稀人(まれびと)-3-
文字数 3,257文字
木々が生い茂る道なき崖を、鎮 は飛ぶように下りていく。
つかまりやすい枝。
足場になる岩。
子供のころからさんざん通って、すべて体が覚えている。
目をつぶっていても、転げ落ちずに湖岸までたどり着く自信があった。
下りた先のこじんまりとした湖岸の端には、湖に垂直に落ち込む急斜面の森が迫っている。
そこには、覆いかぶさるように生えた木々の枝に隠されて、ひっそりと存在する洞窟があった。
最近ではなかなか訪れることができなかったけれど。
子供のころにはしょっちゅう逃げ込んで、体を丸くしてやり過ごしていた。
そうしているうちに、いつの間にか「追ってくるモノ」が消えていたから。
人であろうと、
いつも「あの人」が鎮 を助けてくれたから。
「あの人」はいつだって寄り添い、慰めてくれたから。
瘴気 を放つ水柱は、その大切な洞窟の近くから上がっていた。
(急がないと!)
こんな日が来ることを、鎮 はわかっていたような気がする。
だから、そのためにずっと技を磨いてきたのだ。
「わ、ちょ、秋鹿 さん、相変わらずはやっ」
鎮 のための岩場や支えの枝は、ガタイのいい煌 には心許ないらしい。
煌 は途中で足を使うことを諦めたようで、尻で滑りながら落ちていった。
「いっってぇ!……くぅ~」
砂利 やら小石やらに突っ込んだ派手な音と、煌 の呻 き声が聞こえてくる。
そして。
「な、なんやねん、アレ……」
鎮 が湖岸に到着してみると、尻もちをついた煌 が、そのままの格好で、じりじりと後ずさりをしていた。
黒い……。
水柱 ではなく、霧柱 とでも言えばいいのか。
湖から黒い蒸気のようなモノがゆらゆらと立ち昇り、あの”キラン”と名乗った男性の体全体を包みんでいる。
霧柱からは何本もの枝のような、触手のようなモノが伸びて、キランの首を締めあげていた。
「ぐ……、くぅ……」
「オノレ……オノレ……。ザマアミロ。反撃デキヌダロウ。タリヌダロウ……」
唸 る霧柱に巻き付かれた、キランの指先の動きが間遠くなっていく。
(!)
呆然と見守っていた鎮 の頭のなかで、突然、何かが弾けた。
声ではなく、ただ
『わたしを呼んで!』
切羽詰まったその鎮 はすぐに理解した。
振り返ると、あの洞窟の中で小さな灯りの明滅が見える。
吸い寄せられるように鎮 の足が動き、洞の入り口にたどり着いたときにはもう、自分が何をやればいいのかを理解していた。
鎮 はかつて教えられたとおり、右手の親指と薬指で丸を作った印を結ぶ。※1
「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ」※2
唱えるうちに、大地の鳴動が足裏に伝わってきた。
「シネっ、キラン!」
霧柱の強烈な殺意が、炎のような熱量で鎮 の背中を焦がす。
「オン・キリキリ・バサラ・ウン・ハッタ!」※3
洞の燈火 が輝きを増したかと思うと、巨大な光球となって、入り口の岩を砕きながら飛び出していった。
「ぎゃああああああああ」
光球に体当たりを食らった霧柱全体から叫び声が上がり、キランを締めていた触手が縮んでいく。
ぐったりとしたキランが真っ逆さまに湖へと落下するのと同時に、霧柱を突き抜けた光球が、素早く反転してその体を受け止めた。
光球を見守る鎮 の背後でがさがさと物音がして、湖岸に降り立つふたり分の足音がする。
「エ、ナニ、アレ?」
「……煌 、アレなんだよ」
「知らんよっ」
「知らないってなんだよっ」
「知れへんものは知れへんって!」
片言 になった槐 と、もめる渉 と煌 の目の前で。
光球はまっすぐに鎮 の元へと向かってきた。
四人が目で追う光は、次第に両腕でキランを抱えた人の形になる。
「ひ、ヒト?ユーレイ?!ま、マモル、にげ、逃げよっ」
声を震わせて一歩下がった槐 の足元で、砂利が派手な音を立てた。
だが。
微笑を浮かべた鎮 は当然のような顔をして、人型となった光球へと両腕を差し伸べている。
『!!!!!』
光球が腕の中に飛び込んでくるのと同時に、鎮 の全身をしびれるような
音声としての「言葉」ではないが、何を伝えたいのかは、はっきりとわかる。
それはずっと前から交わして続けてきた、「想いの言葉」だから。
光球の人はキランを空中に浮かべたまま、鎮 の腕にすがりついた。
『あなたの力を分けて』
頭に直接響く、光球の願い。
子供のころから、ずっと自分を包んでくれていた
(分ける?でも、どうやって?)
