第84話 Sa0ri’s Spring (沙織の春)
文字数 3,386文字
サオリはギンジロウと別れ、もらった部屋に入る。ベッドと、姿見と、小さな机と、椅子。窓がひとつで、壁はコンクリートの打ちっ放し。いたって簡素だ。
ーーシンプルもよき。
誰もいない。サオリは開放感に包まれた。トランクを開け、日焼け止めを塗る。
ーーさ、アリススプリングスに適した服装をしよ、と。
この街の名前の由来は面白い。昔、オーストラリアがイギリスの植民地だった時、街の偉い人の奥さんの名前がアリスだった。そして、砂漠地帯のこの街には水が湧くことから、アリスさんの湧水、アリススプリングスと名付けられたのだ。偉い人に誰かが媚を売ったのか、権力で町の名前を女性にプレゼントしたのか。とかく、力が絡むとロクなことをしない。
だが、そんなことはどうでもいい。サオリにとってのアリススプリングスのイメージは、不思議の国のアリスの主人公、アリス・リデルの何度も続く春。それ一択だ。
いよいよ瞬着を試す時。サオリは、ピンク色のインスタントジュエルに手を触れ、指で桃の形を作った。
「ピーチーズ」
瞬間、ピーチーズからもらった黒のワンピースに変わっている。
ーーQT。
サオリは姿見を見ながら、左右の袖とワンピースの丈を短くした。それから、トランクの中からとりだした赤いリボンをつけ、白いエプロンをまとう。ブラックアリスの完成だ。
ーーうん。ロマンチ。
準備は万端だ。
「行くよ」
サオリは、窓から外を見ていたクマオをつかんだ。人前ではぬいぐるみでいること、という約束を守り、しっかり喋らない。
サオリのエプロンは、ポケットに工夫がしてある。クマオが入れるように縫い直したのだ。そのポケットにクマオをねじりこむ。綿でできているので軽い。ついていることすら感じないが、これでいくら走っても落ちることはない。
サオリは姿勢を正して、扉の前に立った。
ーーいよいよ、アタピの冒険が始まる。
一度大きく深呼吸。
勢いよく扉を開けた。
外に出ると、通りを歩いていくギンジロウの後ろ姿が見える。一番大きな通りに行くようだ。
ーーこのタイミングで会うの、なんか嫌。
サオリは、あえて反対方向に進んだ。アリススプリングスは平屋が多く、隣の建物との間が離れているところが多い。人家の密集している東京四谷とは全く違う。サオリは、上下の移動が大好きなので、屋根に登りたくてうずうずした。
ーー行こかな? けど、けっこう目立っちゃうかな?
少し悩んだが、今日は安全のため、人の敷地に入ることはやめておくことにした。ただ、新しい風景は、普通の道を歩いているだけでも楽しい。舗装されていないので、足裏に凸凹を感じられる。東京では体験できない。
ーーあー。自然、て感じ。
人間は動物だ。文明にまみれた東京ではなく、こういう生活が人間の本来の幸福なのかもしれない。
ーー心地い。
自然なのは空気だけではない。通りを歩く人たちも、白人とアボリジナルが混合している。サオリが珍しいのか、やけに親しげに話しかけてくる。
ハエや蚊、ゴキブリやネズミが、砂嵐のようにそこかしこを徘徊していることだけは辟易したが、いかにも原始的で、東京では絶対に味わえない雰囲気だ。もちろん、虫除けスプレーを浴びるようにかけてはいたが。
街の中心地では、ちょうど昨日まで大きな祭りをおこなっていたらしい。みんなが片付けをしている。
ーー知ってたらもっと早く来て、アタピも参加したかった。
のんびりと考えごとをしたり、ぷらぷらと賑やかな街を歩きながら、サオリは大いに、自分にとっての新しい世界を堪能した。
徐々に日が落ちてくる。スマートフォンを見る。
ーーあと少しで十七時。
いつの間にか三時間が経っていた。サオリは、この夕方の時間帯に行ってみようと思っている場所があった。街の象徴として知られているアンザックヒルだ。この時間帯のアンザックヒルから見る街の光景が綺麗だ、とガイドブックに書いてあったのだ。
丘とはいえ、中心街からそう遠くない。サオリは到着して、アンザックヒルを見上げた。
ーーヒル?
