第20話 Crack Classic (クラッシックを打ち破れ)
文字数 4,065文字
サオリはユキチの親指の付け根を強く押した。ユキチの手が開き、クルクルクラウンは簡単にサオリの手に戻る。すぐ左手首に巻きつける。
ーーなぜアルカディアンがフロイライン沙織の味方をしているのだ? これでは言い訳もできない。
ネーフェはクマオを見ながら唖然とした顔をし、ドイツ語で何かをつぶやいていた。明らかに困惑している。アイゼンはその隙をついた。教室の中に飛び込み、あっという間にネーフェの手から指揮棒を奪い取った。
ーーしまった。フロイライン愛染がガイルタクトを触った瞬間に発動すれば、彼女を操れたのに。
ネーフェは一瞬の隙を悔やんだ。
アイゼンは最初、人を操れる腕輪があると仮定して動いていた。だが、ネーフェは腕輪をつけていない。装身具は十字架のネックレスだけだ。そこで、ネーフェの全体に違和感がないかを探した。仙術でいう『行動の残り香』というやつだ。
探してみるとネーフェは指揮棒を握っていた。いくら音楽家とはいえ、今までピアノを弾いていたのにすぐタクトを持つのはおかしい。よほど重要なものでなければ持たないはずだ。その時、クマオが叫んだ「使用ファンタジーはガイルタクト」という一言。その言葉でアイゼンの予想は確信へと変わり、素早く指揮棒を奪いに飛び出したのだ。
タクトを奪われたネーフェはそのままアイゼンに腕関節を決められそうになったので、一回転をして難を逃れた。
アイゼンは追撃してネーフェの肩関節を固め、地面に押し倒そうと思った。だが還暦近いとはいえ二メートル近いネーフェだ。触った瞬間にどのくらいの筋力を持っているのかがわかった。油断していない時に押さえきれるほどの実力差はないと判断し、アイゼンは腕を離して間合いをとった。
「なんで?」
半身になって屈んでいるネーフェにサオリがたずねる。サオリはネーフェのことを尊敬していた。音楽の師であり、人間としても優しく、努力家でもあったから。なによりサオリがネーフェのことを好きなように、ネーフェもまたサオリに目をかけてくれていると信じていた。この三年間ずっとだ。それがまさか自分のことを襲ってくるだなんて。
サオリはまだ、どこか信じられない気持ちだった。
ネーフェはゆっくりと立ち上がった。ドイツ人の中でも大柄だ。身長百九十五センチ。体重も百三十キロを超えている。サオリの頭三つ上から、いつものように優雅な口調で語りかけた。
「なぜ私があなたの腕輪を奪おうと思たか。その理由をお教えしまそう」
ネーフェはパーマをかきあげて続けた。
「その腕輪は本来、我々キリスト教徒のモノだからですよ、フロイライン沙織」
「アタピ、パパからもらった。これ、パパの形見」
「ナイン。その腕輪は旧約聖書にも載てる、由緒正しい聖遺物です。十年前にバチカン市国から盗まれました。灰は灰へ。塵は塵へ。土は土へ。あるべきものはあるべきところへ返さなければなりません。私はフロイライン沙織のことが好きだから、なるべく穏便に済ませたかた。そして明日からまた、何食わぬ顔で共に音楽を奏でたかたのです。けれどもどうやらそういうわけにはいかないようですね」
ネーフェの目は真剣だ。青く澄んだ瞳で、強くサオリを見つめ返してくる。
サオリはネーフェから、「美しい心で演奏すると美しい音楽を奏でられますよ」と教わったことを思い出していた。
ーーそれなのにアタピを襲って、また次の日から平然とした顔で音楽を奏でることができるだなんて。しぇんしぇ。一体どうしちゃったの?
