月兎
文字数 3,433文字
箱根芦ノ湖は言わずと知れた有数の観光地で、湖岸には瀟洒なホテルが数多く建ち並んでいる。
なかでも屈指の規模を誇るリゾートホテルには、よりプライベートを重視する宿泊客のために、いくつかのコテージが用意されていた。
シーズンには予約も難しい人気あるコテージ群であるが、さらに一線を画しているのが、最奥に建つヴィラである。
その外観は、いっそ別荘と表現したいほど重厚。
主寝室と二部屋の客室があり、リビングはインポートブランドで統一されている。
浴室とは別にシャワールームを備え、ダイニングキッチンでさえ、ホームパーティが開けるほどの広さがあった。
宿泊料金も破格ではあるのに、いつだって予約で埋まっており、宿泊できた試しがないと話題になったこともある。
小径 の緩いカーブを抜けたところで、槐 、渉 、煌 の足がぴたりと止まった。
ヒメシャラとモミに囲まれた趣きあるヴィラの外で、鎮 が三人を出迎えるように立っている。
(あ、ロリコン……)
(ロリコンだったとはなぁ)
(ロリコンちゃうはずや)
「……お前ら全員帰れ」
白髪 をかき上げた鎮 が、ふたつの赤目で三人をにらみつけた。
そして、くるりと背中を向けると、玄関ドアのノブに手を掛ける。
「ま、待って待って」
槐 が慌てて鎮 に駆け寄った。
「ごめん、声に出てた?」
「出てねぇよ。……オマエ、何で怒った?オレらの心でも読んだのか?今までもそうだったのか?それを黙ってたのかよっ」
「……今は読んだ、というより読まされた」
振り返った鎮 とにらみつける渉 の視線が、がっつりと結び合う。
「は?なんだよ、その言い草。悪いのはこっちかよっ」
「え、ホントに?」
急ブレーキをかけるように足を止めて、槐 は渉 の隣へと逃げ戻った。
「アンデラとチャンドラのアーユスに触れたせいだろう。パドマが異常に開いてる」
「……わかるように話せよ」
もう何度、同じことを思っただろう。
あの「キラン」と名乗った男性、あの少女。
そして、鎮 。
言っていることもやっていることも、まったく理解不能。
イライラと舌打ちした渉 を横目に、煌 が苦笑いを浮かべた。
「秋鹿 さん、なんしか、俺らは何かせなあかんのやろ?詳しいことは、あとでゆっくり説明してくれるんやろう?」
「そのとおりです」
突然、聞こえてきた可愛い声に、仲間たちの目がいっせいに鎮 の足元に集まる。
「う、ウサギ?……しゃべった?!」
槐 の目が最大に見開かれた。
いつからそこにいたのだろう。
鎮 の足元に、白いウサギが二本足で立っていた。
長い耳がピョコピョコと、ピンクの鼻がヒクヒクと動いていて、ルビーのような瞳がキラキラと光っている。
「まずはこの護符をどうぞ」
ウサギは再び人語を使い、そのまま二足歩行しながら三人のすぐそばまでやってきた。
「ウ、ウサギの歩き方じゃねぇ」
「そもそもウサギはしゃべらないよ」
顔を歪ゆがませる渉 の隣で、槐 がじりじりと後ずさりをしていく。
べらぼうに可愛い外見なのだが、その分、気味が悪い。
(ナニコレ、ナニコレ、ナニコレ)
動揺が足にきて、槐 はぺしゃりと尻もちをついた。
「そないに怖がることあれへんやろ。式神やんけ、それもめっちゃ強い」
平然とウサギから護符を受け取る煌 を見上げて、槐 はフルフルと首を横に振る。
「いや、そんな、”ナニおまえ知らないの”みたな顔されても……」
「スザク様はご理解が早くて助かります」
へたり込んでいる槐 に、チラリと冷たい流し目を送ってから。
白ウサギは煌 にピョコンと頭を下げた。
「瘴気 を浴びたパドマが開いたままですから、おつらいでしょう。それを左手首に巻いてください」
ウサギは腕をくるくると回して、巻き付ける仕草をする。
「こうか?」
言われたとおりに護符を貼りつけると、それはまるでリストバンドのように、煌 の手首から離れなくなった。
「そうです、そうです。霊力を使い慣れていらっしゃるから、護符がよく馴染 みますね。では失礼して」
ウサギが白い両手を勢いよく打ち合わせる。
パン!
