一期一会-3-

文字数 2,311文字

 箱根屈指のリゾートホテル敷地内の小径を歩きながら、主人がきょろきょろと辺りを見回している。
「ここはご存じですか?」
「えっと、父の、会社のホテル、です」
「いらっしゃるのは初めて?」
「はい。家が、すぐそこだったし……。おじいちゃ、祖父があまり、よい顔をしなくて……」
 視線を落とすした主人は、それからは何も言葉を発せずに。
 ただ黙々と歩き続けた。


 主人と暮らし始めて、一か月が過ぎたある日の午後。
 「経過報告を」と連絡があり、秋鹿(あいか)社長の執務室を訪れた。
 
 香り高いコーヒーを勧められて、主人の聡明さや、意外に茶目っ気のあるやり取りを話していくうちに、秋鹿(あいか)社長の目尻が下がっていく。
 そこには敏腕社長の影はなく、ただ愛情深い父親がいるばかりだった。
高梁(たかはし)君には感謝してもしきれません」
「いえ、僕も楽しんでいますから。ところで、折り入ってお願いがあるのですが」
(まもる)に関係することですか?」
「もちろんです」
「では、なんなりと」
 
 この、息子のための要求に対して秋鹿(あいか)社長が言う「なんなりと」が、どれほど桁外れのものなのか。
 まだこの時点ではその威力を知らず、どこまでの回答をもぎとれるか、勝負を挑む気持ちでいた。

「箱根の再開発は、順調でいらっしゃいますか?」
「うん、高梁(たかはし)君の提案が良かったからね。前評判も上々だよ。このままうちに就職するつもりはない?」
「それは光栄です」
 
 秋鹿(あいか)社長との出会いであった「特別講義」で出された課題は、AIKAホールディングスが持つ物件の、リニューアル計画をプレゼンするもの。
 そのとき自分が提出した、「ホテルのサービスをプライベートエリアで体感できる、全世代包括コテージエリア」が社長の目に留まり、核の案として採用されたのだ。

「そこに追加の案をプレゼンしたいのですが、まだ余裕はあるでしょうか」
 カバンからA4三枚にまとめた企画書を取り出すと、秋鹿(あいか)社長がすかさず手を伸ばしてくる。

 着々と進められているリニューアルプランは、すでにプロの手によって練り直され、業界でもさすがAIKAだとの評価を得ているらしい。
 ここで社員でもない、ただの学生が追加案を出すなど、素人の蛮勇、戯言(ざれごと)だ。

 けれど。
 飲みかけていたコーヒーを静かにソーサーに戻して、秋鹿(あいか)社長は前のめりになってページをめくっていく。

「どうして、これが必要だと?」
 書類を傍らのテーブルに置いて、秋鹿(あいか)社長は値踏みするような目をする。
「地理を教えているときに気がついたんです。地図帳に、強く折り目のついたページがあると。……ねだることをしないあの方の、願いを叶えるチャンスですよ」
高梁(たかはし)君、やはり就職先の選択肢に、うちを入れていただけませんか」
「買い被り過ぎですよ」
 そうは言いながら、内心ではガッツポーズをキメていた。
「すぐに手配をしましょう」
 秋鹿(あいか)社長が立ち上がって内線のボタンを押すと、すぐにノックの音が聞こえて、女性秘書が足音も立てずに入ってくる。
「弁護士に連絡を。それから、箱根のプロジェクトチームを集めるように」
「かしこまりました」
 非の打ち所のない礼をとって秘書が下がると、秋鹿(あいか)社長が目を笑ませて振り返った。
(まもる)の望みを叶える機会を私にくださって、ありがとうございます」
「とんでもありません、お礼を申し上げるのは僕のほうです。ご子息の秘密の願い事を叶えるには、僕では力不足でしたから」
 立ち上がって、差し出された手を力強く握り返す。
「なにしろ、笑っていただけたことなど、数えるほどしかないですからね」
 とたんに秋鹿(あいか)社長がむっとした顔をするが、男前はむっとしても男前だ。
「ずるいな。……彼女を喪ってから、笑顔なんて見た覚えがない……」
「お忙しくて、一緒に過ごす時間が短すぎるからでしょう」
 カバンを手に立ち上がると、社長自らがドアを開けてくれる。
「あの子は、どんなときに笑いますか?」
「スコーンに桃のコンポートを添えて出したときと、偏屈仲間に認定してもらったときですかね」
「……スコーン、ですか。あれは、焼き立てが美味しいですからね……」
 ともに廊下に出た秋鹿(あいか)社長の、その横顔が寂しそうで。
 誰を思い出しているのか、すぐに察することができた。
「今度、ご一緒にいかがですか?(まもる)さんも喜ぶと思いますよ」
「そうだとよいのですが。桃のコンポートも手作りですか?」
「ええ、もちろん。缶詰では甘すぎます」
「君は見かけによらず家庭的ですね。一見、研究職のような風貌なのに」
(まもる)さんにも言われましたよ。真面目な顔をしているから、キッチンで何の実験をしているのかと思っていたと」
「ふふっ」
 秋鹿(あいか)社長の笑顔は、主人のそれとよく似ていて切なくなる。
「お菓子を作るときは、楽しそうな顔をすると思っていた、とも言われました」
「……あなたは、それに対してなんと?」

 息を詰めているような気配に、話すべきかどうか迷った。
 だが、この人なら、傷ついたとしても知ることを選ぶだろう。

「食べてもらう人の笑顔を思い浮かべれば、楽しそうにもなりますよね、と。感情の振れ幅が小さい自覚はありませすが、僕も楽しくないわけではありません。ですが、(まもる)さんにお菓子を作っていた人は」
 横を歩いていた秋鹿(あいか)社長の足が止まった。
 振り返ると、秋鹿(あいか)社長が、まなざしでその先をうながしている。
「あなたが食べている姿を思い浮かべるだけで、幸せだったのだと思います」
「……決めました」
「何をですか」
「あなたが就職活動を始めたら、うち以外のすべての訪問先において、妨害をさせてもらいます」
秋鹿(あいか)さんは、そういうご冗談をおっしゃるのですね」
「本気です」
 これが、自分の就職先が決まってしまった瞬間だった。
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