第81話 Farewell (別れ)
文字数 1,953文字
四月二十九日。五月雨の始まりだろうか。雨がしとしとと降っている。
「沙織。忘れ物はないか?」
ミハエルが聞く。
「うん。ない」
サオリは、この質問ほど意味のない質問はないと思っていた。そもそも出かける前に忘れ物があるなんてわかっていたら誰も忘れない。けれどもこの言葉は、ミハエルがサオリのことを大事に思っている証拠だ。ぶっきらぼうな語調の中にも温かみを感じる。サオリはそれ以上何も言わずに靴紐を結んだ。
クエストの契約を結んでからずっと、このクエストのことをミハエルに言おうかどうか迷っていた。ただ、ルールがあるし、チャタローやギンジロウでさえ止めようとしたこのクエストを、ミハエルが止めずに行かせてくれるとは思えなかった。
とはいえ、言わなければ、五月六日まで帰ってこないサオリを心配しないはずはない。そこで、部屋に手紙を置いておいた。サオリが帰ってこないことに気づくのは、おそらく今晩。その頃には旅に出ているので、引き戻されることはない。外国なので、電話も通じない。
「いってきます」
「ああ。早く帰ってくるんだぞ」
サオリはちらりと後ろを振り向いてうなづき、申し訳ない目つきにならないようにそっと扉を閉めた。門を出ると、目の前にアイゼンがいた。ジャージのフードをかぶり、寒そうにしている。アイゼンは、サオリに気づくと顔を上げた。
「おはよ」
サオリも手を挙げた。
「どしたの?」
アイゼンがやってくるなんて珍しい。しかも、自分が行こうとするこんな日に。
ーーもしかして、これから内緒のクエストに行くことがバレた? えっ? なんで?
サオリの鼓動は早まった。
「うん、ちょっと。虫の知らせ、とでもいうのかな? リアルカディアにいくんでしょ? たまには沙織と一緒に行きたいなと思って」
「うん」
サオリは二つ返事で答えた。ミハエルにも内緒で初めての長旅。助けてくれるものが誰もいないという初めての状況になってしまったことに、サオリは思った以上の不安を感じていた。二人は柔軟をした後、並んでゆっくりと、東京メソニックセンターまで走り始めた。
「沙織はゴールデンウィーク、なにするの?」
最初に口を開いたのはアイゼンだった。
ーーどこまで知ってんだろ?
サオリは正直には言えない。どう言おうかと迷った。
「クエスト? 修行?」
サオリは、アイゼンに聞かれるがままうなづいた。
しばらく時間を空けて、再びアイゼンが話しかける。
「私はね、KOKの入団試験を受けるの」
ーーやっぱり。
サオリは走りながらうなづいた。
「試験て凄く厳しいらしいし、どんな試験かもわからない。いつ終わるのかもわからない。そう考えたら、こんな大事なことは、沙織に先に伝えておかなきゃなって思ったの」
サオリは、アイゼンの後ろ向きな言葉を初めて聞いた。
「そりゃ、私の目標は政治家として世界に名を残すことだから、今回の試験に落ちても、また次のやり方を考えるだけ。リアルカディアに入りたかったら、ダビデ家以外の十三血流といわれている名家に、片っ端から自分を売りに行くのもアリだわ」
アイゼンは独り言のように、前を向いて話し続けている。
「でも、失敗したら、しばらくはリアルカディアに来られなくなる。これだけ大きな機会を失うというのは、やっぱり不安」
「剣道の時より?」
アイゼンは、全国女子剣道大会優勝と今回を比べるの?とばかりに、大きな目をさらに見開いて驚いてみせた。
「剣道? あれはどうすれば優勝できるか考えられるし、日本ぽいことをして名前を売ることが目的だったから。全国大会に出たところまでですでに最低目標は達成されていたんだもの。優勝はおまけ。簡単だし、失敗する気もしなかったわ。でも、今回の試験はどんなものかわからないし、いつ終わるかもわからない。対策が練れないところが不安なの」
「でも、アイちゃんて、すぐにその場で対策練れるじゃん」
ーーそう見られてるんだ。
「そうだけど…」
アイゼンは、気弱なところを見せられなかった。
赤信号にあたる。
アイゼンは、その場駆け足をせずに足を止めた。心臓に悪いことはわかっているが、サオリもつられて足を止める。
ーーどしたの?
