第4話 P-tube (ピーチューブ)
文字数 2,021文字
廊下は静まり返り、先ほどよりも冬の寒さを倍増させている。生徒はほとんど帰ったようだ。蛍光灯だけがやけにニジニジと光を放っている。
教室の電気は見える限り消えているが、四階まで降りると一部屋だけ明るい教室がある。サオリたちの教室、1年G組だ。
ーーカメ達、面白い演出を考えてくれたかな?
教室の扉に手をかける。隙間から流れてくる教室の空気があたたかい。サオリは、自分の体がすっかり冷えきっていることを知った。
ーーん? 後ろから誰か来る?
サオリは仙術を習っているので、五感が発達している。親しい間柄なら目で見なくても誰だかわかる。歩幅。呼吸の位置。足の大きさ。この感覚は間違いない。カメだ。
ーー演出の一環に違いない。
サオリは気がつかないふりをして、教室に入った。
教室の机はほとんどが端にどかされ、四卓だけが真ん中に固められている。固められた机には青いテーブルかけ。上にはリボンで包まれた大きな箱が置いてある。カーテンには折り紙で作られた輪っかのロープがいくつもの半円を描きながら垂れ下がっている。黒板には、『沙織! お誕生日おめでとう!』という文字とともに、ピーチーズそれぞれからのメッセージが書かれている。端にはSNSに投稿するためのカメラ機材も準備されている。だが、教室には誰もいない。
ーーさて、どんなサプライズが待っているのかな?
サオリは楽しい気分で教室を見回した。
そっと近づいてきていたカメは、真後ろに立つと、サオリの小さな体に勢いよく覆いかぶさってきた。人の温もりというのは恥ずかしいが、同時に優しくもある。親友ともなればなおさらだ。
けれども、すぐにサオリは違和感を覚えた。
ーー普通は抱きついた瞬間に、「おめでとう!」て声をかけてくれるはずじゃないかしらん?
ところがカメは、無言で沙織にしがみついてくる。息苦しくなるほど力が強い。
ーーははぁん。いきなり襲いかかって無言モードとはこれいかに?
サオリは斬新な演出だなと感心した。
だが、祝い事はベタでいい。「だーれー?」なんて驚いて、「あ、カメだ!」なんてホッとして、みんなが出てきて笑い合うのがいい。動画としてはあまり面白くないかもしれないが、古典的もたまには重要だ。
サオリは嬉しい態度を見せないように、表情を変えずに振り向いた。
そこにはいつも通りのカメの笑顔があった。
と思っていた。
が、予想は外れた。
そこには見たことがないほど鬼気迫った表情のカメがいた。目は血走り、口からは泡を吹いている。
カメは、ただひたすらにサオリにしがみついてきた。
ーーちょっと! 抱擁がすぎるのじゃ。
サオリはねこじゃらしのように体をくねらせた。だが逃げられない。
仙術をたしなんでいるサオリが体をくねらせても逃げられないほどの抱擁。これは遊びレベルの抱擁ではない。狩人がイノシシを捕まえるレベルの抱擁だ。
サオリは遊びの延長線を少し超えた仙体術を使用することにした。
カメの動きに合わせて合気道のように体を動かす。ここまでやればさすがに解ける。
サオリは、地面に転がったカメと相対した。
カメはサオリを見ながらゆっくりと立ち上がる。
いつも通り、制服を崩すことなくきちんと着ている。短めの黒髪もいつも通りのサラサラだ。
ただ、表情だけはいつも通りではない。
まるで麻薬を大量に吸い込んだかのような顔をしている。とはいっても麻薬中毒者を見たことはないのだが。
「どしたの?」
聞いてもカメは答えない。
瞳孔を開き、口からヨダレを垂らしながら、ただじっとサオリを見つめている。
こんな状況は初めてだ。
ーーゾンビの真似事でサプライズしようというのなら、今日はハロウィンじゃなくてアタピの誕生日だよって教えてあげなくちゃ。しかし、演技うまいな。ハリウッドスター目指すことをオススメしちゃう。
サオリはカメの動きを注視しながら、そんな軽口を心の中でつぶやいた。
ーーけど…。
サオリの脳裡には、あり得ない考えが浮かんでいた。
ーーいや。そんなはずがある訳がない。
非常識な考えだということはわかっている。だが、何度消そうとしてもありえない考えは浮き上がってくる。サオリは首を振って否定した。
ーーどんなにカメの様子が変だからってゾンビになんかなるはずない。あれは1968年にジョージ・ロメロが考えた空想上の怪物だ。これは絶対にカメの演技で、桃の演出以外なにものでもない。それ以外考えられない。けど…、目の前のカメはどうしても演技だと思えない。どゆこと? もはや思考の八方塞がり。海亀の涙がつまった宝石箱や。
カメはそれ以上考える時間をくれなかった。ショートカットの髪が風もないのになびく。カメは激しく突進してくる。
サオリは当たるギリギリを狙って避け、そのまま廊下に飛び出した。
カメはバランスを崩して壁に激突したが、すぐに立ち上がり、まるで糸でもついているかのように逃げるサオリの後を追ってきた。
教室の電気は見える限り消えているが、四階まで降りると一部屋だけ明るい教室がある。サオリたちの教室、1年G組だ。
ーーカメ達、面白い演出を考えてくれたかな?
