第1話 Sa0 ch. (沙織ちゃん、寝る)
文字数 2,552文字
今年の二月十九日は、例年よりも暖かかった。
加藤沙織は、校舎の屋上へと続く階段の踊り場で寝転んでいた。セーラー服にダッフルコート。華奢な手首には、サオリにはそぐわないほどゴツい金の腕輪が鈍く光る。まるで持ち主の悩みを表しているかのようだ。
ーーアタピって、何のために生きてんだろ。
サオリは自分の大きな目からこぼれ落ちた涙の冷たさで目を覚ました。すぐに寝ぼけた頭で見ていた夢を思い出そうとする。
「夢は脳内整理のためなので見る理由がある。夢を思い出すことは自分の内面と会話をするようなものだ」
サオリが幼い時から修行している仙術の教えのひとつだ。
ーーアタピは五歳くらいで、背が高い青年に首を掴まれて持ち上げられてた。目の前ではパパやミハエルや知らない少年が倒れてた。手足バタつかせて抵抗したけどどうにもなんなくて、みんなが傷つく姿を見ることしかできなかった。襲いかかる怒号と逃げ惑う悲鳴の中、見える景色はひたすら残虐で、何も出来ない自分の弱さが悔しかった。
サオリは自分の涙をぬぐおうともせず、冬の乾燥に任せて考えを続けた。
自分の無力さを感じる夢。こういう時には現実でも無力さを感じる出来事があったはずだ。
サオリは考えて、知らず知らずのうちに思い出さないようにしていた出来事に気がついた。
ーーきっとアイちゃんのことだ。
親友の成功を祝っていた。けれども本当は、引き離されていく不安や成功にたいする嫉妬などのカッコ悪い感情が胸の中で渦を巻いていたのだ。
ーーアタピ、醜いな。
頬で固まりつつあった涙の筋には再び水分が補充された。
アイちゃん。藤原愛染は幼なじみで一番の親友だ。同じ学校で二歳年上の高校三年生。高身長でモデルのような美しさにもかかわらず、明るく優しいみんなの人気者。三年間生徒会長を勤め上げ、東京大学にも合格。そして昨日、全国女子剣道選手権大会で優勝を飾った。
いわゆるSクラス中のSクラス。追いかけても捕まえられない、沙織砂漠に浮かぶ蜃気楼のオアシスだ。
「友達というのは対等で比較するものではない」
そんなことは知っている。学校で習った。でも比較してしまう。
アイゼンにたいしてだけは、どうしても嫉妬心を抱いてしまう。
サオリは床に突っ伏しながら、自分が本当に生きているかを確かめるため、軽く声帯を震わせながらつぶやいた。
「かといって、こーんなはずじゃなかったんだけど」
ーー生きてた。
サオリは寝返りをうった。
ーーしかし実際、加藤沙織っていったい何者なんだろ? なーんか、この世界から浮いてしまっている感じ。シマッチャウオジサンにでも閉じ込められてるんじゃないかしらん。
喉の震えを確認したサオリは、次に指先から一本一本、自分の体が自由に動くかどうかを確かめた。
今日は沙織の誕生日。だからこそ自分の生きる理由を考えたい。誰もいない校舎の屋上に好んで来たのは、加藤沙織を演じることに疲れたからなのかもしれない。そしてサオリは、疲れていたからこそいつのまにか眠っていたのだろう。
ーー誕生日には誰もいないところで一休みしたいという気持ち。誰かわかってくれる人はいるかなー?
「人は人。自分は自分」
仙術の師匠であるミハエルから言われている。けれども沙織の本心は、「自分の存在は正しいんだよ」と世間から認められたいようだ。
そのためのひとつとして、サオリは仲良し同級生三人とともに『ピーチーズ』を名乗り、SNSに動画を投稿したりもしていた。他の三人も女子高生としての可愛さがあるので、フォロワー数や再生数はまあまあ伸びている。ただ数字が増えていく一方、心のどこかではこれが本当にいいものなのかどうかを測りかねていた。やりたいことではないような気がして、何が理由かはわからないが、とにかく疲れるのだ。
「とかくに人の世は住みにくい」
作家、夏目漱石(なつめそうせき)の一文だ。
ーーこんなことして一体何になるんだろ?
