第101話 Jesus Christ(ジーザスクライスト)
文字数 2,701文字
リアルとは全く異質な気配。
戦場の時が一瞬止まる。
静寂。
全員が魔法陣を見る。
魔法陣からは魔人の手が四メートルほど、圧倒的な熱量を持ってそびえ伸びている。魔人の隣では、ヘンリーが両手を上げて哄笑する。魔法陣から吹き出す猛風で、いつの間にか色が変わった銀の長髪がなぴいている。
「はーっはっはっはっは。我が策、成れり! 神は降臨せり! 後はエスゼロの持つ腕輪、『愚者の冠』だ! あれはローマ教皇のもの! この世界と天界を繋ぐ鍵! 今こそあれを奪い返すのだ!」
黒い軍隊は、無線から聞こえてくるヘンリーの言葉で次々と我に返り、沙織に攻撃する準備を再度整える。魔人の出現と圧倒的な軍力。明らかな絶望が、これから沙織に襲いかかる。物語ではこういう時、無駄に敵役の喋る時間が長かったりして阻止することができるものだが、現実はそううまくいかない。考える暇(いとま)もない。時はけして止まってくれない。
ーーどうにかしなくては。
ーーどうにかしなくては。
しかし、沙織の頭はまったく働かない。ジョットは魔法陣の発動を止めようとしているが、魔法陣から出る光の柱によって、魔神やヘンリーには一切触ることすらできない。
沙織は自分の左手首を掴み、全ての想いをクルクルクラウンに込めた。
ーー動いて! 今しかない! 今しかないの!
沙織の想いに応えるように、クルクルクラウンがぼんやりと光を帯びる。
ーー発動した? 奇跡?
だが、沙織はクルクルクラウンの効用がよくわかっていない。使用法もわからない。モフフローゼンから抑える方法を学んだだけ。それなのに今、クルクルクラウンが発動している。
沙織の体が震える。
心臓が反転する。
全ての血が逆流する。
まるで青い血を身体中に回すような奇妙な感覚。
ギュルギュルギュルギュル。
時間を巻き戻したような感覚。
沙織は宙に浮いた自分の体を見た。
長い黒髪の細い男。
ヒゲはずいぶん剃っていないようだ。
半裸で腰に布を巻いている。
手足の平には大きな穴が空いてある。
頭には冠のようにクルクルクラウンを被り、後光がさしている。
黒い軍隊は全員動きを止めた。沙織を見ながら膝から崩れ落ち、胸に手を当てている者もいる。黒い軍隊は全員が胸に十字架をぶら下げていた。
「ジーザスクライスト(イエス・キリスト)……」
次々とつぶやき、沙織に祈りを捧げる。
ーーアタピ、えっ? 今……、キリストになってる?
沙織は何が起きているのかよくわからなかった。先ほどまで人を殺していた軍隊が全員キリスト教徒で、沙織がキリストの外見をした途端に戦うことをやめる。
ーーこれが世界を具現化するっていうクルリンの力? でもキリストていっても、中身はアタピだよ?
信仰とはなんなのか、沙織はわからなくなった。
ーーそういえば、池袋西口公園で新興宗教に入らないかと誘ってきた人も、「人間は悪いから信じられないだろう? 日蓮聖人はこうなることを千年前から予言していたのだ」とか言ってたけど、見たこともない日蓮という人のことは信用するのに、実際会って実際話している人のことは信用できないんだなーと思って何か矛盾を感じたなー。
宗教。
ーーアタピが変わったのは形だけ。それなのに全員がひれ伏す。人は何を求めて宗教に入るのだろう? 神が人を作ったから偉いのなら、力が強い者がすることなら、何をしてもいいのだろうか? しかも、その力を利用する宗教団体の正当性とは一体なんなんだろ?
沙織は、この場ですぐに答えが出ないことを考えてしまい、慌てて心の首を振った。とにかく今はこの場を治(おさ)めなければならない。キリストらしい言葉使いをするのだ。
「みなの者」
沙織は宙に浮きながら、ひれ伏す黒い軍隊に問うた。
「そなたたちは何者なのだ?」
「マルタ騎士団です」
軍隊のうちの一人が答えた。
マルタ騎士団。
イタリアで独立を認められている、マルタ共和国にあるキリスト教の軍隊。
ーー儀式化、形骸化されてると聞いてたけど、なるほど。そういう訳か。フリーメーソンと一緒で、ほとんどは形骸化されてても、火のないところに煙は立たないって訳ね。
答えた兵士の顔を見て、沙織は驚いた。
ーーネーフェしぇんしぇー!