サオリはネーフェも誰かに操られていて欲しいと望みながら、泣きそうな気持ちを押し殺して言葉を返した。
「どうしても奪うんですか?」
「ヤー。その腕輪はバチカン市国から盗まれたものなのです。返していただけないのなら仕方がありません。私も乱暴を働きたくはありませんが大事なものでしてね。それに」
ネーフェは大きなガラス窓に目をやった。
「腕輪から出ているオーラを感じて、他の組織もフロイライン沙織を狙てるようです。彼らは私よりももと強引な手段で腕輪を奪うでせう。フロイライン沙織に大怪我をさせるかもしれません。そんなことは許せない。そうなる前に」
息を吐く。ネーフェの青い目の色がさらに深い青に変わる。明らかに雰囲気も違う。
「私がその腕輪を封印しなくてはならない。アーメン」
「モードアルケミストや」
クマオがつぶやく。知らない単語が出たが、今のサオリには心の余裕がない。バチカンから盗まれたというネーフェ。マサヒロの形見だと思っていた自分。どちらが正しいのか、サオリは測りかねていた。
アイゼンは廊下に置いておいた竹刀を手にとり、ネーフェから流れてくる空気の変化に対して自然と構える。ネーフェは臨戦体制のアイゼンには目もくれず、目を細めながら、サオリに向かってゆっくりと大股で向かっていった。まるで野良猫の警戒心をときながら近づく時のような、優しい優しい歩き方だ。
「先生のタクトを持っているのは私です !」
アイゼンはサオリとネーフェの間に割り込んだ。
「そうですね。それも返していただきたい」
ネーフェはいつも通りヒョウヒョウとしているように見える。だが、アイゼンの殺気に反応した瞬間の気配は大型獣のそれに匹敵した。
ーー体が警鐘を鳴らしている。
アイゼンは上下に軽く揺れながら喉を鳴らし、自分の理性を解除するために自分自身に向かってつぶやいた。
「それ以上沙織に近づくのなら…。攻撃します!」
全国大会優勝レベルのアイゼンが本気で攻撃をするというのは、目の前にいる相手を確実に傷つけるということだ。学年が違うために直接ネーフェから授業を受けたことはないが、もちろん人を傷つけることには大きな抵抗がある。試合ではないのだ。そして、教師に暴力を行使することは経歴にも傷がついてしまう。合格している東大にも入学できないかもしれない。それでも覚悟を決めたのは、サオリの命に大きな危険を感じたからに他ならなかった。
ネーフェは寝起きのライオンが如く無造作に歩を進める。
アイゼンは意を決した。一度決めると他に何も考えなくなる集中力がアイゼンの強みだ。
「キェェェェェェェッ」
アイゼンは気合いとともに閃光のような一歩を踏み出した。次の瞬間、ネーフェの右手の甲はアイゼンの竹刀に強く撃ち抜かれる。剣道は人体の弱点を竹刀で撃ち抜く武道だ。手の甲なんて痛くないような気もするが、実際は防具をつけていても一発で手が腫れ上がってしまう。強烈な攻撃だ。しかもネーフェは素手。皮が裂け肉が割れ、場合によっては骨が折れてもおかしくはない。
パァーン。
乾いた強烈な破裂音。無残な音。
だが、あっけらかんと何も無かったかのような顔をして、ネーフェはさらに一歩サオリに向かって進んでいく。
アイゼンは一瞬も止まらない。勢いを殺さずネーフェに体当たりした。
小手から体当たり。相手の体勢を崩して再度攻撃。剣道ではよくある技だ。
アイゼンの体当たりは凄まじい。低い重心から繰り出される強烈なカチコミは、ちょっとした選手なら派手に吹き飛ぶ。
だが、ネーフェに避ける様子はない。
ーー当たった!
瞬間、大きく弾き飛ばされたのはアイゼンだった。
「イスダスオーケー?」
ネーフェにはアイゼンを心配する余裕すらある。
アイゼンは体の中身の全てが真っ暗になったような感覚がしたが、すぐに意識を取り戻し、痺れた体をじっと耐えた。
ーー大丈夫か? 私の体。
体に鞭打ち体勢を立て直し、アイゼンは再びネーフェに向かっていく。
「キェェェイ!」
バチーン。
アイゼンはネーフェの脇腹を鋭く打ち抜いた。そのまま後ろに駆け抜ける。
ーーさあどうだ。
振り向いてネーフェを見る。
ーーこれだけぶつかってきてくれるのならば、フロイライン愛染は勝手に怪我をして動けなくなるでしょう。ここはまず、フロイライン沙織から押さえましょう。
ネーフェはアイゼンを振り返りもせず、サオリに向かってなおも歩みを進めている。
ーーまったく効いてない!
