第5章 1994年 -   3

文字数 2,048文字

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「実は直美が、病院からいなくなってしまって……幸一くん、直美の行方に心
 当たりがないだろうか? ちょっとでも思い付くところがあれば、ぜひ、教
 えて欲しいんだ」
 
 ――直美が、病院からいなくなった……? 

「ちょっとしたゴタゴタがあってね、いなくなったのに気が付いたのは、今か
 ら三時間くらい前になるんだ……」
 
 一瞬、幸一との関わりを疑っているかと思ったが、

 父親の言葉には、そのような感じはまるでない。

 とにかく三時間も見つからないなんて、普通なら考えられないことだろう。

「とにかく、今から僕もそっちに行きます」

 それだけなんとか声にして、幸一は自転車に飛び乗ったのだ。

 病院の敷地内に自転車ごと滑り込むと、

 クラクションが聞こえて車から直美の父親、稔が顔を出した。

 彼はすぐに車から降りて、まだ遠くにいる幸一に頭を下げる。

 そうしてやってきた彼に感謝の言葉を告げた後、

 病室への道すがら何が起きたのかを教えてくれた。

 やはり直美は、幸一が耳にした話の続きを聞いていた。

 彼女はその時、部屋にいた全員に向け、己の気持ちを精一杯声にする。

「もういい、もういいよ、わかったから……」

 一斉に注がれる自分への視線を、直美は涙目でしっかり受け止め、

「だからママ、言い合うのは止めて……」

「直美ちゃん、違うのよ!」

 そう言って駆け寄る母親に、さらに静かな声を上げるのだ。

「わたし疲れた……もう、部屋に帰りたい」

 そしてその場に、倒れこむようにしゃがみ込んだ。

「それから病室で眠ってしまって、だからちゃんとした説明は、直美が起きて
 からにしようということになってね、妻とここで、目を覚ますのを待ってい
 たんだ」
 
 どうして、直美がいきなり応接室に現れたのか? 
 
 そんなこともきっと、二人は不思議に思ったはずだ。
 
 しかし稔は、そこには一切触れようとしない。

 だから幸一だけが心の奥で、ずっとその理由を思い続けた。 

 ――俺が、あの部屋を探したせい、だろうか?

 確証があるわけではなかったが、

 幸一にはそんな理由くらいしか思い付かない。

 そうして眠ってしまった直美は、それからなかなか目を覚まさなかった。

 いなくなるなんて思いもしない両親は、

 ほんの三十分ほど病室を留守にする。

 用事を済ませ戻ってみると、

 直美の姿は消え失せ、手付かずの病院食だけが残されていた。

「彼女、お金って持っていたんですか?」

「いざという時のために、確か、持っていたと思う……」

 幸一の問い掛けに、稔がそう言って順子の方へ視線を向ける。

「三万円……持たせてましたけど」

 だからなんだという顔付きで、順子があらぬ方を見ながらそう言った。

 そこは直美の病室で、三人立ったままでの会話だった。

 稔は藁にも縋りたいといった表情を見せ、

 順子もきっと同様だろうが、幸一へは滅多に視線を向けようとしない。

 そして直美は、ちゃんと外出着に着替えていなくなっている。

 それは何かあった時のためにと、

 順子が季節ごとに運び込んでいたもので、

 ――三万持って、外出着に着替えて出ていった。

 そんな事実を知って、不意にある場所のことを思い出した。

「あの、もしかしたら、なんですけど……」

 目前の死を意識しているなら、たった一つだけ思い当たる場所がある。

 しかしこんな時間に向かうところじゃないし、

 きっと無駄足になってしまう......。

 そんな葛藤を抱きつつ、幸一は自信なさげに声にしたのだ。

 しかし稔は身を乗り出して、

「いいんだ、それはここから近いかい?」

「いえ、でも、本当に違うかも知れないから……」

 はっきり場所を告げようとしない幸一に、

 さらに迷いのない言葉を口にする。

「今からそこに行ってみよう! 幸一くん、悪いけど案内してもらえるか
 な? その、思い付いた場所とやらに、今から行ってもらえないか?」
 
 そうして順子を病室に残し、幸一と一緒にタクシーに乗り込む。

 車中でやっと行先を聞いて、稔はかなり驚いた顔を見せた。

 しかしすぐに真顔になって、

 静かではあるが、強みを含んだ感じで幸一へ告げる。

「とにかく行ってみよう。君がそう思うのには、それなりに理由があるんだろ
 う? なら行ってみる価値はきっとある。わたしらの方には、何もないん
 だ。あの娘が行きたいと思う場所を……そんなことを、まるで知らないまま
 だった、これまでずっと……」
 
 途切れた言葉のその先は、目的地に着いても語られることはなかった。

 それから重苦しい沈黙が続き、

 タクシーは一時間掛からずに目的地へ到着する。
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