かといって、「やらないよ」と声高らかに宣言することはさらに恥ずかしい。意地を張ってるカマッテチャンのような気がしてしまう。それに誰かはわからないが、多数の人間から肯定されるのは悪い気分ではない。
ーーでもこの人生。先が読めちゃって泥地蔵なんだよなー。だってアタピだよ? カトーのサオちゃんだよ? なのに平凡。「人生なんてそんなもんだよ」と大人のような顔をして誰かに言われても、ぐうの音どころかパーもチョキも出したくなっちゃうほど納得できないよ。でも現実は、シタリガオトナの言う通り。だって一番輝くべきはずの誕生日だってのに、この後の展開がぜーんぶ読めちゃうくらい平凡なんだから。まずカメ(亀谷綾菜)からメール来て教室戻るでしょ。そしたらクラッカー鳴らしたりケーキくれたりするでしょ。アタピが「ありがと」てお礼言うでしょ。それから可愛い流行りのプレゼントもらって、SNSにあげる動画や写真をみんなで撮んの。で帰ったら、朝から溜まってるお祝いメールやSNSにも返信さん。んで、仙術の修行と学校の宿題して、また明日からは普通の日々。そーんな感じ。
サオリはピーチーズが誕生日サプライズをしてくれるというので、準備が終わるまで屋上近くの踊り場で待っている最中だ。まだメールは来ていない。そのまま考えを続ける。
ーーそうそう。もう自分の一生だってわかっちゃう。後二年、こんな感じで高校行って、大学に四年間行って、適当に誰かと付き合って、どこかの会社に入って、結婚して、子供作って、六十歳くらいまで働いて、最後は老いて、老人ホームでお陀仏チーン。こんな未来。ぬるくて平和な世界も嫌いじゃないけど、こんなの全然ロマンチじゃない。人間てさぁ、なんかこう、もっと、ロマンチな日々を過ごすもんじゃないの? 夢の中は怖かったけど、なんていうか、生きてるっていうか、充実感を感じたなー。
沙織は突然、虚無感(きょむかん)に襲われた。
ーーアタピ、ホントにどうしたいんだろ? ロマンチなことって、待ってたらいつか起きるもんなんだろか?
そこまで考えた時、床に張り付いたお餅のように柔らかい頬に振動が伝わった。スマートフォンのバイブ音ではない。誰かが階段を上がってくる音だ。サオリはそのまま、小さな耳をじっとそばだてた。
加藤沙織は、校舎の屋上へと続く階段の踊り場で寝転んでいた。セーラー服にダッフルコート。華奢な手首には、サオリにはそぐわないほどゴツい金の腕輪が鈍く光る。まるで持ち主の悩みを表しているかのようだ。
ーーアタピって、何のために生きてんだろ。
サオリは自分の大きな目からこぼれ落ちた涙の冷たさで目を覚ました。すぐに寝ぼけた頭で見ていた夢を思い出そうとする。
「夢は脳内整理のためなので見る理由がある。夢を思い出すことは自分の内面と会話をするようなものだ」
サオリが幼い時から修行している仙術の教えのひとつだ。
ーーアタピは五歳くらいで、背が高い青年に首を掴まれて持ち上げられてた。目の前ではパパやミハエルや知らない少年が倒れてた。手足バタつかせて抵抗したけどどうにもなんなくて、みんなが傷つく姿を見ることしかできなかった。襲いかかる怒号と逃げ惑う悲鳴の中、見える景色はひたすら残虐で、何も出来ない自分の弱さが悔しかった。
サオリは自分の涙をぬぐおうともせず、冬の乾燥に任せて考えを続けた。
自分の無力さを感じる夢。こういう時には現実でも無力さを感じる出来事があったはずだ。
サオリは考えて、知らず知らずのうちに思い出さないようにしていた出来事に気がついた。
ーーきっとアイちゃんのことだ。
親友の成功を祝っていた。けれども本当は、引き離されていく不安や成功にたいする嫉妬などのカッコ悪い感情が胸の中で渦を巻いていたのだ。
ーーアタピ、醜いな。
頬で固まりつつあった涙の筋には再び水分が補充された。
アイちゃん。藤原愛染は幼なじみで一番の親友だ。同じ学校で二歳年上の高校三年生。高身長でモデルのような美しさにもかかわらず、明るく優しいみんなの人気者。三年間生徒会長を勤め上げ、東京大学にも合格。そして昨日、全国女子剣道選手権大会で優勝を飾った。
いわゆるSクラス中のSクラス。追いかけても捕まえられない、沙織砂漠に浮かぶ蜃気楼のオアシスだ。
「友達というのは対等で比較するものではない」
そんなことは知っている。学校で習った。でも比較してしまう。
アイゼンにたいしてだけは、どうしても嫉妬心を抱いてしまう。
サオリは床に突っ伏しながら、自分が本当に生きているかを確かめるため、軽く声帯を震わせながらつぶやいた。
「かといって、こーんなはずじゃなかったんだけど」
ーー生きてた。
サオリは寝返りをうった。
ーーしかし実際、加藤沙織っていったい何者なんだろ? なーんか、この世界から浮いてしまっている感じ。シマッチャウオジサンにでも閉じ込められてるんじゃないかしらん。
喉の震えを確認したサオリは、次に指先から一本一本、自分の体が自由に動くかどうかを確かめた。
今日は沙織の誕生日。だからこそ自分の生きる理由を考えたい。誰もいない校舎の屋上に好んで来たのは、加藤沙織を演じることに疲れたからなのかもしれない。そしてサオリは、疲れていたからこそいつのまにか眠っていたのだろう。
ーー誕生日には誰もいないところで一休みしたいという気持ち。誰かわかってくれる人はいるかなー?
