第2話 True Colors (正体)
文字数 1,933文字
ーーこの足音は……。
重い靴音だ。筋肉量も多い。男だ。雙葉学園は女子校。男なら清掃員か警備員か先生しかいない。清掃員なら歩く時に器具同士が当たる音が聞こえる。警備員なら巡回なので、辺りを見ながらゆっくりと上がってくる。ところが足音は一直線にこちらに向かってくる。しかも革靴。ということは先生に違いない。
ーー放課後の閉められた屋上には誰も来ないと思ったが、まさか先生がやって来るとは、ね。
サオリにとっては予想外だった。
「徳においては純真に 義務においては堅実に」
こんな校訓があるくらい雙葉学園は礼儀に厳しい。サオリはバネ仕掛けのように立ち上がり、ダッフルコートについたホコリをはたいた。コートの襟には自作の小人ワッペンが貼られているが、個性を尊重している学校でもあるので怒られないだろう。
ーーしかしこういう時はどういう態勢でどういう顔をすればいいのだろう。
先生が来るぞと身構えるのも違う。逃げ出すような悪いこともしていない。かといって、何をしていたのかと聞かれても答えようがない。隠れようかなとも思ったが、見つかった時には逆に面倒だ。結果、サオリは不自然なくらい堂々とただそこに立っていた。
足音は階段を登りきった。
大柄の男性。マルチーズのようにフワッフワに垂れ下がった白いパーマ。優しさの中に憂を備えた彫りの深いドイツ人特有の顔つき。フリルのついた白いシャツ。暗めのスーツに身を包んでいる。足音の正体は雙葉学園唯一の音楽教師、クリスティアン・ゴッドロープ・ネーフェだった。
ーーネーフェしぇんしぇーかい!
サオリが所属している音楽部の顧問だ。サオリとは仲が良い。ネーフェは踊り場まで上がってくると、番長のように堂々と立っているサオリと目が合った。ネーフェの白くて太い眉毛が大きく垂れ下がる。
「フロイライン沙織。あなたでしたか」
ネーフェは誰に対しても敬語だが、日本語はかなりうまい。サオリはうなづいた。
「こんなところでどうしたのですか?」
「教室でサプライズの準備してるから、呼ばれるまで待っててて言われた」
「サプライズ?」
「アタピ、今日誕生日」
ネーフェは目と口を同時に見開いた。
「なるほど。それはおめでとうございます」
「ありがと」
サオリは上品ぶって、両手でダッフルコートの裾(すそ)をつまみ、軽く腰を落としてネーフェに会釈した。ネーフェは微笑む。
「そういえぱフロイライン沙織。あなたはアルカディアという言葉を知てますか?」
ーーとーとつ。
ネーフェは流れとは関係のなさそうな話を良くする。けれども話を聞くと、最後には意味がわかる。ドイツとの文法の差なのだろうか。日本語とは話す順番が違うことが多い。今回もそうなのだろう。サオリは気にせず答えた。
「アルカディア。理想郷て意味」
「どこで知たのですか?」
「英単語帳2000」
ネーフェは一度うなづいて次の質問をした。
「では、ファンタジーという言葉を知てますか?」
「ファンタジー。空想、幻想です」
「それは?」
「英単語帳のファースト300に載ってました」
「そうですか。わかりました。よく知てましたね」
アルカディアという単語は日本人にはあまり馴染みがない。けどファンタジーはさすがに誰でも知っている。
ーーん?
ここまで聞けば普通はネーフェが何を言いたいのかが分かる。だが、今回に限っては質問の意図がまったくわからない。サオリは眉をしかめて素っ頓狂な顔になった。
ネーフェは日本育ちではない。空気を読まない文化に生まれ育っている。そんなネーフェでもサオリの表情の変化にはさすがに気づく。慌てて優雅に言葉を付け加えた。
「あ。みんなにはまだ言てないですが、次回の課題曲は、アルカディア四重奏団の演奏をオーケストラ風にアレンジした壮大なファンタジー曲にする予定です。意味を知てたらイメージもつけやすい。今回の曲は、パーカッションが肝となております。フロイライン沙織。次もレギュラー、がんばてくださいね」
ーーそういうことか! アタピ、パーカッション担当だから、がんばてねという激励をしてくれたって訳ね!!
