第29話 Benz (ベンツ)
文字数 2,227文字
「……さ」
「……たね、沙織」
どのくらい時間が経ったのだろう。サオリはアイゼンに肩を揺すられ、クマオを抱えてただぼんやりとこの世界に立っていることに気がついた。
「一緒にいけるってさ」
目の前には満面の笑みのアイゼンがいる。サオリは辺りを見回した。
何もかも変わっていない。ただ、先ほどよりさらに外が暗くなっていた。
「準備が整いました」
黒服がモーゼに報告をしにきた。
「行こうか」
モーゼとイノギンが廊下に出ていく。サオリはまだ少しぼんやりとしている。まるで夢の中にいるようだ。緊張が解けたせいだろうか。
「おいで」
サオリはアイゼンに手をひかれ、されるがままに廊下に連れ出された。薄暗い廊下には黒服が二人いる。他に人の気配はない。校舎には誰もいないようだ。
「操られていた人達も病院に搬送しました。多少記憶を失っていますが、全員大した怪我もなく無事です」
黒服の一人がモーゼに報告をしている。
ーー全員。桃。無事だった。
サオリはなんだか安心した。アイゼンと手を繋ぎながら四年間も通い慣れた校舎の階段を降りる。
ーー嗚呼。もうこの世界には戻ってこられないのかもしれない。
サオリは自分の言葉で回り始めた歯車の重みを感じながら、静かに靴箱から革靴を出した。
「こちらを」
いつの間に持ってきたのだろう。外で待っていた黒服の一人が、教室に置いてあるはずの緑のコートと空色マフラーを両手で恭しく差し出してくる。どうして自分のものだとわかったのかは謎だが、アイゼンのコートも持ってきているので何かしらの判別方法があったのだろう。サオリは感謝の意を述べてコートとマフラーを受け取った。
二月の夜はそれでも寒い。自分の気持ちとは関係なく、体感的なことはやはり自分の精神に入り込んでくるものだ。目が覚めはじめる。サオリは白い息を長く吐きながら気持ちを落ち着かせた。
校門の外には黒塗りの高級車が三台止まっている。周りには黒服が何人もいる。
サオリはその集団に、一際大きなプロレスラーのような人影を見つけた。見覚えのあるシルエット。知らず駆け出していた。夢の世界をアイゼンに導かれ、漂うようにして歩いていたサオリの環世界。その中で唯一現実味を帯びている、世界で一番安心できる人物。
暗闇に光る青い目。車のライトに照らされて光る短めの金髪。全ての困難からサオリを包み込んで守るための、アーミースタイルで身を固めた最後の砦。
「ミハエル!」
遠間から飛びついたサオリの脇に手を入れ、ミハエルはサオリを誰よりも高く持ち上げた。背の低いサオリは今までは全てを見上げている景色だったが、持ち上げられて全てを見下ろす景色へと変化した。
道路を走るたくさんの車のヘッドライト。闇の中に溶け込むように動く何人もの黒服。先ほどまであんなにも威圧的に見えたモーゼ。あれほど強く見えたイノギン。神々しかった愛染。今では全てが小さなものに感じる。
サオリは、なぜか世界の美しさを感じた。
「なんで来てくれたの?」
サオリを地面に下ろしたミハエルは、野球のグローブのような手でサオリの頭を包み込む。
「沙織を守るのは私の役目だ」
安らぐ。
「なんで来て欲しいってわかったの?」
「愛染から連絡があったんだ。沙織が困っているから学校まで来て欲しいと。それに…」
ミハエルはいつも以上に慈愛溢れる目で、サオリを見ながら言葉を続けた。
「雅弘が守りにいけと言っているような気がしたんだ」
大柄の黒服が近づいてきた。
「あなたがミハエルさんですか? はじめまして。『ダビデの星』のモーゼです」
「ダビデの星…。ということはやはり沙織は」
「そうですね」
「愛染も?」
「はい」
「自分から?」
「そうです」
「なるほど…」
ミハエルは、左足にしがみついているサオリの頭に手を置きながら少し考えた。それから姿勢をただしてモーゼに頭を下げた。
「不束者とは思いますが、沙織たちをよろしくお願いします」
「はい。ミハエルさんはカトゥーと共にKOKをお手伝いしてらっしゃったのですよね? 歴戦の勇士に出会えて光栄です」
「そうですか…。そう言っていただけて幸いです」
「行きますよー」
イノギンが三台目のベンツの窓から身を乗り出して叫んだ。が、モーゼと共にいるミハエルを見つけてやってくる。いつの間にか銀色の鎧は着ていない。襟まで止まった赤いスーツに、黒いコートを羽織っている。首にはゴーグル。鋭い顔だが、やはり大学生くらいの年齢だ。体脂肪率の少なさそうな体つきをしている。
「もしかして…、噂のミハエルさんですか?」
「ああ」
「KOKのイノギンです」
二人は握手を交わした。
「ミハエルです。沙織と愛染に仙術を教えています。引退した身でありながら愛弟子たちが心配で、つい、しゃしゃってしまいました」
イノギンはミハエルにしがみついているサオリを見て、安心させてあげたいと思った。
「心配でしたら一緒に来られますか? もちろんオーラも扱えるでしょうし、カトゥーさんのチームに所属していたということは、ダビデ王ともお知り合いですよね?」
「まあ…、そうですね」
ミハエルはうなづいてサオリを確かめた。先程まで小動物のように震えていたが、今はイノギンの言葉を聞いてピタリと震えが止まり、ミハエルの顔をじっと見上げている。
ーーついていくか。
ミハエルは決心した。
「それでは…、一緒に行かせていただきましょう」