教室の扉に手をかける。隙間から流れてくる教室の空気があたたかい。サオリは、自分の体がすっかり冷えきっていることを知った。
ーーん? 後ろから誰か来る?
サオリは仙術を習っているので、五感が発達している。親しい間柄なら目で見なくても誰だかわかる。歩幅。呼吸の位置。足の大きさ。この感覚は間違いない。カメだ。
ーー演出の一環に違いない。
サオリは気がつかないふりをして、教室に入った。
教室の机はほとんどが端にどかされ、四卓だけが真ん中に固められている。固められた机には青いテーブルかけ。上にはリボンで包まれた大きな箱が置いてある。カーテンには折り紙で作られた輪っかのロープがいくつもの半円を描きながら垂れ下がっている。黒板には、『沙織! お誕生日おめでとう!』という文字とともに、ピーチーズそれぞれからのメッセージが書かれている。端にはSNSに投稿するためのカメラ機材も準備されている。だが、教室には誰もいない。
ーーさて、どんなサプライズが待っているのかな?
サオリは楽しい気分で教室を見回した。
そっと近づいてきていたカメは、真後ろに立つと、サオリの小さな体に勢いよく覆いかぶさってきた。人の温もりというのは恥ずかしいが、同時に優しくもある。親友ともなればなおさらだ。
けれども、すぐにサオリは違和感を覚えた。
ーー普通は抱きついた瞬間に、「おめでとう!」て声をかけてくれるはずじゃないかしらん?
ところがカメは、無言で沙織にしがみついてくる。息苦しくなるほど力が強い。
ーーははぁん。いきなり襲いかかって無言モードとはこれいかに?
サオリは斬新な演出だなと感心した。
だが、祝い事はベタでいい。「だーれー?」なんて驚いて、「あ、カメだ!」なんてホッとして、みんなが出てきて笑い合うのがいい。動画としてはあまり面白くないかもしれないが、古典的もたまには重要だ。
サオリは嬉しい態度を見せないように、表情を変えずに振り向いた。
そこにはいつも通りのカメの笑顔があった。
と思っていた。
が、予想は外れた。
そこには見たことがないほど鬼気迫った表情のカメがいた。目は血走り、口からは泡を吹いている。
カメは、ただひたすらにサオリにしがみついてきた。
ーーちょっと! 抱擁がすぎるのじゃ。
サオリはねこじゃらしのように体をくねらせた。だが逃げられない。
仙術をたしなんでいるサオリが体をくねらせても逃げられないほどの抱擁。これは遊びレベルの抱擁ではない。狩人がイノシシを捕まえるレベルの抱擁だ。
サオリは遊びの延長線を少し超えた仙体術を使用することにした。
カメの動きに合わせて合気道のように体を動かす。ここまでやればさすがに解ける。
サオリは、地面に転がったカメと相対した。
カメはサオリを見ながらゆっくりと立ち上がる。
いつも通り、制服を崩すことなくきちんと着ている。短めの黒髪もいつも通りのサラサラだ。
ただ、表情だけはいつも通りではない。
まるで麻薬を大量に吸い込んだかのような顔をしている。とはいっても麻薬中毒者を見たことはないのだが。
「どしたの?」
聞いてもカメは答えない。
瞳孔を開き、口からヨダレを垂らしながら、ただじっとサオリを見つめている。
こんな状況は初めてだ。
ーーゾンビの真似事でサプライズしようというのなら、今日はハロウィンじゃなくてアタピの誕生日だよって教えてあげなくちゃ。しかし、演技うまいな。ハリウッドスター目指すことをオススメしちゃう。
サオリはカメの動きを注視しながら、そんな軽口を心の中でつぶやいた。
ーーけど…。
サオリの脳裡には、あり得ない考えが浮かんでいた。
ーーいや。そんなはずがある訳がない。
非常識な考えだということはわかっている。だが、何度消そうとしてもありえない考えは浮き上がってくる。サオリは首を振って否定した。
ーーどんなにカメの様子が変だからってゾンビになんかなるはずない。あれは1968年にジョージ・ロメロが考えた空想上の怪物だ。これは絶対にカメの演技で、桃の演出以外なにものでもない。それ以外考えられない。けど…、目の前のカメはどうしても演技だと思えない。どゆこと? もはや思考の八方塞がり。海亀の涙がつまった宝石箱や。
カメはそれ以上考える時間をくれなかった。ショートカットの髪が風もないのになびく。カメは激しく突進してくる。
サオリは当たるギリギリを狙って避け、そのまま廊下に飛び出した。
カメはバランスを崩して壁に激突したが、すぐに立ち上がり、まるで糸でもついているかのように逃げるサオリの後を追ってきた。