サオリは無表情なまま小さな歯を見せ、精一杯口の端を拡げた。いつもする笑顔のポーズ、サオちゃんスマイルだ。「あまり笑わないね」と友達に言われて、「こうしたらいいの?」とムキになっておこなった時にたまたま開発されたこの表情を、サオリは非常に気に入っていた。
もちろん、ネーフェはそれが「了承した」という意味だとわかっている。ネーフェもこちらは普通に優しく微笑んだ。
「誕生日パーティ、早めに済ませるんですよ、フロイライン沙織。アレス・リーベ・ツム・ゲブルツターク」
ネーフェは安心した顔を見せて、階段をゆっくりと降りていった。
重い靴音だ。筋肉量も多い。男だ。雙葉学園は女子校。男なら清掃員か警備員か先生しかいない。清掃員なら歩く時に器具同士が当たる音が聞こえる。警備員なら巡回なので、辺りを見ながらゆっくりと上がってくる。ところが足音は一直線にこちらに向かってくる。しかも革靴。ということは先生に違いない。
ーー放課後の閉められた屋上には誰も来ないと思ったが、まさか先生がやって来るとは、ね。
サオリにとっては予想外だった。
「徳においては純真に 義務においては堅実に」
こんな校訓があるくらい雙葉学園は礼儀に厳しい。サオリはバネ仕掛けのように立ち上がり、ダッフルコートについたホコリをはたいた。コートの襟には自作の小人ワッペンが貼られているが、個性を尊重している学校でもあるので怒られないだろう。
ーーしかしこういう時はどういう態勢でどういう顔をすればいいのだろう。
先生が来るぞと身構えるのも違う。逃げ出すような悪いこともしていない。かといって、何をしていたのかと聞かれても答えようがない。隠れようかなとも思ったが、見つかった時には逆に面倒だ。結果、サオリは不自然なくらい堂々とただそこに立っていた。
足音は階段を登りきった。
大柄の男性。マルチーズのようにフワッフワに垂れ下がった白いパーマ。優しさの中に憂を備えた彫りの深いドイツ人特有の顔つき。フリルのついた白いシャツ。暗めのスーツに身を包んでいる。足音の正体は雙葉学園唯一の音楽教師、クリスティアン・ゴッドロープ・ネーフェだった。
ーーネーフェしぇんしぇーかい!
サオリが所属している音楽部の顧問だ。サオリとは仲が良い。ネーフェは踊り場まで上がってくると、番長のように堂々と立っているサオリと目が合った。ネーフェの白くて太い眉毛が大きく垂れ下がる。
「フロイライン沙織。あなたでしたか」
ネーフェは誰に対しても敬語だが、日本語はかなりうまい。サオリはうなづいた。
「こんなところでどうしたのですか?」
「教室でサプライズの準備してるから、呼ばれるまで待っててて言われた」
「サプライズ?」
「アタピ、今日誕生日」
ネーフェは目と口を同時に見開いた。
「なるほど。それはおめでとうございます」
「ありがと」
サオリは上品ぶって、両手でダッフルコートの裾(すそ)をつまみ、軽く腰を落としてネーフェに会釈した。ネーフェは微笑む。
「そういえぱフロイライン沙織。あなたはアルカディアという言葉を知てますか?」
ーーとーとつ。
ネーフェは流れとは関係のなさそうな話を良くする。けれども話を聞くと、最後には意味がわかる。ドイツとの文法の差なのだろうか。日本語とは話す順番が違うことが多い。今回もそうなのだろう。サオリは気にせず答えた。
「アルカディア。理想郷て意味」
「どこで知たのですか?」
「英単語帳2000」
ネーフェは一度うなづいて次の質問をした。
「では、ファンタジーという言葉を知てますか?」
「ファンタジー。空想、幻想です」
「それは?」
「英単語帳のファースト300に載ってました」
「そうですか。わかりました。よく知てましたね」
アルカディアという単語は日本人にはあまり馴染みがない。けどファンタジーはさすがに誰でも知っている。
ーーん?
ここまで聞けば普通はネーフェが何を言いたいのかが分かる。だが、今回に限っては質問の意図がまったくわからない。サオリは眉をしかめて素っ頓狂な顔になった。
ネーフェは日本育ちではない。空気を読まない文化に生まれ育っている。そんなネーフェでもサオリの表情の変化にはさすがに気づく。慌てて優雅に言葉を付け加えた。
「あ。みんなにはまだ言てないですが、次回の課題曲は、アルカディア四重奏団の演奏をオーケストラ風にアレンジした壮大なファンタジー曲にする予定です。意味を知てたらイメージもつけやすい。今回の曲は、パーカッションが肝となております。フロイライン沙織。次もレギュラー、がんばてくださいね」
ーーそういうことか! アタピ、パーカッション担当だから、がんばてねという激励をしてくれたって訳ね!!
サオリは無表情なまま小さな歯を見せ、精一杯口の端を拡げた。いつもする笑顔のポーズ、サオちゃんスマイルだ。「あまり笑わないね」と友達に言われて、「こうしたらいいの?」とムキになっておこなった時にたまたま開発されたこの表情を、サオリは非常に気に入っていた。
もちろん、ネーフェはそれが「了承した」という意味だとわかっている。ネーフェもこちらは普通に優しく微笑んだ。
「誕生日パーティ、早めに済ませるんですよ、フロイライン沙織。アレス・リーベ・ツム・ゲブルツターク」
ネーフェは安心した顔を見せて、階段をゆっくりと降りていった。