エピローグ 4 その行方 時の忘れもの(3)

文字数 1,097文字

 時の忘れもの(3)
 


 ――ナイフなんか握って……。
 老婆はすでに背中を見せて歩き出し、新郎新婦を囲む人だかりがその先にある。
 ――まさか!?
 そう感じた途端、思わず声になっていた。
「おい、なにする気だよ!」
 ところが驚くくらいに声が掠れて、それでもきっと老婆の耳には届いたはずだ。
 なのに反応はまるでなく、彼女の歩みは止まらない。
 どうしようかと思っていると、あっという間にその瞬間は訪れた。
 老婆の右手が振り上げられて、いつの間にかナイフが逆向き。もしもそのまま振り下ろすなら、なんであろうと当たった何かは無事では済まない。
 さらに次の瞬間、原裕治の視界に美津子の姿がしかと映った。
 老婆のすぐ先、美津子が背中を見せて立っている。
 ――美津子を狙っているのか!?
 そう感じた途端、彼は再び大声を出した。
 老婆に向かって突進し、原裕治は声を限りに叫ぶのだった。
「殺人鬼がいるぞ! 逃げろ! 逃げるんだああああ!」

              ✳

「本当に行かないの?」
「うん、だって、それどころじゃないもの……」
 本当ならば今頃は、まさに旅行中のはずだった。
 鎌倉でのパーティーが決まり、せっかくだからと新婚旅行に行こうとなった。
「海外とかにする?」
 そんな幸一の問い掛けに、由子は間髪入れずに告げたのだった。
「海外もいいけど、車でさ、日本全国まわるなんてのが、わたしはいいなあ……もちろん、そっちの休みがどれくらい取れるかってのに、よるけどね〜」
 そんな由子の言葉を受けて、幸一はなんと、丸々ひと月という休みを取った。
「でさ、本田くんはどうしてるの? せっかく休み取ったのに……まさか、おやすみ返上しちゃったとか?」
「ううん、あの人はね、しっかり働いてるわ。でも、病院の方は、代わりを頼んた人がいるじゃない? だからいきなり、お医者さんのボランティア団体に所属して、今頃、あっちこっち飛び回ってるわ」
 そんな由子の言葉を聞いて、美津子は顔をしかめ、それでも必死に笑って見せた。
 パーティ当日、原裕治の大騒ぎのおかげで、美津子は難を逃れることができていた。
 あの瞬間、原裕治の声に振り返り、老婆と共にナイフが途端に視界に入る。美津子は慌ててしゃがみ込み、それから転がるように老婆のそばから逃げ出したのだ。そこへ原裕治が走り込み、タックルさながらに老婆目掛けて体当たりを見せた。
 老婆はホテル関係者に取り押さえられ、あっという間にどこかへ連れて行かれる。
 その時、美津子は当然、それが順子じゃないかと思ったが、絶対そうかと訊ねられたら自信がない。だから美津子はその日一日、誰にも言わないままだった。
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