丘とはいいながらも、たいした高さではない。六本木ヒルズの方が全然高い。
ーー丘の定義て、他より高いところであるとこ、とかいう曖昧な感じだっけ?
サオリは登ったという感覚もなく、考えていたら登りきっていた。頂上に置かれている看板を読む。
ーーふむふむ。
アンザックというのは、オーストラリアとニュージーランドの合同軍のことをいうらしい。
サオリは街全体をながめた。
ーー戦争のことをまるで感じない。それほど、この世界は小さく平和、それでいて完璧だな。
街の周囲を山脈が囲み、二万五千人が住むこの世界。先程会った人たちが全員この中にいて、ここで大半の人間が一生を過ごす。今まで自分が一度も考えなかった世界だが、自分が知る前からここに存在していた。自分が学校で授業を受けている間も、ここの住民は絶えず生き続けている。この価値観は、東京で生きているサオリには全くなかった。
ーーKOKに入りたいと言わなきゃ、アルキメストになんなきゃ、高難度クエストを受ける決心をしなきゃ、アタピ、この世界には一生会うことがなかった。アタピの世界、また少し大きくなった。嗚呼。なんてロマンチなんだろう。ロマンチ・オブ・ロマンチ。
日が沈んでいく風景も綺麗だが、沈んだ後、街灯や家の光が、宝石のように輝いていることがまた素敵だった。東京には一千万人以上が住んでいてわからないが、このくらいの人数には深い現実味が存在している。
サオリは自然に胸の前で手を組み、ギュッとなにかに祈りを込めた。
メイソンホールに戻るとギンジロウが瞑想をしていた。全ての準備を終えたようだ。サオリが戻るとすぐに目を開ける。
「おかえりなさい。遅かったね」
「散歩してた」
「ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ、今から、た、食べにいきませんか? 美味しい店があるって、地元の人に聞いたんです」
ギンジロウは、サオリを食事に誘った。もちろん、心の中の予行練習は何度もこなしている。
ーーそいえば、お腹すいてる。
「行く」
サオリは即答した。
ーーやったーっ !
なんだかんだいっても、一緒に食事をするのは初めてだ。ギンジロウは、嬉しくて手が震えた。
着いたお店はスポーティー。青い看板が目印の、大きなオープンレストランだ。
ーーあっ。さっきのフリーメイソンのおじいさんが行くって言ってたとこ。
おじいさんが豪勢だと言っていたので、かなりいい店なのだろう。
ーーせっかくオーストラリアきたし、現地の料理食べよかな。
サオリは迷った。
「ここの名物はフィッシュアンドチップスだって」
ギンジロウが説明する。
ーーえっ! 名物!! 現地vs名物……。
結局、サオリは、名物のフィッシュアンドチップスを頼んだ。
ーーイギリスの元植民地で食べられるF&C。いつかロンドン行ったら、食べ比べできる。
やはり、名物という名前には勝てなかった。
ただ残念なことに、サオリは食にたいして、そこまで強い関心があるわけではなかった。生まれつき、食が細いからだ。正直、プロテイン一杯とチロルチョコひとつ食べれば一日もつ。ピーチーズに見せるための写真を撮り、がんばって三割ほど食べたところで、お腹がいっぱいになってしまった。
サオリは、油がついた手をもてあそびながら、ギンジロウと、明日の日程について話をした。
朝七時に出発。
夕方十七時までに到着予定。
十八時までに準備を終えて、十九時から調査隊と顔合わせ。
そこで打ち合わせをし、次の日から調査開始。
こんな感じだ。
少し早めの行動設計だが、二人とも失敗が嫌いなので、このくらいの余裕があってちょうどいい。
サオリは、何度も予定を確認することが大事だと思っていたので、こういう話は楽しかった。ギンジロウも、自分で楽しい話題が作れない。予定を確認するという名目の元、真剣な顔のサオリの横顔を見ながら食事ができることを幸せに思った。サオリが食べられなかったフィッシュアンドチップスを「食べて」と言われた時は、幸せの絶頂に達したほどだ。お腹も、幸せに比例してパンパンに膨んだが。