ネーフェは気づかず、深く頭を下げたままだ。
「ネーフェよ」
沙織は、自分の思うイエスキリストに近づけるようにして、ゆっくりと話した。
「なぜお前たちは争うのだ?」
「はい。ローマ教皇の威厳を保つためです」
「私は、争うな、と言ったはずだ。なぜその戒律を破るのだ?」
「それは……」
「おい! そいつはイエスキリストではない! お前たちの心が具現化されて作られた幻のキリストに過ぎない! ただの小娘にお前たちは騙されているだけだぞ!」
静まりかえった戦場に、ヘンリーの声が響く。
「確かに、この方は、ただの小娘なのかもしれません」
マルタ騎士団がざわつく前に、ネーフェは下を向いたまま大声で答えた。そして、顔をキッと上げて続けた。
「小娘なのかもしれませんが、彼女は私の良心です。私はもう、良心の呵責に耐えることができない」
立ち上がったネーフェは、自分の持っていた一度もふるっていない綺麗な聖槍を、キリストの足元に投げ捨てた。
カラン。
カランカラン。
ガチャガチャ、カラカラン。
ネーフェの一言をきっかけに、マルタ騎士団が次々と立ち上がり、武器を捨てていく。
ーーしょせんはカトリックか。
ヘンリーは歯ぎしりをした後で、キリストになっている沙織に向かって走った。ネーフェが体当たりをし、ヘンリーの足にしがみつく。
「もうやめましょう!」
「うるさい!」
ヘンリーはネーフェを蹴りつける。ネーフェは大きな体を縮めて、なぜか蹴られるままだ。ただ手は離さない。
「なんなんだお前は! バチカンの腐敗を正すためにどうしても必要なファンタジーだということはわかっているのだろう?」
「わかっております! ただ……」
蹴られて力が緩んだネーフェは、再び大きな体でしっかりとヘンリーをおさえた。
「腐敗は、ファンタジーが無くても正せます! 人の力で、私が直します!」
「出来なかったからこのような結果になっているんだろうが!」
「いえ。人はたくさんの失敗をします。けれども成長もするのです。私が直します! もうこれ以上、争いはやめましょう……」
「ならば再度失敗をして、バチカンの礎となるがいい。HMTQ(ハー・マジェスティック・ザ・クイーン)」
ヘンリーは空中から巨大な西洋剣を出し、一瞬の躊躇もなくネーフェを切り裂いた。
「ジーザス……、クライスト……」
ネーフェは崩れるようにして倒れた。
戦場の時が一瞬止まる。
静寂。
全員が魔法陣を見る。
魔法陣からは魔人の手が四メートルほど、圧倒的な熱量を持ってそびえ伸びている。魔人の隣では、ヘンリーが両手を上げて哄笑する。魔法陣から吹き出す猛風で、いつの間にか色が変わった銀の長髪がなぴいている。
「はーっはっはっはっは。我が策、成れり! 神は降臨せり! 後はエスゼロの持つ腕輪、『愚者の冠』だ! あれはローマ教皇のもの! この世界と天界を繋ぐ鍵! 今こそあれを奪い返すのだ!」
黒い軍隊は、無線から聞こえてくるヘンリーの言葉で次々と我に返り、沙織に攻撃する準備を再度整える。魔人の出現と圧倒的な軍力。明らかな絶望が、これから沙織に襲いかかる。物語ではこういう時、無駄に敵役の喋る時間が長かったりして阻止することができるものだが、現実はそううまくいかない。考える暇(いとま)もない。時はけして止まってくれない。
ーーどうにかしなくては。
ーーどうにかしなくては。
しかし、沙織の頭はまったく働かない。ジョットは魔法陣の発動を止めようとしているが、魔法陣から出る光の柱によって、魔神やヘンリーには一切触ることすらできない。
沙織は自分の左手首を掴み、全ての想いをクルクルクラウンに込めた。
ーー動いて! 今しかない! 今しかないの!
沙織の想いに応えるように、クルクルクラウンがぼんやりと光を帯びる。
ーー発動した? 奇跡?
だが、沙織はクルクルクラウンの効用がよくわかっていない。使用法もわからない。モフフローゼンから抑える方法を学んだだけ。それなのに今、クルクルクラウンが発動している。
沙織の体が震える。
心臓が反転する。
全ての血が逆流する。
まるで青い血を身体中に回すような奇妙な感覚。
ギュルギュルギュルギュル。
時間を巻き戻したような感覚。
沙織は宙に浮いた自分の体を見た。
長い黒髪の細い男。
ヒゲはずいぶん剃っていないようだ。
半裸で腰に布を巻いている。
手足の平には大きな穴が空いてある。
頭には冠のようにクルクルクラウンを被り、後光がさしている。
黒い軍隊は全員動きを止めた。沙織を見ながら膝から崩れ落ち、胸に手を当てている者もいる。黒い軍隊は全員が胸に十字架をぶら下げていた。
「ジーザスクライスト(イエス・キリスト)……」
次々とつぶやき、沙織に祈りを捧げる。
ーーアタピ、えっ? 今……、キリストになってる?