鎮 が心の中で問いかけると、光球は空中に浮かぶキランごと鎮 を抱きしめた。
熱くて優しくて。
鮮烈で恭 しい。
そんな波動が体中を駆け巡っていく。
探りを入れられるように、作り替えられるように侵入してきた、キランのものとは違う。
願いながら、敬いながら。
鎮 の内なる”何か”を集め取っていく。
『火 ・天空 !アーユス受け給え!』※1
光球の人が鎮 の”何か”を流し込み続けて、しばらくすると。
キランの目がうっすらと開いていく。
『ああ、お前は……。そうか、ともにいてくれたのか』
ゆっくりと体を起こしたキランが、その足で湖岸を踏みしめた。
『行こう、月 』
声に出さないキランの思考が、鎮 の頭にも流れてくる。
そして、光球のふたりは大地を蹴ったかと思うと、湖岸へ向かってぐにゃぐにゃと、醜悪に凶悪に迫ってきている霧柱に向かって飛び去っていった。
空中で向かい合った光球から、炎のような、また鈴を振るような唱えが聞こえてくる。
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダト・バン!」※5
「オーム・ハラーヤ・ナマハ!」※6
同時に放たれた二本の矢のような光が、暗黒の霧柱に突き刺さった。
二本の光矢は瞬時に形を変えて、蔦 が絡まるように霧柱に巻き付いていく。
「ぐぅぅぅぅ、ぎやあああああああ」
ぬったりと、のたうつような呻 き声をあげながら、霧柱が身をよじる。
「オノレオノレオノレオノレ……。…オマエはチャンドラか……。オノレまだソノ身をタモツ……トハ……」
霧柱が薄く細くなり、最後はビー玉ほどの黒点に凝縮したかと思うと、流れ星のように湖の向こうへと消えていった。
理解できない現象の連続に、若者たちはただ棒立ちで空を見上げることしかできない。
「あ……」
槐 の目の端で、キランがまとう光が急速に失われていく。
(落ちる……!)
キランに危険が迫っていることはわかるが、どうすることもできない。
槐 はただ息を飲んで見守るばかりだったが。
「え、あれって……」
燃え尽きた線香花火のように落下するキランに、もうひとつの光球が追いつく。
そして、その体を空中で難なく受け止めると、その姿が露わになっていった。
「女の子、だ」
槐 がつぶやくその間に、キランを抱えた少女が湖岸に降り立ち、鎮 の足元にキランを横たえる。
「え」
「はぁっ?」
「……ウっソやろ」
槐 と渉 、そして、煌 が声を上げたのも無理はない。
片膝をついた少女の頭に、鎮 がためらいなく片手を乗せて、微笑んだのだから。
他人との接触を極端に嫌う鎮 が。
感情の振れ幅が狭く、ほぼ仏頂面でいる鎮 が。
「……笑ってる」
浅緋 の着物を着ている少女と同じくらい、見慣れた友人が不思議な存在に感じられて。
三人は度肝を抜かれて、しばし呼吸すら忘れていた。
あんな顔は見たことがない。
あれは、よく知っているはずの鎮 だろうか。
声も出せずにいる三人の目の前で、少女と鎮 は、懐かしそうなまなざしを交わし合っていた。
※1軍荼利明王 の咒 、三鈷印 親指と薬指を丸くして、ほかの三指は立てる
※2軍荼利明王 マントラ 「聖なる軍荼利明王よ」
※3軍荼利明王 マントラ続き 「浄めて下さい 砕いて下さい」
※4 サンスクリット語
火=アグニ、天空=アカシャ 月=チャンドラ
アーユス=命
※5 大日如来の光明マントラ
すべての災難が消滅するといわれ、加持祈祷を業とする密教僧の多くが唱えることでも知られています
※6 シヴァ神の別名「ハラ」のマントラ
自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化するためのマントラ
つかまりやすい枝。
足場になる岩。
子供のころからさんざん通って、すべて体が覚えている。
目をつぶっていても、転げ落ちずに湖岸までたどり着く自信があった。
下りた先のこじんまりとした湖岸の端には、湖に垂直に落ち込む急斜面の森が迫っている。
そこには、覆いかぶさるように生えた木々の枝に隠されて、ひっそりと存在する洞窟があった。
最近ではなかなか訪れることができなかったけれど。
子供のころにはしょっちゅう逃げ込んで、体を丸くしてやり過ごしていた。
そうしているうちに、いつの間にか「追ってくるモノ」が消えていたから。
人であろうと、
アレ
であろうと。いつも「あの人」が
「あの人」はいつだって寄り添い、慰めてくれたから。
(急がないと!)