その日はそれで終わった。二人は早めに部屋に戻り、それぞれ瞑想と錬金術の修行をして眠った。クマオも疲れていたのだろう。ぬいぐるみのまま、起きることはなかった。
ーーシンプルもよき。
誰もいない。サオリは開放感に包まれた。トランクを開け、日焼け止めを塗る。
ーーさ、アリススプリングスに適した服装をしよ、と。
この街の名前の由来は面白い。昔、オーストラリアがイギリスの植民地だった時、街の偉い人の奥さんの名前がアリスだった。そして、砂漠地帯のこの街には水が湧くことから、アリスさんの湧水、アリススプリングスと名付けられたのだ。偉い人に誰かが媚を売ったのか、権力で町の名前を女性にプレゼントしたのか。とかく、力が絡むとロクなことをしない。
だが、そんなことはどうでもいい。サオリにとってのアリススプリングスのイメージは、不思議の国のアリスの主人公、アリス・リデルの何度も続く春。それ一択だ。
いよいよ瞬着を試す時。サオリは、ピンク色のインスタントジュエルに手を触れ、指で桃の形を作った。
「ピーチーズ」
瞬間、ピーチーズからもらった黒のワンピースに変わっている。
ーーQT。
サオリは姿見を見ながら、左右の袖とワンピースの丈を短くした。それから、トランクの中からとりだした赤いリボンをつけ、白いエプロンをまとう。ブラックアリスの完成だ。
ーーうん。ロマンチ。
準備は万端だ。
「行くよ」
サオリは、窓から外を見ていたクマオをつかんだ。人前ではぬいぐるみでいること、という約束を守り、しっかり喋らない。
サオリのエプロンは、ポケットに工夫がしてある。クマオが入れるように縫い直したのだ。そのポケットにクマオをねじりこむ。綿でできているので軽い。ついていることすら感じないが、これでいくら走っても落ちることはない。
サオリは姿勢を正して、扉の前に立った。
ーーいよいよ、アタピの冒険が始まる。
一度大きく深呼吸。
勢いよく扉を開けた。
外に出ると、通りを歩いていくギンジロウの後ろ姿が見える。一番大きな通りに行くようだ。
ーーこのタイミングで会うの、なんか嫌。
サオリは、あえて反対方向に進んだ。アリススプリングスは平屋が多く、隣の建物との間が離れているところが多い。人家の密集している東京四谷とは全く違う。サオリは、上下の移動が大好きなので、屋根に登りたくてうずうずした。
ーー行こかな? けど、けっこう目立っちゃうかな?
少し悩んだが、今日は安全のため、人の敷地に入ることはやめておくことにした。ただ、新しい風景は、普通の道を歩いているだけでも楽しい。舗装されていないので、足裏に凸凹を感じられる。東京では体験できない。
ーーあー。自然、て感じ。
人間は動物だ。文明にまみれた東京ではなく、こういう生活が人間の本来の幸福なのかもしれない。
ーー心地い。
自然なのは空気だけではない。通りを歩く人たちも、白人とアボリジナルが混合している。サオリが珍しいのか、やけに親しげに話しかけてくる。
ハエや蚊、ゴキブリやネズミが、砂嵐のようにそこかしこを徘徊していることだけは辟易したが、いかにも原始的で、東京では絶対に味わえない雰囲気だ。もちろん、虫除けスプレーを浴びるようにかけてはいたが。
街の中心地では、ちょうど昨日まで大きな祭りをおこなっていたらしい。みんなが片付けをしている。
ーー知ってたらもっと早く来て、アタピも参加したかった。
のんびりと考えごとをしたり、ぷらぷらと賑やかな街を歩きながら、サオリは大いに、自分にとっての新しい世界を堪能した。
徐々に日が落ちてくる。スマートフォンを見る。
ーーあと少しで十七時。
いつの間にか三時間が経っていた。サオリは、この夕方の時間帯に行ってみようと思っている場所があった。街の象徴として知られているアンザックヒルだ。この時間帯のアンザックヒルから見る街の光景が綺麗だ、とガイドブックに書いてあったのだ。
丘とはいえ、中心街からそう遠くない。サオリは到着して、アンザックヒルを見上げた。
ーーヒル?
丘とはいいながらも、たいした高さではない。六本木ヒルズの方が全然高い。
ーー丘の定義て、他より高いところであるとこ、とかいう曖昧な感じだっけ?
