉しいし」
「
「はーい。ほな行ってきます!」
手渡された傘を片手に、さっそうと
「……あないに小さいのに、気ばっかりつこて」
「ほんまに健気な子ぉやで。もう少し子供らしゅうてもええのに、我がままひとつ言わんといて」
杉野と岸本は目を見合わせため息を漏らし、それぞれの仕事へと戻っていった。
目的の家までは、徒歩でも15分ほど。
途中降り出した雨に傘を広げ、ちりめん風呂敷に包まれた漆塗りの重箱を胸に
職人岸本と
万が一にも粗雑には扱えない。
養父には多大な恩を感じている。
「おとうちゃん」と呼ぶことにも慣れはした。
だが、サイズの合わない服を無理やり着ているような違和感が、どうしてもいまだに
最後に
アイツ
が来てから半年ほど経つ。そろそろ金の無心に来る頃合いだ。
自分という存在が、また迷惑をかけてしまう。
そんな不安が、いつまでたっても消えないのだ。
「あっ、すんまへん!」
考え事が過ぎたようで、前から来た人影にドンっと思い切り肩をぶつけてしまう。
「いったいなあ」
顔を上げようとして、聞き慣れた尖った声に体が固まった。
(え)
「あ……、先輩。……こんにちは」
「こんにちは、やないわ!どこに目ぇつけて歩いてんねん!」
剣道場でも学校でも。
大人の目がなくなったとたんに
あの上級生
が傘越しに「おかげで濡れてもうたやんけ!どないしてくれるんや!」
「あの、ほんまにかんにん」
「お前なぁ、最近イキってるんちゃうんか!ちょっと先生にヒイキされとるからって!」
ドスッ、ドス!!
力任せのどつきに
しつこいと思うものの、
「もらわれっ子が店の手伝いしてるんか。可哀そうやなぁ。お仕事せんと、家に置いてもらえへんねんな」
(言い返したらあかん)
「黙っとらんと、何か言えや!」
「うわっ」
両手で突き飛ばされた
(荷物が濡れてまう!)
傘を拾おうとした
ばしゃり!
派手な水音を立てて。
道路に溜まり始めていた雨水のなかに、
(立ち上がらな、早よ……)
商品を守らなければと焦るが、目の前の上級生から肩に足を乗せられて、
「あ~、気の毒になあ。どこにお使いに行くのか知れへんけど、そんな菓子、売り物になれへんよなぁ」
「なんやねん、その生意気な顔!おまえのとこみたいな弱小和菓子屋、うちがつこてやれへんかったら、すぐにつぶれるんやさかいな!」
ガスっ!
「いってぇ!」
「……は?おまえ、なんでこんなとこに……」
「ほら、立て」
面食らっている上級生の目の前でその傘が開いて、
「……
呆然としながら、
「待ってるから行こう」
まるで、ほかには誰もいないかのように。
「あ、俺の傘」
「骨が折れてしまっているけれど……。捨てていくわけにはいかないか」
「うん、せっかく買うてもうたものやさかい」
「……そう。取っておいで」
骨のひしゃげた傘を、それでも大事そうに拾ってから、
「待てや、
背中から浴びせられた怒鳴り声に、
「どういうつもりや」
「どういうって?」
「謝りもせえへんで行くつもりかっ」
「なんで謝らないといけないんだ?」
「傘でぶっ叩いたやろが!」
「さそうとした傘を、お前が勝手に蹴ったんだ。それに謝れというなら、
「勝手に転んだんや!」
「蹴り飛ばしておいて?」
「おまえインケンやなぁ。どこで見とったんや?せやけどな、見とっただけやったら、証拠にはなれへんさかいな!おまえが嘘ついてへん証拠はあれへんもんなっ」
「証拠……。じゃあ、俺がお前を“ぶっ叩いた”証拠は?」
「!」
悔しそうに口を閉じて、上級生は
「……覚えとけよ、
捨て台詞を吐くと、上級生はくるりと背を向けて去っていく。
「……どないしよう……」
肩を震わせうつむく
「大丈夫。悪いようにはならない。とりあえず、そのお菓子を届けよう」
なぜ
そして、
疑問は多々あったが。
不安に胸が潰れそうな