「人は人。自分は自分」
仙術の師匠であるミハエルから言われている。けれども沙織の本心は、「自分の存在は正しいんだよ」と世間から認められたいようだ。
そのためのひとつとして、サオリは仲良し同級生三人とともに『ピーチーズ』を名乗り、SNSに動画を投稿したりもしていた。他の三人も女子高生としての可愛さがあるので、フォロワー数や再生数はまあまあ伸びている。ただ数字が増えていく一方、心のどこかではこれが本当にいいものなのかどうかを測りかねていた。やりたいことではないような気がして、何が理由かはわからないが、とにかく疲れるのだ。
「とかくに人の世は住みにくい」
作家、夏目漱石(なつめそうせき)の一文だ。
ーーこんなことして一体何になるんだろ?
かといって、「やらないよ」と声高らかに宣言することはさらに恥ずかしい。意地を張ってるカマッテチャンのような気がしてしまう。それに誰かはわからないが、多数の人間から肯定されるのは悪い気分ではない。
ーーでもこの人生。先が読めちゃって泥地蔵なんだよなー。だってアタピだよ? カトーのサオちゃんだよ? なのに平凡。「人生なんてそんなもんだよ」と大人のような顔をして誰かに言われても、ぐうの音どころかパーもチョキも出したくなっちゃうほど納得できないよ。でも現実は、シタリガオトナの言う通り。だって一番輝くべきはずの誕生日だってのに、この後の展開がぜーんぶ読めちゃうくらい平凡なんだから。まずカメ(亀谷綾菜)からメール来て教室戻るでしょ。そしたらクラッカー鳴らしたりケーキくれたりするでしょ。アタピが「ありがと」てお礼言うでしょ。それから可愛い流行りのプレゼントもらって、SNSにあげる動画や写真をみんなで撮んの。で帰ったら、朝から溜まってるお祝いメールやSNSにも返信さん。んで、仙術の修行と学校の宿題して、また明日からは普通の日々。そーんな感じ。
サオリはピーチーズが誕生日サプライズをしてくれるというので、準備が終わるまで屋上近くの踊り場で待っている最中だ。まだメールは来ていない。そのまま考えを続ける。
ーーそうそう。もう自分の一生だってわかっちゃう。後二年、こんな感じで高校行って、大学に四年間行って、適当に誰かと付き合って、どこかの会社に入って、結婚して、子供作って、六十歳くらいまで働いて、最後は老いて、老人ホームでお陀仏チーン。こんな未来。ぬるくて平和な世界も嫌いじゃないけど、こんなの全然ロマンチじゃない。人間てさぁ、なんかこう、もっと、ロマンチな日々を過ごすもんじゃないの? 夢の中は怖かったけど、なんていうか、生きてるっていうか、充実感を感じたなー。
沙織は突然、虚無感(きょむかん)に襲われた。
ーーアタピ、ホントにどうしたいんだろ? ロマンチなことって、待ってたらいつか起きるもんなんだろか?
そこまで考えた時、床に張り付いたお餅のように柔らかい頬に振動が伝わった。スマートフォンのバイブ音ではない。誰かが階段を上がってくる音だ。サオリはそのまま、小さな耳をじっとそばだてた。