サオリは登ったという感覚もなく、考えていたら登りきっていた。頂上に置かれている看板を読む。
ーーふむふむ。
アンザックというのは、オーストラリアとニュージーランドの合同軍のことをいうらしい。
サオリは街全体をながめた。
ーー戦争のことをまるで感じない。それほど、この世界は小さく平和、それでいて完璧だな。
街の周囲を山脈が囲み、二万五千人が住むこの世界。先程会った人たちが全員この中にいて、ここで大半の人間が一生を過ごす。今まで自分が一度も考えなかった世界だが、自分が知る前からここに存在していた。自分が学校で授業を受けている間も、ここの住民は絶えず生き続けている。この価値観は、東京で生きているサオリには全くなかった。
ーーKOKに入りたいと言わなきゃ、アルキメストになんなきゃ、高難度クエストを受ける決心をしなきゃ、アタピ、この世界には一生会うことがなかった。アタピの世界、また少し大きくなった。嗚呼。なんてロマンチなんだろう。ロマンチ・オブ・ロマンチ。
日が沈んでいく風景も綺麗だが、沈んだ後、街灯や家の光が、宝石のように輝いていることがまた素敵だった。東京には一千万人以上が住んでいてわからないが、このくらいの人数には深い現実味が存在している。
サオリは自然に胸の前で手を組み、ギュッとなにかに祈りを込めた。
メイソンホールに戻るとギンジロウが瞑想をしていた。全ての準備を終えたようだ。サオリが戻るとすぐに目を開ける。
「おかえりなさい。遅かったね」
「散歩してた」
「ご飯食べた?」
「まだ」
「じゃあ、今から、た、食べにいきませんか? 美味しい店があるって、地元の人に聞いたんです」
ギンジロウは、サオリを食事に誘った。もちろん、心の中の予行練習は何度もこなしている。
ーーそいえば、お腹すいてる。
「行く」
サオリは即答した。
ーーやったーっ !
なんだかんだいっても、一緒に食事をするのは初めてだ。ギンジロウは、嬉しくて手が震えた。
着いたお店はスポーティー。青い看板が目印の、大きなオープンレストランだ。
ーーあっ。さっきのフリーメイソンのおじいさんが行くって言ってたとこ。
おじいさんが豪勢だと言っていたので、かなりいい店なのだろう。
ーーせっかくオーストラリアきたし、現地の料理食べよかな。
サオリは迷った。
「ここの名物はフィッシュアンドチップスだって」
ギンジロウが説明する。
ーーえっ! 名物!! 現地vs名物……。
結局、サオリは、名物のフィッシュアンドチップスを頼んだ。
ーーイギリスの元植民地で食べられるF&C。いつかロンドン行ったら、食べ比べできる。
やはり、名物という名前には勝てなかった。
ただ残念なことに、サオリは食にたいして、そこまで強い関心があるわけではなかった。生まれつき、食が細いからだ。正直、プロテイン一杯とチロルチョコひとつ食べれば一日もつ。ピーチーズに見せるための写真を撮り、がんばって三割ほど食べたところで、お腹がいっぱいになってしまった。
サオリは、油がついた手をもてあそびながら、ギンジロウと、明日の日程について話をした。
朝七時に出発。
夕方十七時までに到着予定。
十八時までに準備を終えて、十九時から調査隊と顔合わせ。
そこで打ち合わせをし、次の日から調査開始。
こんな感じだ。
少し早めの行動設計だが、二人とも失敗が嫌いなので、このくらいの余裕があってちょうどいい。
サオリは、何度も予定を確認することが大事だと思っていたので、こういう話は楽しかった。ギンジロウも、自分で楽しい話題が作れない。予定を確認するという名目の元、真剣な顔のサオリの横顔を見ながら食事ができることを幸せに思った。サオリが食べられなかったフィッシュアンドチップスを「食べて」と言われた時は、幸せの絶頂に達したほどだ。お腹も、幸せに比例してパンパンに膨んだが。
その日はそれで終わった。二人は早めに部屋に戻り、それぞれ瞑想と錬金術の修行をして眠った。クマオも疲れていたのだろう。ぬいぐるみのまま、起きることはなかった。