ただ、相手に対して驚いたからといって問題解決には繋がらない。アイゼンは驚く気持ちを押し殺して、冷静な分析を開始した。
一方、それを間近で見ていたサオリは、今すぐに靴を脱ぎ捨ててでも一目散に逃げだしたかった。アイゼンの攻撃が効かないのなら何をやっても効果はない。
だが、サオリの足下にはユキチが横たわっている。アイゼンがガイルタクトを奪った時に操られていた効果が切れたのだろう。気絶しているように動かない。
クマオが一生懸命引きずろうとしているが、ぬいぐるみに女子高生を引っ張る力はない。そもそもクマオの力では、チワワ一匹引っ張るのでさえ怪しいところだ。
「沙織! 先生の狙いは沙織だ! 友達は問題ない! 離れるんだ!」
ーーでも人質に取られちゃったら…。
サオリは困った目でアイゼンを見た。
「私がその子を守るから。沙織は逃げてミハエルと連絡を取ってくれ !」
ミハエルとはマサヒロの大親友でサオリとアイゼンの仙術の師匠である。サオリの家に間借りして暮らしている。ロシア生まれの元冒険家。二人の知る限り一番強く、一番頼れる人間だ。
ーー逃げる ?
サオリはアイゼンの一言で火がついた。
ーー誰かを呼ばれるのは良くないですね。
アイゼンの言葉でネーフェの動きが早まった。
ーーよし。
ネーフェの動きを見て、サオリは瞬時に飛び跳ねた。まるでウサギが月で遊んでいるかのように。ただし逃げ出すためではない。音楽室に入り、教壇の近くへ。ネーフェから逃げず、逆に虎穴の中へと飛び込んでいった。
「沙織?」
サオリはアイゼンから「逃げろ」と言われたらどうしても逃げたくなくなる。アイゼンにだけは負けたくない。アイゼンにだけは情けをかけられたくない。そういう性格だ。アイゼンはそのことに気づかなかった。
ただ、ネーフェの動きについてはアイゼンの予想通りだった。ネーフェはユキチを一瞥しただけで人質に取ろうとはしない。逃げたサオリを追って振り向いた。
ーーなぜアルカディアンがフロイライン沙織の味方をしているのだ? これでは言い訳もできない。
ネーフェはクマオを見ながら唖然とした顔をし、ドイツ語で何かをつぶやいていた。明らかに困惑している。アイゼンはその隙をついた。教室の中に飛び込み、あっという間にネーフェの手から指揮棒を奪い取った。
ーーしまった。フロイライン愛染がガイルタクトを触った瞬間に発動すれば、彼女を操れたのに。
ネーフェは一瞬の隙を悔やんだ。
アイゼンは最初、人を操れる腕輪があると仮定して動いていた。だが、ネーフェは腕輪をつけていない。装身具は十字架のネックレスだけだ。そこで、ネーフェの全体に違和感がないかを探した。仙術でいう『行動の残り香』というやつだ。
探してみるとネーフェは指揮棒を握っていた。いくら音楽家とはいえ、今までピアノを弾いていたのにすぐタクトを持つのはおかしい。よほど重要なものでなければ持たないはずだ。その時、クマオが叫んだ「使用ファンタジーはガイルタクト」という一言。その言葉でアイゼンの予想は確信へと変わり、素早く指揮棒を奪いに飛び出したのだ。
タクトを奪われたネーフェはそのままアイゼンに腕関節を決められそうになったので、一回転をして難を逃れた。
アイゼンは追撃してネーフェの肩関節を固め、地面に押し倒そうと思った。だが還暦近いとはいえ二メートル近いネーフェだ。触った瞬間にどのくらいの筋力を持っているのかがわかった。油断していない時に押さえきれるほどの実力差はないと判断し、アイゼンは腕を離して間合いをとった。
「なんで?」
半身になって屈んでいるネーフェにサオリがたずねる。サオリはネーフェのことを尊敬していた。音楽の師であり、人間としても優しく、努力家でもあったから。なによりサオリがネーフェのことを好きなように、ネーフェもまたサオリに目をかけてくれていると信じていた。この三年間ずっとだ。それがまさか自分のことを襲ってくるだなんて。
サオリはまだ、どこか信じられない気持ちだった。
ネーフェはゆっくりと立ち上がった。ドイツ人の中でも大柄だ。身長百九十五センチ。体重も百三十キロを超えている。サオリの頭三つ上から、いつものように優雅な口調で語りかけた。
「なぜ私があなたの腕輪を奪おうと思たか。その理由をお教えしまそう」
ネーフェはパーマをかきあげて続けた。
「その腕輪は本来、我々キリスト教徒のモノだからですよ、フロイライン沙織」
