一期一会-5-
文字数 3,285文字
洞の中は、心配していたような澱 んだ場所ではなかった。
何やら清々しい気に満ちているし、空気の対流も感じる。
どうやら、外とつながっている場所がほかにもあるようだ。
主人にぴたりと寄り添う光のおかげで、――それがすでに蛍などではなく、一抱 えもある室内灯ほどの大きさになっていることには目をつぶるしかなかったけれど――、内部はほんのりと明るい。
布を擦る音に、洞の天井に向けていた目を戻すと、主人がズボンのポケットから、年代を感じさせる小刀を取り出したところだった。
「危ないですよ」
取り上げようと手を伸ばせば、主人の目が上がる。
「おじいちゃんの、形見、です」
「ああ、そうなのですか……、えっ?!」
祖父の形見を肌身離さず持っていることに、和んでいる場合ではなかった。
主人はいきなりその小刀で、自分の人差し指を切りつけたのだから。
「な、何をなさるんですかっ!」
思わず大声を出して、小刀を持つ手を押える。
ぽた、ぽたり。
主人の指先から血雫が垂れ流れた。
「ちょっと待っていてください。今ハンカチで……。え?!」
主人の血が洞の小岩に小さな赤い染みを作った、その刹那。
寄り添っていた光がさらに大きくなり、洞の中は昼日中のように明るくなった。
そして。
『久しぶりね』
声がしたわけではなかったのに。
だが、確かにそう聞こえた。
光の中から、いや、光そのものが変化した存在が、主人に向かって語りかけている。
「おねえさんっ」
満面の主人の笑みに、ズキリと心が痛んだ。
(本当に嬉しいときには、こんな顔をするのか……)
理解が追いつかなくて、言葉を思いつかなくて。
主人と光の少女を、ただ黙って見つめるしかない。
「おねえさん、箱根に泊まれる場所をもらったんだよ。だから、また会いに来られるんだ」
『そう。嬉しい』
頭の中で、小さな鈴が鳴ったような気がするばかりなのだが、その音の
「でもね、その家を建てるために、お墓の周りを少し変えちゃったんだけど、怒ってない?」
『怒ってなどいませんよ』
「鳥居もあったけど、何か間違ったことはしていない?」
『手順も何もかも、錬 は正しく行いましたよ』
「お父さんの名前、知ってるの?」
『もちろん』
頭の中で鈴が弾けて、笑っているのだと
『鳥居を立てる前に、ここを訪れたときに。あなたが伝えてくれたのでしょう?あの場所に何かしようとする前には、湖に向かって名乗りを上げて祈れと』
(おねえさん、とは、こんな……)
幻影として現れた姿にまず絶句するが、それが、主人とあまり変わらない年頃の少女であることにも驚いた。
落胆したと言ってもいいかもしれない。
主人があれほど嬉しそうに「守ってもらった」と言っていたのだから、自分と同等か年上だろうと、なんとなく思っていたのだ。
主人をなでていた少女が、ふと冷然とした目を上げる。
『あなたの世話役と話をします。少し待っていてくれますか?』
「うん!」
見たこともないほど伸びやかな笑顔で、主人がうなずいた。
(あんな顔は、見たことがない)
理不尽に奪われた孤独な少年を笑顔にできるのは、自分だけだという自負があったのに。
笑顔を絶やさない光の少女が、その頼りない腕を伸ばしてきた。
『わたしが子供の姿であることが不満ですか?』
少女の柔和な笑顔に変化はない。
だが、頭に放り込まれる「鈴の音」は、主人に向けていたものはまったく異なっていた。
『確かに、あなたの頭の良さには驚くべきものがあります。ですが、知識は余分なものも与えます。卑怯やごまかし、高慢』
放り込まれくる鈴の音の温度が下がる。
『人は生きていくために自分の価値を欲します。その一番簡単な方法は、他者を見下すこと』
ああ、もう十分です。
ごめんなさい。
こんな気分になるのは初めてだった。
『得体の知れないわたしが卑 しめられるのは、仕方がない。ですが、この子を軽んじることは許しません。この子はあなたが思うような、“孤独で可哀そうな子”ではないのです』
この少女には、何も隠しごとなどできない。
『つらいことはたくさんありました。とても傷ついてもいます。けれど、この子の魂は、そんなことで濁 りはしないのです』
光の少女に向かって、自然と頭を下げていた。
『弁 えて、眼鏡を外してください』
「……眼鏡がないと、近くが見えないのですが」
『本物の眼鏡ではありませんよ。先入観や偏見のことを”色眼鏡”というのでしょう?この子の祖父がよく言っていました。”人も物も、色眼鏡で見ては、本当の姿はわからないんだ”と』
ガラガラだろか、パリン!だろうか。
とにかく、頭の中で音がした。
我知らず持っていた優越感にひびが入り、砕けていった。
『おねえさん』
少女が寄越す「想い」と同じものを主人から感じ、思わず顔を上げる。
『もうお話、終わった?高梁 さんのこと、あんまりいじめないで。僕のことを気持ち悪くないって、美しいって言ってくれたんだよ。スコーンもとっても上手なんだ。それにね、嘘は言わない人なんだ』