それは、毛皮に包まれた肉球が立てたとは思えないほど、冴えた音だった。
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のます あせゑ ほれけ」 ※1
ウサギが唱える祝詞 に呼応するように、護符は煌 の皮膚に吸い込まれていく。
「……ほんまやな。なんや、体が軽なった。おおきに、……えっと」
口ごもる煌 に気づいたウサギの口角が、にっと上がった。
「ワタクシはゲツトと申します」
「ゲツト?」
「月の兎 、月兎 です」
「そうか。月兎 、方術をどうもありがとう」
煌 から深々と頭を下げられた月兎 は、顔の前で、ふかふかの白い手をひらひらと横に振る。
「いえいえ、どういたしまして。では、スザク様」
月兎 が指に挟 んでいた、もう二枚の札を煌 に差し出した。
「ん?まだ必要なん?」
「いえ、あとのおふたりには、スザク様が施して差しあげてください。……ワタクシのことが、どうも気味悪いようですからね」
「フン!」と鼻を鳴らして、月兎 の赤目がすぃと細められる。
「そのようなお心持ちでは、術が十全 に成ることはないでしょう。我が主 のアーユスが込められた札を、無駄にされたくはございません」
「秋鹿 さんのほうが、ええんちゃうん?」
「ビャッコ様のパドマは問題ありませんが、アーユスが強すぎるのです」
「ごめん、月兎 。うまく調整ができなくて」
「なにをおっしゃいますか、ビャッコ様!」
今までとは明らかに違う、慕い案ずる赤い目で、月兎 は鎮 を振り返った。
「ビャッコ様のアーユスが、アカシャを助けてくださいました。……もうすぐ、すぐですよ。主 がそう申しておりました」
「そう?」
「ええ。ですから、今しばらく、結界の外ではご辛抱を。アンデラに嗅ぎつかれるといけませんからね」
首を傾け、鼻をヒクヒクとさせている白ウサギは、とてもカワイイのに。
「なので、スザク様がいてくださって、本当によかったのです。……よかったんですよ?」
渉 と槐 に向けられたのは、やっぱり冷たい赤い目だった。
「そうでなければ、そんなにパドマが開いている状態では追い出せませんし、術を受けていただけないのなら、意識のない状態にするしかありませんから」
「い、意識の、ない……?」
「はい。こんな感じで」
キレのある月兎 のシャドーボクシングに、槐 が青ざめる。
「え、なにそれコワい!煌 、お願いお願い!」
槐 から両腕を差し出された煌 が、苦笑いを浮かべた。
「右と左、どっちでもええん?」
「いえ、左で。左からヒラキます」
「了解」
煌 は槐 と渉 にそれぞれ札を巻き付け、祝詞 を詠じる。
「ひふみ よいむなや こともちろらね……」
朗々とした煌 の唱えが、森に溶けていった。
「あ……。ほんとだ、軽い」
手首の札が消えるころには。
胃もたれのような、それよりもっと重い不快感をもたらしていた、ナニカが消えていて。
思わず深く息を吐いた槐 に、鎮 のためいきが重なった。
「……ありがとう煌 。楽になった」
「楽?秋鹿 さんも?だって、問題はあれへんって……」
「パドマが開きっぱなしで近づかれるのは
腹立たしそうに口をつぐんだ鎮 に、察した渉 の口角がニッと上がる。
「そら悪かったな。ロリコンって言葉で殴られるのは、オレでも嫌だ」
「……帰れ」
「断る。ちゃんと説明してくれ。“キツイ”の理由はわかった。でも、えーと、なんだ、“ぱどま”?“あーゆーす”?なんじゃそりゃ、だからな。あと、あのコのことも紹介しろよ。オマエ、カノジョいたんだなぁ」
にやけている渉 からふぃと視線をそらせて、鎮 は再びドアノブに手を掛けた。
「そんな安っぽいものじゃない。赤ん坊のころから、ずっと見守っていてくれた人だ。……ソウギョクは今、取り込み中だから。邪魔をしないで大人しくしていろ」
(見守って?赤ん坊のころからって、そりゃ逆じゃね?)
渉 の腹の内は感知されなかったのか、無視されたのか。
鎮 は振り返りもせずに、無言でドアを開けた。
「大丈夫ですよ、ビャッコ様。邪魔などしたらワタクシが」
今度は蹴り上げる仕草をしてみせた月兎 に、鎮 が真顔でうなずく。
そして、あごをクイとしゃくる、そんなぞんざいな鎮 の誘いを受けた三人は、恐る恐るヴィラの敷居をまたいだ。
※1 ひふみ祝詞 47文字すべてが重ならないように作られている
なかでも屈指の規模を誇るリゾートホテルには、よりプライベートを重視する宿泊客のために、いくつかのコテージが用意されていた。
シーズンには予約も難しい人気あるコテージ群であるが、さらに一線を画しているのが、最奥に建つヴィラである。
その外観は、いっそ別荘と表現したいほど重厚。
主寝室と二部屋の客室があり、リビングはインポートブランドで統一されている。
浴室とは別にシャワールームを備え、ダイニングキッチンでさえ、ホームパーティが開けるほどの広さがあった。
宿泊料金も破格ではあるのに、いつだって予約で埋まっており、宿泊できた試しがないと話題になったこともある。
ヒメシャラとモミに囲まれた趣きあるヴィラの外で、