こんな日が来ることを、
だから、そのためにずっと技を磨いてきたのだ。
「わ、ちょ、
「いっってぇ!……くぅ~」
そして。
「な、なんやねん、アレ……」
黒い……。
湖から黒い蒸気のようなモノがゆらゆらと立ち昇り、あの”キラン”と名乗った男性の体全体を包みんでいる。
霧柱からは何本もの枝のような、触手のようなモノが伸びて、キランの首を締めあげていた。
「ぐ……、くぅ……」
「オノレ……オノレ……。ザマアミロ。反撃デキヌダロウ。タリヌダロウ……」
(!)
呆然と見守っていた
声ではなく、ただ
想い
が巡っていく。『わたしを呼んで!』
切羽詰まったその
想い
を、振り返ると、あの洞窟の中で小さな灯りの明滅が見える。
吸い寄せられるように
「オン・アミリテイ・ウン・ハッタ」※2
唱えるうちに、大地の鳴動が足裏に伝わってきた。
「シネっ、キラン!」
霧柱の強烈な殺意が、炎のような熱量で
「オン・キリキリ・バサラ・ウン・ハッタ!」※3
洞の
「ぎゃああああああああ」
光球に体当たりを食らった霧柱全体から叫び声が上がり、キランを締めていた触手が縮んでいく。
ぐったりとしたキランが真っ逆さまに湖へと落下するのと同時に、霧柱を突き抜けた光球が、素早く反転してその体を受け止めた。
光球を見守る
「エ、ナニ、アレ?」
「……
「知らんよっ」
「知らないってなんだよっ」
「知れへんものは知れへんって!」
光球はまっすぐに
四人が目で追う光は、次第に両腕でキランを抱えた人の形になる。
「ひ、ヒト?ユーレイ?!ま、マモル、にげ、逃げよっ」
声を震わせて一歩下がった
だが。
微笑を浮かべた
『!!!!!』
光球が腕の中に飛び込んでくるのと同時に、
想い
が駆け抜けていった。音声としての「言葉」ではないが、何を伝えたいのかは、はっきりとわかる。
それはずっと前から交わして続けてきた、「想いの言葉」だから。
光球の人はキランを空中に浮かべたまま、
『あなたの力を分けて』
頭に直接響く、光球の願い。
子供のころから、ずっと自分を包んでくれていた
想い
と同じもの。(分ける?でも、どうやって?)
熱くて優しくて。
鮮烈で
そんな波動が体中を駆け巡っていく。
探りを入れられるように、作り替えられるように侵入してきた、キランのものとは違う。
願いながら、敬いながら。
『
光球の人が
キランの目がうっすらと開いていく。
『ああ、お前は……。そうか、ともにいてくれたのか』
ゆっくりと体を起こしたキランが、その足で湖岸を踏みしめた。
『行こう、
声に出さないキランの思考が、
そして、光球のふたりは大地を蹴ったかと思うと、湖岸へ向かってぐにゃぐにゃと、醜悪に凶悪に迫ってきている霧柱に向かって飛び去っていった。
空中で向かい合った光球から、炎のような、また鈴を振るような唱えが聞こえてくる。
「オン・アビラウンケン・バサラ・ダト・バン!」※5
「オーム・ハラーヤ・ナマハ!」※6
同時に放たれた二本の矢のような光が、暗黒の霧柱に突き刺さった。
二本の光矢は瞬時に形を変えて、
「ぐぅぅぅぅ、ぎやあああああああ」
ぬったりと、のたうつような
「オノレオノレオノレオノレ……。…オマエはチャンドラか……。オノレまだソノ身をタモツ……トハ……」
霧柱が薄く細くなり、最後はビー玉ほどの黒点に凝縮したかと思うと、流れ星のように湖の向こうへと消えていった。
理解できない現象の連続に、若者たちはただ棒立ちで空を見上げることしかできない。
「あ……」
(落ちる……!)
キランに危険が迫っていることはわかるが、どうすることもできない。
「え、あれって……」
燃え尽きた線香花火のように落下するキランに、もうひとつの光球が追いつく。
そして、その体を空中で難なく受け止めると、その姿が露わになっていった。
「女の子、だ」
「え」
「はぁっ?」
「……ウっソやろ」
片膝をついた少女の頭に、
他人との接触を極端に嫌う
あの
感情の振れ幅が狭く、ほぼ仏頂面でいる
あの
「……笑ってる」
三人は度肝を抜かれて、しばし呼吸すら忘れていた。
あんな顔は見たことがない。
あれは、よく知っているはずの
声も出せずにいる三人の目の前で、少女と
※1
※2
※3
※4 サンスクリット語
火=アグニ、天空=アカシャ 月=チャンドラ
アーユス=命
※5 大日如来の光明マントラ
すべての災難が消滅するといわれ、加持祈祷を業とする密教僧の多くが唱えることでも知られています
※6 シヴァ神の別名「ハラ」のマントラ
自身の内外に潜む悪の性質を破壊し、罪を浄化するためのマントラ