『あら』
感情を「形」で認識する、とはこういうことだろう。
少女が主人に向けた「想い」は、柔らかくて丸い。
そして、とても温かかった。
声であったのなら、トーンも言い方も違っていたことだろう。
『いじめてなどいませんよ。お願いをしていたのです』
少女の光る手が、改めて主人の頭に乗せられた。
『わたしの大切な人あなたに、真心を尽くしてほしいと』
なでられている主人が、「箱根に行ける」と聞いたときと同じ顔で笑った。
『あなたのこの子に対する庇護の気持ちは、重々承知しております。けれど、この子の本質を見誤ることのないように』
少女の姿をしてはいるが、この「存在」の中身は、それを凌駕したもの。
それを魂に刻まれた今、もう一度、無言のまま頭を下げた。
『ふふっ』
実際に声が聞こえたわけではない。
だが、明らかに少女が「笑った気配」を感知する。
『やはり、とても頭の良い方なのですね、あなたは。この短時間で状況を理解して、最善を選択される。……あなたが思っているとおりです。わたしはもう、長い間ここに留 まり、世界を見てきたのです。……見ていることしか、できなかったのですが……』
無力感の「形」とは、これほど胸に痛いものなのか。
『ご理解くださってありがとうございます。名乗りを』
「高梁 績 です」
考える間もなく、声が出ていた。
『績 、よく覚えておいてください』
名前を呼ばれたとたんに、その「想い」に心臓がつかまれ、縛り上げられる。
『この子に関して、わたしに隠しごとはできません。そして、あなたはもう、二度とここに来なくてよろしい。箱根にいる限り、この子は自分の身は自分で守れます』
「箱根にいる限り」。
それがどういう意味なのかはわからなかったが、もう尋ねる気にもなれなかった。
おそらく、自分の理解の範疇 を超えているだろうし、この少女は偽りや誇張は言わない。
少女がくるりと背を向け、主人に向き直った。
『深く切りすぎですよ。まだ血が出ているではありませんか。ありがとう、ここまでの痛みを背負ってくれて』
主人の手を光が包み込んだ。
「会いたかったから。おねえさんにお返しできた?」
『お返しなど必要ないのです。……極 めて汚 きも滞 なければ穢 はあらじ……』※
鈴の音が謳 い、目の前でみるみる主人の傷が塞 がっていく。
――あの子は少し不思議な力と縁を持っているのだけれど、とても優しい子なんだ――
秋鹿 社長の言葉とあの表情が、暖かな光に包まれているふたりにオーバーラップした。
嫌悪や恐怖はなく、崇拝や妄信でもなく。
この儚く美しいふたりを見守り、見届けたい。
そんな思いに支配されていた。
『ありがとう、績 』
「ありがとう、高梁 さん」
「……こちらこそ」
何の涙だったのか。
胸に去来した感情に名前はつけず、ただもう一度、主人
主人の落とした血雫の上に自分の涙が落ちて交わり、滑らかな岩肌を滑り流れていった。
※一切成就祓
何やら清々しい気に満ちているし、空気の対流も感じる。
どうやら、外とつながっている場所がほかにもあるようだ。
主人にぴたりと寄り添う光のおかげで、――それがすでに蛍などではなく、
布を擦る音に、洞の天井に向けていた目を戻すと、主人がズボンのポケットから、年代を感じさせる小刀を取り出したところだった。
「危ないですよ」
取り上げようと手を伸ばせば、主人の目が上がる。
「おじいちゃんの、形見、です」
「ああ、そうなのですか……、えっ?!」
祖父の形見を肌身離さず持っていることに、和んでいる場合ではなかった。
主人はいきなりその小刀で、自分の人差し指を切りつけたのだから。
「な、何をなさるんですかっ!」
思わず大声を出して、小刀を持つ手を押える。
ぽた、ぽたり。
主人の指先から血雫が垂れ流れた。
「ちょっと待っていてください。今ハンカチで……。え?!」
主人の血が洞の小岩に小さな赤い染みを作った、その刹那。
寄り添っていた光がさらに大きくなり、洞の中は昼日中のように明るくなった。
そして。
『久しぶりね』
声がしたわけではなかったのに。
だが、確かにそう聞こえた。
光の中から、いや、光そのものが変化した存在が、主人に向かって語りかけている。
「おねえさんっ」
満面の主人の笑みに、ズキリと心が痛んだ。
(本当に嬉しいときには、こんな顔をするのか……)
理解が追いつかなくて、言葉を思いつかなくて。
主人と光の少女を、ただ黙って見つめるしかない。
「おねえさん、箱根に泊まれる場所をもらったんだよ。だから、また会いに来られるんだ」
『そう。嬉しい』
頭の中で、小さな鈴が鳴ったような気がするばかりなのだが、その音の
意味
がわかってしまう。「でもね、その家を建てるために、お墓の周りを少し変えちゃったんだけど、怒ってない?」
『怒ってなどいませんよ』
「鳥居もあったけど、何か間違ったことはしていない?」
『手順も何もかも、
「お父さんの名前、知ってるの?」