沙織は何が起きているのかよくわからなかった。先ほどまで人を殺していた軍隊が全員キリスト教徒で、沙織がキリストの外見をした途端に戦うことをやめる。
ーーこれが世界を具現化するっていうクルリンの力? でもキリストていっても、中身はアタピだよ?
信仰とはなんなのか、沙織はわからなくなった。
ーーそういえば、池袋西口公園で新興宗教に入らないかと誘ってきた人も、「人間は悪いから信じられないだろう? 日蓮聖人はこうなることを千年前から予言していたのだ」とか言ってたけど、見たこともない日蓮という人のことは信用するのに、実際会って実際話している人のことは信用できないんだなーと思って何か矛盾を感じたなー。
宗教。
ーーアタピが変わったのは形だけ。それなのに全員がひれ伏す。人は何を求めて宗教に入るのだろう? 神が人を作ったから偉いのなら、力が強い者がすることなら、何をしてもいいのだろうか? しかも、その力を利用する宗教団体の正当性とは一体なんなんだろ?
沙織は、この場ですぐに答えが出ないことを考えてしまい、慌てて心の首を振った。とにかく今はこの場を治(おさ)めなければならない。キリストらしい言葉使いをするのだ。
「みなの者」
沙織は宙に浮きながら、ひれ伏す黒い軍隊に問うた。
「そなたたちは何者なのだ?」
「マルタ騎士団です」
軍隊のうちの一人が答えた。
マルタ騎士団。
イタリアで独立を認められている、マルタ共和国にあるキリスト教の軍隊。
ーー儀式化、形骸化されてると聞いてたけど、なるほど。そういう訳か。フリーメーソンと一緒で、ほとんどは形骸化されてても、火のないところに煙は立たないって訳ね。
答えた兵士の顔を見て、沙織は驚いた。
ーーネーフェしぇんしぇー!
ネーフェは気づかず、深く頭を下げたままだ。
「ネーフェよ」
沙織は、自分の思うイエスキリストに近づけるようにして、ゆっくりと話した。
「なぜお前たちは争うのだ?」
「はい。ローマ教皇の威厳を保つためです」
「私は、争うな、と言ったはずだ。なぜその戒律を破るのだ?」
「それは……」
「おい! そいつはイエスキリストではない! お前たちの心が具現化されて作られた幻のキリストに過ぎない! ただの小娘にお前たちは騙されているだけだぞ!」
静まりかえった戦場に、ヘンリーの声が響く。
「確かに、この方は、ただの小娘なのかもしれません」
マルタ騎士団がざわつく前に、ネーフェは下を向いたまま大声で答えた。そして、顔をキッと上げて続けた。
「小娘なのかもしれませんが、彼女は私の良心です。私はもう、良心の呵責に耐えることができない」
立ち上がったネーフェは、自分の持っていた一度もふるっていない綺麗な聖槍を、キリストの足元に投げ捨てた。
カラン。
カランカラン。
ガチャガチャ、カラカラン。
ネーフェの一言をきっかけに、マルタ騎士団が次々と立ち上がり、武器を捨てていく。
ーーしょせんはカトリックか。
ヘンリーは歯ぎしりをした後で、キリストになっている沙織に向かって走った。ネーフェが体当たりをし、ヘンリーの足にしがみつく。
「もうやめましょう!」
「うるさい!」
ヘンリーはネーフェを蹴りつける。ネーフェは大きな体を縮めて、なぜか蹴られるままだ。ただ手は離さない。
「なんなんだお前は! バチカンの腐敗を正すためにどうしても必要なファンタジーだということはわかっているのだろう?」
「わかっております! ただ……」
蹴られて力が緩んだネーフェは、再び大きな体でしっかりとヘンリーをおさえた。
「腐敗は、ファンタジーが無くても正せます! 人の力で、私が直します!」
「出来なかったからこのような結果になっているんだろうが!」
「いえ。人はたくさんの失敗をします。けれども成長もするのです。私が直します! もうこれ以上、争いはやめましょう……」
「ならば再度失敗をして、バチカンの礎となるがいい。HMTQ(ハー・マジェスティック・ザ・クイーン)」
ヘンリーは空中から巨大な西洋剣を出し、一瞬の躊躇もなくネーフェを切り裂いた。
「ジーザス……、クライスト……」
ネーフェは崩れるようにして倒れた。