因果応報-2-
文字数 2,214文字
さっき打ち付けた背中が熱い。
痛みはなく、ただ熱かった。
さんざん蹴られ殴られている体も、痛くもなんともない。
それどころか、試合前のように神経が研ぎ澄まされていた。
今まで、目にするだけで恐怖だった男なのに。
頭の中心がしんと冷えて、何か別のモノの目を通しているかのように、景色が冴え渡って見えた。
目の前にいる男はガリガリに痩せて、顔色も青白く、くすんでいる。
まだ30代前半のはずだが、粉を吹くほど乾燥した肌には深いシワが刻まれていた。
よく見れば、着ているスーツもよれよれでシワだらけ。
袖口などは擦り切れ、色あせている。
みすぼらしくて、みじめったらしい。
こんな男の、何が怖かったんだろう。
へそ下辺りにじりじりとした熱を感じながら、煌 は思い切り男に飛びかかった。
「うおっ?」
予想もできなかった俊敏なその動きに、今度は避 ける暇もなく、男はどてん!と勢いよく道路に倒れる。
「っう……」
後頭部を思い切り打ちつけ、身をよじらせ転がる男の腹に馬乗りになった煌 が、その襟首を軽々持ち上げた。
「クサレ、ガキ、がっ……」
男は煌 を振り落とそうとするが、なぜかその小柄な体はびくともしない。
「ごふっ!」
男の鼻っ面に、煌 の拳が叩きつけられた。
「いっ、あちっ、あちぃ!!」
じゅぅと小さな音がして、めり込んだ煌 の拳 から、微かに湯気が立ちのぼる。
「オマエなんか……。オマエなんか、死んだら、」
さらに拳を振り上げた煌 の頭に、低い
『飲み込まれるな、煌 。……約束したろう』
いきなり手首をつかまれて目を上げると、いつの間にか隣に立っていた秋鹿 が、静かに男を見下ろしている。
――どんなに強い怒りを感じたとしても、我を忘れてはいけない――
(そうやった。約束した……)
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」※1
煌 の耳に秋鹿 のつぶやきが届くと、何かが詰まっていたような胸が、急に軽くなった。
だが、今の今まで、約束もろとも秋鹿 の存在を忘れていたし、気配さえ感じなかったのに。
(……このヒト、どこにいたんやろ)
「止めんといてあげてっ!」
秋鹿 を見上げたまま固まる煌 の背中で、金切声が響いた。
「そいつはねえ、しばかれるだけじゃ足れへん男やねん!あんときだって、ちっちゃい煌 ちゃん抱えた薫 さんをっ、……!」
振り返った煌 と目が合った杉野が息を飲む。
「あんときって?」
「あーっ、どっかで見たことある思うとったわ!……くそっ、どうなってるんやっ」
腹の上の煌 を振り落とそうとする男がじたばたともがくが、跨 るその小柄な体は、岩のように動かない。
「どけや、クソガキっ。くそ、くそっ!……そういうたら、なぁ」
男は標的を変えて、寝そべったまま首をぐいとそらせて杉野をねめつけた。
「誰や思うとったら、隣に住んどった、おせっかいババアやないか!年とって、よりババアらしゅうなっとったから、気ぃつけへんかったで。ただのフーフゲンカにケーサツなんか呼んだりして、ほんまに迷惑したでっ。オマエんとこの娘、また夜道で襲うたろか!」
「やっぱりアンタが……」
「……杉野さん」
傍 から見てもわかるほど震え出したその肩を、駆け寄った燎 がぎゅっと抱きしめる。
「杉野さん、アイツと前からの知り合いやったの?」
「薫 さん、かんにんなぁ。アタシがあんとき、怖がらんと警察を呼んどったら……」
顔を両手で覆って、深く体を折った杉野の声が震えていた。
「立って」
泣きじゃくる杉野を呆然と見つめる煌 が、秋鹿 に手を引かれるまま立ち上がる。
「クソが!」
煌 が立ち上がるのと同時に体を起こした男が、破れ鐘のような声で怒鳴った。
「ええ度胸しとるのぉ、ワレぇっ!」
(え、なんで?)