『もちろん』
頭の中で鈴が弾けて、笑っているのだと
わかった
。『鳥居を立てる前に、ここを訪れたときに。あなたが伝えてくれたのでしょう?あの場所に何かしようとする前には、湖に向かって名乗りを上げて祈れと』
(おねえさん、とは、こんな……)
幻影として現れた姿にまず絶句するが、それが、主人とあまり変わらない年頃の少女であることにも驚いた。
落胆したと言ってもいいかもしれない。
主人があれほど嬉しそうに「守ってもらった」と言っていたのだから、自分と同等か年上だろうと、なんとなく思っていたのだ。
主人をなでていた少女が、ふと冷然とした目を上げる。
『あなたの世話役と話をします。少し待っていてくれますか?』
「うん!」
見たこともないほど伸びやかな笑顔で、主人がうなずいた。
(あんな顔は、見たことがない)
理不尽に奪われた孤独な少年を笑顔にできるのは、自分だけだという自負があったのに。
笑顔を絶やさない光の少女が、その頼りない腕を伸ばしてきた。
『わたしが子供の姿であることが不満ですか?』
少女の柔和な笑顔に変化はない。
だが、頭に放り込まれる「鈴の音」は、主人に向けていたものはまったく異なっていた。
『確かに、あなたの頭の良さには驚くべきものがあります。ですが、知識は余分なものも与えます。卑怯やごまかし、高慢』
放り込まれくる鈴の音の温度が下がる。
『人は生きていくために自分の価値を欲します。その一番簡単な方法は、他者を見下すこと』
ああ、もう十分です。
ごめんなさい。
こんな気分になるのは初めてだった。
『得体の知れないわたしが
この少女には、何も隠しごとなどできない。
『つらいことはたくさんありました。とても傷ついてもいます。けれど、この子の魂は、そんなことで
光の少女に向かって、自然と頭を下げていた。
『
「……眼鏡がないと、近くが見えないのですが」
『本物の眼鏡ではありませんよ。先入観や偏見のことを”色眼鏡”というのでしょう?この子の祖父がよく言っていました。”人も物も、色眼鏡で見ては、本当の姿はわからないんだ”と』
ガラガラだろか、パリン!だろうか。
とにかく、頭の中で音がした。
我知らず持っていた優越感にひびが入り、砕けていった。
『おねえさん』
少女が寄越す「想い」と同じものを主人から感じ、思わず顔を上げる。
『もうお話、終わった?
『あら』
感情を「形」で認識する、とはこういうことだろう。
少女が主人に向けた「想い」は、柔らかくて丸い。
そして、とても温かかった。
声であったのなら、トーンも言い方も違っていたことだろう。
『いじめてなどいませんよ。お願いをしていたのです』
少女の光る手が、改めて主人の頭に乗せられた。
『わたしの大切な人あなたに、真心を尽くしてほしいと』
なでられている主人が、「箱根に行ける」と聞いたときと同じ顔で笑った。
『あなたのこの子に対する庇護の気持ちは、重々承知しております。けれど、この子の本質を見誤ることのないように』
少女の姿をしてはいるが、この「存在」の中身は、それを凌駕したもの。
それを魂に刻まれた今、もう一度、無言のまま頭を下げた。
『ふふっ』
実際に声が聞こえたわけではない。
だが、明らかに少女が「笑った気配」を感知する。
『やはり、とても頭の良い方なのですね、あなたは。この短時間で状況を理解して、最善を選択される。……あなたが思っているとおりです。わたしはもう、長い間ここに
無力感の「形」とは、これほど胸に痛いものなのか。
『ご理解くださってありがとうございます。名乗りを』
「
考える間もなく、声が出ていた。
『
名前を呼ばれたとたんに、その「想い」に心臓がつかまれ、縛り上げられる。
『この子に関して、わたしに隠しごとはできません。そして、あなたはもう、二度とここに来なくてよろしい。箱根にいる限り、この子は自分の身は自分で守れます』
「箱根にいる限り」。
それがどういう意味なのかはわからなかったが、もう尋ねる気にもなれなかった。
おそらく、自分の理解の
少女がくるりと背を向け、主人に向き直った。
『深く切りすぎですよ。まだ血が出ているではありませんか。ありがとう、ここまでの痛みを背負ってくれて』
主人の手を光が包み込んだ。
「会いたかったから。おねえさんにお返しできた?」
『お返しなど必要ないのです。……
鈴の音が
――あの子は少し不思議な力と縁を持っているのだけれど、とても優しい子なんだ――
嫌悪や恐怖はなく、崇拝や妄信でもなく。
この儚く美しいふたりを見守り、見届けたい。
そんな思いに支配されていた。
『ありがとう、
「ありがとう、
「……こちらこそ」
何の涙だったのか。
胸に去来した感情に名前はつけず、ただもう一度、主人
ふたり
に頭を下げる。主人の落とした血雫の上に自分の涙が落ちて交わり、滑らかな岩肌を滑り流れていった。
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