(あ、ロリコン……)
(ロリコンだったとはなぁ)
(ロリコンちゃうはずや)
「……お前ら全員帰れ」
そして、くるりと背中を向けると、玄関ドアのノブに手を掛ける。
「ま、待って待って」
「ごめん、声に出てた?」
「出てねぇよ。……オマエ、何で怒った?オレらの心でも読んだのか?今までもそうだったのか?それを黙ってたのかよっ」
「……今は読んだ、というより読まされた」
振り返った
「は?なんだよ、その言い草。悪いのはこっちかよっ」
「え、ホントに?」
急ブレーキをかけるように足を止めて、
「アンデラとチャンドラのアーユスに触れたせいだろう。パドマが異常に開いてる」
「……わかるように話せよ」
もう何度、同じことを思っただろう。
あの「キラン」と名乗った男性、あの少女。
そして、
言っていることもやっていることも、まったく理解不能。
イライラと舌打ちした
「
「そのとおりです」
突然、聞こえてきた可愛い声に、仲間たちの目がいっせいに
「う、ウサギ?……しゃべった?!」
いつからそこにいたのだろう。
長い耳がピョコピョコと、ピンクの鼻がヒクヒクと動いていて、ルビーのような瞳がキラキラと光っている。
「まずはこの護符をどうぞ」
ウサギは再び人語を使い、そのまま二足歩行しながら三人のすぐそばまでやってきた。
「ウ、ウサギの歩き方じゃねぇ」
「そもそもウサギはしゃべらないよ」
顔を歪ゆがませる
べらぼうに可愛い外見なのだが、その分、気味が悪い。
(ナニコレ、ナニコレ、ナニコレ)
動揺が足にきて、
「そないに怖がることあれへんやろ。式神やんけ、それもめっちゃ強い」
平然とウサギから護符を受け取る
「いや、そんな、”ナニおまえ知らないの”みたな顔されても……」
「スザク様はご理解が早くて助かります」
へたり込んでいる
白ウサギは
「
ウサギは腕をくるくると回して、巻き付ける仕草をする。
「こうか?」
言われたとおりに護符を貼りつけると、それはまるでリストバンドのように、
「そうです、そうです。霊力を使い慣れていらっしゃるから、護符がよく
ウサギが白い両手を勢いよく打ち合わせる。
パン!
それは、毛皮に包まれた肉球が立てたとは思えないほど、冴えた音だった。
「ひふみ よいむなや こともちろらね しきる ゆゐつわぬ そをたはくめか うおえ にさりへて のます あせゑ ほれけ」 ※1
ウサギが唱える
「……ほんまやな。なんや、体が軽なった。おおきに、……えっと」
口ごもる
「ワタクシはゲツトと申します」
「ゲツト?」
「月の
「そうか。
「いえいえ、どういたしまして。では、スザク様」
「ん?まだ必要なん?」
「いえ、あとのおふたりには、スザク様が施して差しあげてください。……ワタクシのことが、どうも気味悪いようですからね」
「フン!」と鼻を鳴らして、
「そのようなお心持ちでは、術が
「
「ビャッコ様のパドマは問題ありませんが、アーユスが強すぎるのです」
「ごめん、
「なにをおっしゃいますか、ビャッコ様!」
今までとは明らかに違う、慕い案ずる赤い目で、
「ビャッコ様のアーユスが、アカシャを助けてくださいました。……もうすぐ、すぐですよ。
「そう?」
「ええ。ですから、今しばらく、結界の外ではご辛抱を。アンデラに嗅ぎつかれるといけませんからね」
首を傾け、鼻をヒクヒクとさせている白ウサギは、とてもカワイイのに。
「なので、スザク様がいてくださって、本当によかったのです。……よかったんですよ?」
「そうでなければ、そんなにパドマが開いている状態では追い出せませんし、術を受けていただけないのなら、意識のない状態にするしかありませんから」
「い、意識の、ない……?」
「はい。こんな感じで」
キレのある
「え、なにそれコワい!
「右と左、どっちでもええん?」
「いえ、左で。左からヒラキます」
「了解」
「ひふみ よいむなや こともちろらね……」
朗々とした
「あ……。ほんとだ、軽い」
手首の札が消えるころには。
胃もたれのような、それよりもっと重い不快感をもたらしていた、ナニカが消えていて。
思わず深く息を吐いた
「……ありがとう
「楽?
「パドマが開きっぱなしで近づかれるのは
キツイ
。怒鳴るように思考をぶつけられる。トゲのある言葉で殴られているみたいに。……しかも……」腹立たしそうに口をつぐんだ
「そら悪かったな。ロリコンって言葉で殴られるのは、オレでも嫌だ」
「……帰れ」
「断る。ちゃんと説明してくれ。“キツイ”の理由はわかった。でも、えーと、なんだ、“ぱどま”?“あーゆーす”?なんじゃそりゃ、だからな。あと、あのコのことも紹介しろよ。オマエ、カノジョいたんだなぁ」
にやけている
「そんな安っぽいものじゃない。赤ん坊のころから、ずっと見守っていてくれた人だ。……ソウギョクは今、取り込み中だから。邪魔をしないで大人しくしていろ」
(見守って?赤ん坊のころからって、そりゃ逆じゃね?)
「大丈夫ですよ、ビャッコ様。邪魔などしたらワタクシが」
今度は蹴り上げる仕草をしてみせた
そして、あごをクイとしゃくる、そんなぞんざいな
※1 ひふみ