「アタピ、パパからもらった。これ、パパの形見」
「ナイン。その腕輪は旧約聖書にも載てる、由緒正しい聖遺物です。十年前にバチカン市国から盗まれました。灰は灰へ。塵は塵へ。土は土へ。あるべきものはあるべきところへ返さなければなりません。私はフロイライン沙織のことが好きだから、なるべく穏便に済ませたかた。そして明日からまた、何食わぬ顔で共に音楽を奏でたかたのです。けれどもどうやらそういうわけにはいかないようですね」
ネーフェの目は真剣だ。青く澄んだ瞳で、強くサオリを見つめ返してくる。
サオリはネーフェから、「美しい心で演奏すると美しい音楽を奏でられますよ」と教わったことを思い出していた。
ーーそれなのにアタピを襲って、また次の日から平然とした顔で音楽を奏でることができるだなんて。しぇんしぇ。一体どうしちゃったの?
サオリはネーフェも誰かに操られていて欲しいと望みながら、泣きそうな気持ちを押し殺して言葉を返した。
「どうしても奪うんですか?」
「ヤー。その腕輪はバチカン市国から盗まれたものなのです。返していただけないのなら仕方がありません。私も乱暴を働きたくはありませんが大事なものでしてね。それに」
ネーフェは大きなガラス窓に目をやった。
「腕輪から出ているオーラを感じて、他の組織もフロイライン沙織を狙てるようです。彼らは私よりももと強引な手段で腕輪を奪うでせう。フロイライン沙織に大怪我をさせるかもしれません。そんなことは許せない。そうなる前に」
息を吐く。ネーフェの青い目の色がさらに深い青に変わる。明らかに雰囲気も違う。
「私がその腕輪を封印しなくてはならない。アーメン」
「モードアルケミストや」
クマオがつぶやく。知らない単語が出たが、今のサオリには心の余裕がない。バチカンから盗まれたというネーフェ。マサヒロの形見だと思っていた自分。どちらが正しいのか、サオリは測りかねていた。
アイゼンは廊下に置いておいた竹刀を手にとり、ネーフェから流れてくる空気の変化に対して自然と構える。ネーフェは臨戦体制のアイゼンには目もくれず、目を細めながら、サオリに向かってゆっくりと大股で向かっていった。まるで野良猫の警戒心をときながら近づく時のような、優しい優しい歩き方だ。
「先生のタクトを持っているのは私です !」
アイゼンはサオリとネーフェの間に割り込んだ。
「そうですね。それも返していただきたい」
ネーフェはいつも通りヒョウヒョウとしているように見える。だが、アイゼンの殺気に反応した瞬間の気配は大型獣のそれに匹敵した。
ーー体が警鐘を鳴らしている。
アイゼンは上下に軽く揺れながら喉を鳴らし、自分の理性を解除するために自分自身に向かってつぶやいた。
「それ以上沙織に近づくのなら…。攻撃します!」
全国大会優勝レベルのアイゼンが本気で攻撃をするというのは、目の前にいる相手を確実に傷つけるということだ。学年が違うために直接ネーフェから授業を受けたことはないが、もちろん人を傷つけることには大きな抵抗がある。試合ではないのだ。そして、教師に暴力を行使することは経歴にも傷がついてしまう。合格している東大にも入学できないかもしれない。それでも覚悟を決めたのは、サオリの命に大きな危険を感じたからに他ならなかった。
ネーフェは寝起きのライオンが如く無造作に歩を進める。
アイゼンは意を決した。一度決めると他に何も考えなくなる集中力がアイゼンの強みだ。
「キェェェェェェェッ」
アイゼンは気合いとともに閃光のような一歩を踏み出した。次の瞬間、ネーフェの右手の甲はアイゼンの竹刀に強く撃ち抜かれる。剣道は人体の弱点を竹刀で撃ち抜く武道だ。手の甲なんて痛くないような気もするが、実際は防具をつけていても一発で手が腫れ上がってしまう。強烈な攻撃だ。しかもネーフェは素手。皮が裂け肉が割れ、場合によっては骨が折れてもおかしくはない。
パァーン。
乾いた強烈な破裂音。無残な音。
だが、あっけらかんと何も無かったかのような顔をして、ネーフェはさらに一歩サオリに向かって進んでいく。
アイゼンは一瞬も止まらない。勢いを殺さずネーフェに体当たりした。
小手から体当たり。相手の体勢を崩して再度攻撃。剣道ではよくある技だ。
アイゼンの体当たりは凄まじい。低い重心から繰り出される強烈なカチコミは、ちょっとした選手なら派手に吹き飛ぶ。
だが、ネーフェに避ける様子はない。
ーー当たった!