腕を振り上げた男から秋鹿 をかばうために。
前に出ようとした煌 だが、その足は道路に張り付いたように動かない。
意識ははっきりしているのに、まるで金縛りにでもあっているかのようだ。
秋鹿 は煌 の肩に手をのせ、そのまま後ろに押し出すようにする。
「大丈夫だ」
「なにが?」
煌 の問いには答えないまま。
秋鹿 はデニムのポケットから、
「繋縛 、急急如律令!」
今まさに煌 を殴ろうとしてた腕に、投げ放たれた一枚の半紙がしゅるりと巻きついた。
「高天原 天津祝詞 の太祝詞 持 ちかが呑 むでむ 祓 ひ賜 ひ清 め賜 ふ!」※2
さらに秋鹿 の手から離れた半紙が三枚。
小鳥が羽ばたくような軽い音を立てて、男の両目と口にペタリ、ペタリと張り付いた。
続いて打ち合わされた秋鹿 の両手が、パン!と冴えた音を響かせる。
「天清浄 地清浄 内外清浄 六根清浄 心性 清浄 にして 諸々 の汚穢 不浄 なし 我身 は六根 清浄 なるが故 に天地 の神と同体 なり 諸々 の法は影 の像 に随 うが如 く為 す処 行 う処 清 く浄 ければ所願 成就 福寿 窮 りなし 最尊 無上 の霊宝 吾 今具足 して意 清浄 なり」※3
早口でいてクリアな秋鹿が の唱えが進むごとに、男の膝からはふよふよと力が抜けていった。
「怒りに身を任せては駄目だ。自分に理不尽を働く相手と同じモノになるな。自らの魂を汚すな」
そう言いながら、秋鹿 はシャツの首に手を入れると勾玉を取り出して、唇を寄せる。
「力を貸して」
言い終わるのと同時に秋鹿 の顔つきが、醸し出す雰囲気が、がらりと変わっていった。
※1 毘沙門天マントラ エネルギー、勇気と行動力を与え 邪気を払いのける
※2最上祓 大祓詞の簡略版
※3清浄祓
痛みはなく、ただ熱かった。
さんざん蹴られ殴られている体も、痛くもなんともない。
それどころか、試合前のように神経が研ぎ澄まされていた。
今まで、目にするだけで恐怖だった男なのに。
頭の中心がしんと冷えて、何か別のモノの目を通しているかのように、景色が冴え渡って見えた。
目の前にいる男はガリガリに痩せて、顔色も青白く、くすんでいる。
まだ30代前半のはずだが、粉を吹くほど乾燥した肌には深いシワが刻まれていた。
よく見れば、着ているスーツもよれよれでシワだらけ。
袖口などは擦り切れ、色あせている。
みすぼらしくて、みじめったらしい。
こんな男の、何が怖かったんだろう。
へそ下辺りにじりじりとした熱を感じながら、
「うおっ?」
予想もできなかった俊敏なその動きに、今度は
「っう……」
後頭部を思い切り打ちつけ、身をよじらせ転がる男の腹に馬乗りになった
「クサレ、ガキ、がっ……」
男は
「ごふっ!」
男の鼻っ面に、
「いっ、あちっ、あちぃ!!」
じゅぅと小さな音がして、めり込んだ
「オマエなんか……。オマエなんか、死んだら、」
さらに拳を振り上げた
声
が流れ込んできた。『飲み込まれるな、
いきなり手首をつかまれて目を上げると、いつの間にか隣に立っていた
――どんなに強い怒りを感じたとしても、我を忘れてはいけない――
(そうやった。約束した……)
「オン・ベイシラ・マンダヤ・ソワカ」※1
だが、今の今まで、約束もろとも
(……このヒト、どこにいたんやろ)
「止めんといてあげてっ!」
「そいつはねえ、しばかれるだけじゃ足れへん男やねん!あんときだって、ちっちゃい
振り返った
「あんときって?」
「あーっ、どっかで見たことある思うとったわ!……くそっ、どうなってるんやっ」
腹の上の
「どけや、クソガキっ。くそ、くそっ!……そういうたら、なぁ」
男は標的を変えて、寝そべったまま首をぐいとそらせて杉野をねめつけた。
「誰や思うとったら、隣に住んどった、おせっかいババアやないか!年とって、よりババアらしゅうなっとったから、気ぃつけへんかったで。ただのフーフゲンカにケーサツなんか呼んだりして、ほんまに迷惑したでっ。オマエんとこの娘、また夜道で襲うたろか!」
「やっぱりアンタが……」
「……杉野さん」
「杉野さん、アイツと前からの知り合いやったの?」
「
顔を両手で覆って、深く体を折った杉野の声が震えていた。
「立って」
泣きじゃくる杉野を呆然と見つめる
「クソが!」
「ええ度胸しとるのぉ、ワレぇっ!」
(え、なんで?)
腕を振り上げた男から
前に出ようとした
意識ははっきりしているのに、まるで金縛りにでもあっているかのようだ。
「大丈夫だ」
「なにが?」
あの模様
が描かれた半紙を四枚取り出す。「
今まさに
「
さらに
小鳥が羽ばたくような軽い音を立てて、男の両目と口にペタリ、ペタリと張り付いた。
続いて打ち合わされた
「
早口でいてクリアな
「怒りに身を任せては駄目だ。自分に理不尽を働く相手と同じモノになるな。自らの魂を汚すな」
そう言いながら、
「力を貸して」
言い終わるのと同時に
※1 毘沙門天マントラ エネルギー、勇気と行動力を与え 邪気を払いのける
※2
※3