ミハエルは、先ほどよりも少しだけ力を込めてサオリを抱きしめた。
「……たね、沙織」
どのくらい時間が経ったのだろう。サオリはアイゼンに肩を揺すられ、クマオを抱えてただぼんやりとこの世界に立っていることに気がついた。
「一緒にいけるってさ」
目の前には満面の笑みのアイゼンがいる。サオリは辺りを見回した。
何もかも変わっていない。ただ、先ほどよりさらに外が暗くなっていた。
「準備が整いました」
黒服がモーゼに報告をしにきた。
「行こうか」
モーゼとイノギンが廊下に出ていく。サオリはまだ少しぼんやりとしている。まるで夢の中にいるようだ。緊張が解けたせいだろうか。
「おいで」
サオリはアイゼンに手をひかれ、されるがままに廊下に連れ出された。薄暗い廊下には黒服が二人いる。他に人の気配はない。校舎には誰もいないようだ。
「操られていた人達も病院に搬送しました。多少記憶を失っていますが、全員大した怪我もなく無事です」
黒服の一人がモーゼに報告をしている。
ーー全員。桃。無事だった。
サオリはなんだか安心した。アイゼンと手を繋ぎながら四年間も通い慣れた校舎の階段を降りる。
ーー嗚呼。もうこの世界には戻ってこられないのかもしれない。
サオリは自分の言葉で回り始めた歯車の重みを感じながら、静かに靴箱から革靴を出した。
「こちらを」
いつの間に持ってきたのだろう。外で待っていた黒服の一人が、教室に置いてあるはずの緑のコートと空色マフラーを両手で恭しく差し出してくる。どうして自分のものだとわかったのかは謎だが、アイゼンのコートも持ってきているので何かしらの判別方法があったのだろう。サオリは感謝の意を述べてコートとマフラーを受け取った。
二月の夜はそれでも寒い。自分の気持ちとは関係なく、体感的なことはやはり自分の精神に入り込んでくるものだ。目が覚めはじめる。サオリは白い息を長く吐きながら気持ちを落ち着かせた。
校門の外には黒塗りの高級車が三台止まっている。周りには黒服が何人もいる。
サオリはその集団に、一際大きなプロレスラーのような人影を見つけた。見覚えのあるシルエット。知らず駆け出していた。夢の世界をアイゼンに導かれ、漂うようにして歩いていたサオリの環世界。その中で唯一現実味を帯びている、世界で一番安心できる人物。
暗闇に光る青い目。車のライトに照らされて光る短めの金髪。全ての困難からサオリを包み込んで守るための、アーミースタイルで身を固めた最後の砦。
「ミハエル!」
遠間から飛びついたサオリの脇に手を入れ、ミハエルはサオリを誰よりも高く持ち上げた。背の低いサオリは今までは全てを見上げている景色だったが、持ち上げられて全てを見下ろす景色へと変化した。
道路を走るたくさんの車のヘッドライト。闇の中に溶け込むように動く何人もの黒服。先ほどまであんなにも威圧的に見えたモーゼ。あれほど強く見えたイノギン。神々しかった愛染。今では全てが小さなものに感じる。
サオリは、なぜか世界の美しさを感じた。
「なんで来てくれたの?」
サオリを地面に下ろしたミハエルは、野球のグローブのような手でサオリの頭を包み込む。
「沙織を守るのは私の役目だ」
安らぐ。
「なんで来て欲しいってわかったの?」
「愛染から連絡があったんだ。沙織が困っているから学校まで来て欲しいと。それに…」
ミハエルはいつも以上に慈愛溢れる目で、サオリを見ながら言葉を続けた。
「雅弘が守りにいけと言っているような気がしたんだ」
大柄の黒服が近づいてきた。
「あなたがミハエルさんですか? はじめまして。『ダビデの星』のモーゼです」
「ダビデの星…。ということはやはり沙織は」
「そうですね」
「愛染も?」
「はい」
「自分から?」
「そうです」
「なるほど…」
ミハエルは、左足にしがみついているサオリの頭に手を置きながら少し考えた。それから姿勢をただしてモーゼに頭を下げた。
「不束者とは思いますが、沙織たちをよろしくお願いします」
「はい。ミハエルさんはカトゥーと共にKOKをお手伝いしてらっしゃったのですよね? 歴戦の勇士に出会えて光栄です」
「そうですか…。そう言っていただけて幸いです」
「行きますよー」
イノギンが三台目のベンツの窓から身を乗り出して叫んだ。が、モーゼと共にいるミハエルを見つけてやってくる。いつの間にか銀色の鎧は着ていない。襟まで止まった赤いスーツに、黒いコートを羽織っている。首にはゴーグル。鋭い顔だが、やはり大学生くらいの年齢だ。体脂肪率の少なさそうな体つきをしている。
「もしかして…、噂のミハエルさんですか?」
「ああ」
「KOKのイノギンです」
二人は握手を交わした。
「ミハエルです。沙織と愛染に仙術を教えています。引退した身でありながら愛弟子たちが心配で、つい、しゃしゃってしまいました」
イノギンはミハエルにしがみついているサオリを見て、安心させてあげたいと思った。
「心配でしたら一緒に来られますか? もちろんオーラも扱えるでしょうし、カトゥーさんのチームに所属していたということは、ダビデ王ともお知り合いですよね?」
「まあ…、そうですね」
ミハエルはうなづいてサオリを確かめた。先程まで小動物のように震えていたが、今はイノギンの言葉を聞いてピタリと震えが止まり、ミハエルの顔をじっと見上げている。
ーーついていくか。
ミハエルは決心した。
「それでは…、一緒に行かせていただきましょう」
ミハエルは、先ほどよりも少しだけ力を込めてサオリを抱きしめた。