瞬間、大きく弾き飛ばされたのはアイゼンだった。
「イスダスオーケー?」
ネーフェにはアイゼンを心配する余裕すらある。
アイゼンは体の中身の全てが真っ暗になったような感覚がしたが、すぐに意識を取り戻し、痺れた体をじっと耐えた。
ーー大丈夫か? 私の体。
体に鞭打ち体勢を立て直し、アイゼンは再びネーフェに向かっていく。
「キェェェイ!」
バチーン。
アイゼンはネーフェの脇腹を鋭く打ち抜いた。そのまま後ろに駆け抜ける。
ーーさあどうだ。
振り向いてネーフェを見る。
ーーこれだけぶつかってきてくれるのならば、フロイライン愛染は勝手に怪我をして動けなくなるでしょう。ここはまず、フロイライン沙織から押さえましょう。
ネーフェはアイゼンを振り返りもせず、サオリに向かってなおも歩みを進めている。
ーーまったく効いてない!
ただ、相手に対して驚いたからといって問題解決には繋がらない。アイゼンは驚く気持ちを押し殺して、冷静な分析を開始した。
一方、それを間近で見ていたサオリは、今すぐに靴を脱ぎ捨ててでも一目散に逃げだしたかった。アイゼンの攻撃が効かないのなら何をやっても効果はない。
だが、サオリの足下にはユキチが横たわっている。アイゼンがガイルタクトを奪った時に操られていた効果が切れたのだろう。気絶しているように動かない。
クマオが一生懸命引きずろうとしているが、ぬいぐるみに女子高生を引っ張る力はない。そもそもクマオの力では、チワワ一匹引っ張るのでさえ怪しいところだ。
「沙織! 先生の狙いは沙織だ! 友達は問題ない! 離れるんだ!」
ーーでも人質に取られちゃったら…。
サオリは困った目でアイゼンを見た。
「私がその子を守るから。沙織は逃げてミハエルと連絡を取ってくれ !」
ミハエルとはマサヒロの大親友でサオリとアイゼンの仙術の師匠である。サオリの家に間借りして暮らしている。ロシア生まれの元冒険家。二人の知る限り一番強く、一番頼れる人間だ。
ーー逃げる ?
サオリはアイゼンの一言で火がついた。
ーー誰かを呼ばれるのは良くないですね。
アイゼンの言葉でネーフェの動きが早まった。
ーーよし。
ネーフェの動きを見て、サオリは瞬時に飛び跳ねた。まるでウサギが月で遊んでいるかのように。ただし逃げ出すためではない。音楽室に入り、教壇の近くへ。ネーフェから逃げず、逆に虎穴の中へと飛び込んでいった。
「沙織?」
サオリはアイゼンから「逃げろ」と言われたらどうしても逃げたくなくなる。アイゼンにだけは負けたくない。アイゼンにだけは情けをかけられたくない。そういう性格だ。アイゼンはそのことに気づかなかった。
ただ、ネーフェの動きについてはアイゼンの予想通りだった。ネーフェはユキチを一瞥しただけで人質に取ろうとはしない。逃げたサオリを追って振り向いた。