「沙織」
アイゼンはサオリと向き合って、サオリを思い切り抱きしめた。
「お互い死なないようにね。何があっても死なないことだけ考えて、絶対に生き延びようね」
アイゼンの真剣すぎる言葉に、サオリは唾も飲み込めないほど喉が渇いていた。控えめにうなづくサオリの肩に、アイゼンの震えが伝染する。
信号が青になった。
あまりの真剣さに少しひかれていることに気づいたアイゼンは、ゆっくりと手を離し、先ほどより少し速めに走り始めた。サオリはその背中を見ながら、再び会えなくなるのではないかという悪い予感を何故か感じていた。
「沙織。忘れ物はないか?」
ミハエルが聞く。
「うん。ない」
サオリは、この質問ほど意味のない質問はないと思っていた。そもそも出かける前に忘れ物があるなんてわかっていたら誰も忘れない。けれどもこの言葉は、ミハエルがサオリのことを大事に思っている証拠だ。ぶっきらぼうな語調の中にも温かみを感じる。サオリはそれ以上何も言わずに靴紐を結んだ。
クエストの契約を結んでからずっと、このクエストのことをミハエルに言おうかどうか迷っていた。ただ、ルールがあるし、チャタローやギンジロウでさえ止めようとしたこのクエストを、ミハエルが止めずに行かせてくれるとは思えなかった。
とはいえ、言わなければ、五月六日まで帰ってこないサオリを心配しないはずはない。そこで、部屋に手紙を置いておいた。サオリが帰ってこないことに気づくのは、おそらく今晩。その頃には旅に出ているので、引き戻されることはない。外国なので、電話も通じない。
「いってきます」
「ああ。早く帰ってくるんだぞ」
サオリはちらりと後ろを振り向いてうなづき、申し訳ない目つきにならないようにそっと扉を閉めた。門を出ると、目の前にアイゼンがいた。ジャージのフードをかぶり、寒そうにしている。アイゼンは、サオリに気づくと顔を上げた。
「おはよ」
サオリも手を挙げた。
「どしたの?」
アイゼンがやってくるなんて珍しい。しかも、自分が行こうとするこんな日に。
ーーもしかして、これから内緒のクエストに行くことがバレた? えっ? なんで?
サオリの鼓動は早まった。
「うん、ちょっと。虫の知らせ、とでもいうのかな? リアルカディアにいくんでしょ? たまには沙織と一緒に行きたいなと思って」
「うん」
サオリは二つ返事で答えた。ミハエルにも内緒で初めての長旅。助けてくれるものが誰もいないという初めての状況になってしまったことに、サオリは思った以上の不安を感じていた。二人は柔軟をした後、並んでゆっくりと、東京メソニックセンターまで走り始めた。
「沙織はゴールデンウィーク、なにするの?」
最初に口を開いたのはアイゼンだった。
ーーどこまで知ってんだろ?
サオリは正直には言えない。どう言おうかと迷った。
「クエスト? 修行?」
サオリは、アイゼンに聞かれるがままうなづいた。
しばらく時間を空けて、再びアイゼンが話しかける。
「私はね、KOKの入団試験を受けるの」
ーーやっぱり。
サオリは走りながらうなづいた。
「試験て凄く厳しいらしいし、どんな試験かもわからない。いつ終わるのかもわからない。そう考えたら、こんな大事なことは、沙織に先に伝えておかなきゃなって思ったの」
サオリは、アイゼンの後ろ向きな言葉を初めて聞いた。
「そりゃ、私の目標は政治家として世界に名を残すことだから、今回の試験に落ちても、また次のやり方を考えるだけ。リアルカディアに入りたかったら、ダビデ家以外の十三血流といわれている名家に、片っ端から自分を売りに行くのもアリだわ」
アイゼンは独り言のように、前を向いて話し続けている。
「でも、失敗したら、しばらくはリアルカディアに来られなくなる。これだけ大きな機会を失うというのは、やっぱり不安」
「剣道の時より?」
アイゼンは、全国女子剣道大会優勝と今回を比べるの?とばかりに、大きな目をさらに見開いて驚いてみせた。
「剣道? あれはどうすれば優勝できるか考えられるし、日本ぽいことをして名前を売ることが目的だったから。全国大会に出たところまでですでに最低目標は達成されていたんだもの。優勝はおまけ。簡単だし、失敗する気もしなかったわ。でも、今回の試験はどんなものかわからないし、いつ終わるかもわからない。対策が練れないところが不安なの」
「でも、アイちゃんて、すぐにその場で対策練れるじゃん」
ーーそう見られてるんだ。
「そうだけど…」
アイゼンは、気弱なところを見せられなかった。
赤信号にあたる。
アイゼンは、その場駆け足をせずに足を止めた。心臓に悪いことはわかっているが、サオリもつられて足を止める。
ーーどしたの?
「沙織」
アイゼンはサオリと向き合って、サオリを思い切り抱きしめた。
「お互い死なないようにね。何があっても死なないことだけ考えて、絶対に生き延びようね」
アイゼンの真剣すぎる言葉に、サオリは唾も飲み込めないほど喉が渇いていた。控えめにうなづくサオリの肩に、アイゼンの震えが伝染する。
信号が青になった。
あまりの真剣さに少しひかれていることに気づいたアイゼンは、ゆっくりと手を離し、先ほどより少し速めに走り始めた。サオリはその背中を見ながら、再び会えなくなるのではないかという悪い予感を何故か感じていた。